先週からの続きです。
ピラトは玄関先で茨の冠・紫の服をつけたイエスを見せることで、イエスの釈放を狙いましたが不調に終わり、もう一度イエスへの尋問をいたします(8-11節)。「お前はどこから来たのか」(9節)。ガリラヤ出身であることを確かめたかったのでしょうか。ガリラヤ差別が祭司長たちの中にあることをピラトは知っています。そして、かつてピラトもガリラヤ人虐殺を行ったことがありました(ルカ13:1以下)。祭司長たちが強く出る理由はその辺りに原因があるのかと考えたのでしょう。
これに対するイエスの答えは11節です。「神のもとから来た」ということが大意でしょう。「あなたが裁判をする権限は神からのものなのだ。仮に死刑判決をくだしても、それは神の計画の中にある。わたしは神から派遣されて殺されるために生まれた。この神の救いの計画を知らないままに、抹殺計画を思い通りに成し遂げたと思い込んでいる人々は、本当に罪深い」というような意味合いが、短く書かれているのです。地理的・政治的な質問に対して宗教的・神学的回答がなされています。
ピラトはこの尋問の後に、己の良心に照らされ、つまり宗教的倫理的な意味でイエスを釈放しようと思うようになります。だんだん気が変わる様子がよく描かれています。ところが、ユダヤ人権力者たちは再び吠えます。皇帝への不誠実の咎で皇帝に直接訴えるぞと、ピラトを脅したのです(12節)。
ピラトは一発逆転を賭けて、公開法廷を開きます。これは最後の機会です。ガバタと呼ばれる裁判の壇が置かれている「敷石が敷き詰められている場所」にイエスを連れ出し、人々を集めたからです。なお細かい翻訳の話ですが、ヨハネ福音書で「ヘブライ語」という場合は、「アラム語」のことです。そしてアラム語でガバタには「敷石」の意味はありません。「高み」という意味です。だからこのガバタは敷石の敷き詰められた場所という意味ではなく、講壇のようにして石を積んだ裁判の壇の「高み」のことです。新共同訳の訳語で言えば「裁判の席」(ベーマ)がガバタと呼ばれていたと解します(田川訳)。
このベーマの設置された公開裁判の場は、ピラトにとって最後の逆転を賭けるのにふさわしい場所でした。例によってヨハネ福音書は細かい事実に詳しいものです。ガバタと呼ばれたベーマにピラトが着くとき(「着かせた」ではなく「着く」と解する)、ユダヤ人たちはある虐殺事件を思い出すからです。
『ユダヤ戦記』という聖書外資料があります。ヨセフスというユダヤ人が書いた聖書の同時代に歴史書です。その中に、ピラトが実に残酷な統治者であったことが記されています。ユダヤ戦記Ⅱ175-177です。水道工事のためにエルサレム神殿の宝物を用いたピラトに対して、怒ったユダヤ民衆が総督官邸を取り囲んだ際のことです。ピラトはこの事態を予測していて、あらかじめ暴徒の中に棍棒を隠し持ったローマ兵を多数紛れ込ませていました。そして、ベーマ(「総督の座」秦剛平訳)の上から合図を送り、棍棒を持ったローマ兵が多くのユダヤ人たちを殴り殺します。ある者は逃げようとした仲間たちに踏み殺されて死んだのだそうです。この有り様を見て、ユダヤ民衆は沈黙して、総督に反対する意見は圧殺されたという事件が過去にありました。
ピラトはこの虐殺事件を利用してはったりをかけたのです。ベーマにピラトが着くとき、ユダヤ人たちは虐殺を恐れてピラトに反対することはなくなるのではないかと期待したのです。もちろんローマ兵を忍び込ませる時間はありませんでした。これははったりです。「見よ、あなたたちの王だ」(14節)という言葉を、何かの合図だと誤解してくれれば、ユダヤ民衆は静まるとピラトは期待したのです。
ところが人々は吠えます。「上げろ、上げろ、十字架につけろ」(15節)。「殺せ」は意訳です。群衆の悪さをあまり描かないヨハネ福音書なので、直訳「上げろ」で良いでしょう。群衆よりも祭司長たちの悪が強調されています。そして福音書全体は「イエスが上げられる」ことを十字架・復活の意味で用いています。神の計画が進んだという意味でも直訳が良いでしょう。
「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」とピラトが言うと、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はいません」と答えました。この言葉は、12節の脅し「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と対応しています。ピラトの上司はローマ皇帝です。皇帝の名を持ち出すことがピラトに対する急所なのです。今回ばかりは何が何でも自分たちの思いを通すというアンナスら祭司長たちの悪意の強さが分かります。
祭司長たちの発言については、宗教上の建前でさえ、他ならない宗教者自身がかなぐり捨てているところにひどさがあります。ユダヤ人の信仰の原点は、「主だけが王である」というところにあります(詩編145編以降)。だからモーセに導かれた荒野時代が理想となるのです。荒野には人間の王がいなかったからです。「ローマ皇帝のほかに王はいない」という言葉は、自分たちの信仰の中心すら邪魔者を消すためにないがしろにする不誠実なあり方を示しています。目の前の隣人を愛せない者は、神を愛することはできないものです。
こうしてピラトは寄り切られ、イエスを死刑執行をする兵士たちに引き渡します。過越祭の準備の日の午後、子羊を各家庭で殺す頃のことです(14節)。
