ヨハネ福音書21章は興味深い内容です。ガリラヤ湖に復活のイエスが現れ弟子たちと生き生きと会話を交わすという仕方で会ったと語るからです。この福音書だけの記事です(マタイ福音書との関連は置いておきます)。
使徒言行録は、復活のイエスの言葉として「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)という命令を記載しています。ルカ福音書と使徒言行録(まとめて「ルカ文書」と呼びます)は、弟子たちがエルサレムで復活のイエスと出会い、エルサレムで聖霊を受け、エルサレムから始めてギリシャ語圏世界へと教会が広がるさまを描きます。ユダヤから非ユダヤ人へ、ペトロからパウロへという図式です。だから、ガリラヤに弟子たちが行くことそのものが、イエスからいただいた命令への重大な違反となります(使徒1:8)。
それに対してマルコ福音書は、復活のイエスがガリラヤで弟子たちと出会うために先立って行かれるという天使の約束を記します。「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マコ16:7)。マルコ福音書はこれで終わってしまい(元来の結びは16:8と採る)、実際にイエスと弟子たちがガリラヤで会ったかどうか分かりません。とは言え確実に、「復活のイエスと出会うためにはガリラヤへ行かなくてはならない」というのがマルコの主張です。それは使徒言行録への反論です。「エルサレム教会やパウロの教会にイエスは居ない。今もガリラヤ民衆の間でよみがえっている」という主張です。
ヨハネ21章の著者は、この論争を知っていてヨハネ福音書に加筆したのでしょう。その主張はマルコに近いものです。ガリラヤで復活のイエスに出会った弟子が7人居たという内容だからです。これはマルコ福音書の末尾に素直につながる物語です。この出来事はペンテコステの後だとされます(20:22参照)。聖霊を受けてエルサレム教会は発足しました。それでも、教会は絶えず復活のイエスに出会う努力をしなくてはいけないということです。じっとエルサレムにとどまってはいけません。また一足飛びにギリシャ語圏に行くべきでもありません。むしろガリラヤに行くべきなのです。あるいは生前のイエスのようにエルサレムとガリラヤを、サマリアを通りながら、何回も往復していくべきなのです。
21章の著者は、おそらく著者ヨハネ(「イエスの愛しておられたあの弟子」7節)と同じ教会の者でしょう。ヨハネの教会はパウロ主義の教会たちとも、主の兄弟ヤコブが牛耳るエルサレム教会とも距離をもっていました。21章の著者はヨハネが経験したガリラヤでの復活者との出会いを聞いていたと思われます。そしてマルコ福音書(反パウロ・反ペトロ)の続きをヨハネ教会の立場で書いたのでしょう。そのような大枠を前提にして、21章を読み進めていきたいと思います。21章は初代教会の有り様についての貴重な証言です。というのも「エルサレムだけではなくガリラヤにも最初期からキリストの教会は立っていたのだ」と記しているからです。ガリラヤ教会はマルコの情報源です。
7人の弟子は、マルコ16:7にある「イエスは先にガリラヤに行っている」という言葉に従ってガリラヤ地方に赴きます。ペンテコステの後なのですから、彼らがガリラヤに行った理由は、「開拓伝道」のためです。キリスト教会を新しく建てるためにガリラヤ地方に行ったのです。それはおそらくカファルナウムという町であり(4:46以下)、ペトロの妻と姑が住んでいた家を拠点にした伝道活動です(マコ1:29-34。31節「もてなす」は「仕える=弟子となる」)。
7人のうちガリラヤ出身の者は、ペトロ、ナタナエル、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)の4人です。トマスと匿名の二人の弟子についてはよくわかりません。なお、ヨハネ福音書では不明・不詳ですが、マルコ福音書を前提にすると7人うちのペトロ、ヤコブ、ヨハネは漁師です。ということは、「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」というやりとりは(3節)、単発の思いつき行為ではありません。彼らは生活のために、ガリラヤで伝道をする際には働いて身銭を稼いでいたということです。
エルサレムで彼らは自分の手についた漁師という職業を発揮することはできません。ガリラヤ湖がないからです。そこでは教会員みんなの共有財産を基に暮らしていました(使徒2:43-47。Ⅰコリ9:3以下も参照)。ある程度の人数がいれば可能です。しかしガリラヤの開拓伝道初期にはそういうわけにはいかないのです。