イエス・キリストの十字架に向かう道は、そこに関わる人々の罪を明らかにしていきます。前から度々指摘しているとおり、教会が語る「罪」とはハマルティアというギリシャ語の単語です。意味は「的外れ」であり、宗教的倫理的な広い意味です。本田哲郎神父は「道の踏み外し」と訳します。倒錯した生き方と考えれば良いでしょう。
11節のイエスの言葉の「罪」はハマルティアが使われています。この点、18:38、19:4、19:6の罪は別の単語であり、「(告訴)理由」というように訳すべきです。ピラトは裁判上の訴因にこだわったのですが、イエスは罪を問題にしているのです。このすれ違いをきちんと表現した方が良いでしょう。しかも、11節のハマルティアは単数です。一つ二つと数えられる諸々の悪行ではなく、根源的な一つの罪が問題となっています。さまざまな人々がイエスにさまざまな悪を行っていますが、しかし根っこにあるのは一つの罪であるということです。鍵語は「引き渡し」(パラディドミ)です(11・16節。Ⅰコリ11:23も)。
イエス・キリストの十字架に至る道は、人々がイエスを「引き渡していった道のり」です。13:21でイエスはユダの裏切りを予告します。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。ここに同じ動詞パラディドミが使われています。「裏切る」の直訳は「引き渡す」です。18:2・5の「裏切ろうとしていたユダ」も「引き渡そうとしていたユダ」が直訳です。ユダはローマ兵と祭司長の下役たちにイエスを引き渡しました。
そして、ローマの千人隊長と下役たちは、イエスを逮捕し拘束し、祭司長アンナスの家に連れて行きます(18:12)。これも実質的には「引き渡し」です。祭司長アンナスは大祭司カイアファのもとにイエスを送ります(18:24)。これも「引き渡し」です。
カイアファら祭司長たちはイエスをローマ総督ピラトの官邸に連れて行きます(18:28)。この行為が今日の11節で言う「わたし(イエス)をあなた(ピラト)に引き渡した」という行為です。そして最後にこのピラトがイエスをユダヤ人権力者たちに引き渡す(パラディドミ)ことになります。
様々な引き渡し方や、引き渡した理由があります。しかし、その根っこには一つの根源的な罪があり、そしてその結果としては一人の人の十字架刑死があります。たとえばユダはイエスにがっかりしたのだと推測します。自分の期待通りの民族主義的・軍事的・政治的救い主・ユダヤ人の王ではないイエスの生き方に失望をして、イエスを引き渡したのでしょう。熱狂的な憧れは支配欲と裏腹の関係です。「隣人との擬似一体化」にユダの倒錯があります。
たとえばローマ兵や下役たちは個人的にはイエスに恨みがありません。職務として命令されたから無茶なこともやらざるを得ないのです。そして自分が責任を負わなくて良いと思うから暴力にも加担することができます。官僚たち・兵士たちの匿名性が、無関心と無責任を生みます。個人として責任を問われないので、行政裁量をふりかざしたり、拷問や殺人をしたりできるのです。この類の「隣人不在」に行政官たちの倒錯があります。
たとえばローマ総督ピラトはイエスに訴因が無いことを確信していました。アンナスらのでっちあげであり冤罪だと知っていました。それなのに良心的な裁判官になりきれませんでした。ピラトは死刑判決も無罪判決も出すことができる権限を持っていました(10節)。しかし、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いている」(12節)という脅しに揺さぶられました。13節以降の最後の賭けにも失敗し、結局ピラトも寄り切られます。隣人の救いよりも自己保身、これがピラトの倒錯です。
最も大きな罪を犯したのはアンナスに操られた大祭司カイアファら祭司長たちです。彼らは自分の支配欲をむき出しにして、邪魔な者を殺すことを全肯定しています。現在の支配的地位が保たれるならば、どんな人をも犠牲にしても良いと思っています。そしてそのために自分の権力を濫用することに躊躇がありません。自分のために隣人がいると思っていることに彼らの倒錯があります。
こうして様々にイエスの引き渡しを行った人々によって、根源的な罪があぶりだされます。罪とは、関係を正しく保つことができない状態であり、生き方です。ユダのように隣人と近すぎる関係もだめです。下役・ローマ兵のように隣人と遠すぎる関係もだめです。ピラトのように隣人にすべきことをしない関係もだめです。アンナスのように隣人にすべきでないことをする関係が最悪にだめです。
この隣人との正しくない関係は、神との正しくない関係と類似します。神に近すぎる時、思い通りに動かない神をわたしたちは憎みます。神に遠すぎる時わたしたちは希望を失い無感動になります。
神にすべきことをしないというのは、感謝をしない生き方です。2000年前にすでに救われていたということに「ありがとう」と言う感謝。イエスを引き渡す類の罪は現代に生きるわたしたちにも当てはまります。倒錯しているわたしたちでさえ死ぬべきではありません。イエスのいのちを代わりに受け取って生きるべきなのです。あの十字架を身代わりと信じるなら永遠のいのちを生きることができます。「ありがとう」と言うだけで救われるのです。
神にすべきでないことをするというのは、自分を神とする自己絶対化の生き方です。これこそ最大の的外れな生き方です。十字架はすべての人がこの罪を持っていることを教えます。その身代わりにイエスが上げられたのだと痛みを伴いつつ感謝する時に、悔い改めが起こり自己絶対化を棄て続ける礼拝者の生活が始まります。神と人と正しい関係を保ちましょう。神の救いの計画の中に参加していきましょう。すべての人はこの生き方に招かれています。