第一にこの漁の記事はガリラヤ伝道においては伝道者も職業を持ちながら行っていたということを示しています。パウロという人も天幕造りという職業を持っていました。しばしば徹夜仕事もあったようです。そうして苦労してお金を稼ぎながら伝道をしていたのです。いわゆる「兼職牧師」のようなものです。それと似たことをペトロも実家を開放して行っていたということです。夜通し漁をしても取れない日もあったことでしょう。それでも不思議な守りの中で、何とか生活できたという奇跡と恵みが、今日の箇所の証です。イエスの言う通りに行うと食べていかれたというわけです。
それにしてもこれは大変な毎日です。眠い目をこすりながら礼拝の準備をし、同じように日曜日(当時は平日)の労働で疲れた教会員たちを自宅に迎えて、「家の教会」をかたちづくっていたのでしょう。それがガリラヤのカファルナウム教会の姿だったのです。
さてもう一つの視点があります。それは漁という行為が、布教・伝道をも意味しているという視点です。マルコ福音書を前提にすると、ペトロたちはイエスの弟子となった瞬間「人間の漁師」となったのです(マコ1:17)。漁をするということは一つのたとえです。仲間を増やし、教会員を増やす努力を指すたとえです。
ガリラヤで教会をつくるということは困難な作業だったのでしょう。最初の7人からなかなか人数が増えなかったのではないでしょうか。一匹も取れないという事態は信者が一人も得られない状況のたとえでしょう(3節)。
そこに教会の部外者である一人の野宿者が現れます(4節)。ガリラヤの教会に奇妙な助言をする人です。「こっちじゃないよ、あっちだよ」と言うのです(6節)。おそらくペトロたちが行っていた伝道方策ではなく、意外なことをしなさいという助言だったのでしょう。教会の者たちは柔軟にその人の助言通りに伝道をしてみました。すると大勢の人が教会に訪れ信者となりました。
この時点でヨハネは気づきました。名も知らぬ野宿者はイエス・キリストだったのだと気づいて、「彼が主である」という信仰告白をしたのです(7節)。ペトロもつられて気づきます。上着を着たということは、改めてイエスに会うために身繕いをした、つまり礼拝の備えをしたということでしょう。
その日の礼拝にも主の晩餐はありました。毎週行われていたからです。当時は実際の食事をしながら説教も賛美もしていました。あの野宿者の姿はありません。しかし、7人の者はその礼拝の中で行われている晩餐に、復活のイエス・キリストの姿を見たのです。食卓の準備している奉仕者の姿に、炭火をおこして待っているイエス・キリストの姿を見たのです(9節)。礼拝中、晩餐に人々を招いている奉仕者の呼びかけに「さあ、来て、朝の食事をしなさい」というイエスの声を聞いたのです(12節)。パンを取り割いて渡す奉仕者の手に、イエス・キリストの手を見たのです(13節)。共に杯を分かち合う奉仕者の口に、イエス・キリストの口を見たのです。「彼/彼女が主イエスである」。
キリスト信者を指す言葉に「魚」があります。迫害下、自分たちがキリスト信者仲間であることを伝えるために魚のマークを書くシーンが、とある映画にもありました。ギリシャ語の「魚」は、I-Ch-Th-Y-Sという綴りです。その一文字ずつを五つの単語の略語とすると、イエス(I)、キリスト(Ch)、神(Th)、子(Y)、救い主(S)を意味しうるからです。だから、この漁が伝道活動のたとえであるという想定は、あながち間違えていないと思います。
そうなると「153匹もの大きな魚」の意味が問われてきます。7名から9名(ペトロの妻と姑を算入)しかいなかった開拓伝道の教会に、次の週に153人の人が訪れたということなのでしょうか。それを模範とするとなると、泉教会に何人来ることが望まれるのでしょうか。古代からこの153という数字に込められた意味はさまざまに解釈されてきましたが、何らの定説はありません。以下はわたし流の解釈です。
153は17の「三角数」です。たとえば1+2+3=6という場合、6は3の三角数です。17の場合は、1+2+3+4+・・・+16+17=153となります。ここに著者の人間に対する考え方があります。おそらくガリラヤの教会に訪れたのは17人の人々だったのだと思います。網が破れなかったということは(11節)、民家のレベルで入りきったということのたとえでしょう。しかしその17人は153人と数えても良い大いなる存在なのです。
すべての人間は「大きな」存在です。個人として尊重されるべき神の似姿です。その上で、人が増えるということは単純な足し算ではないと著者は言いたいのです。一人の人が増えるだけで、その交わりはまったく別のかたち・別のからだになるものです。人間関係の対角線が増え、網目が複雑になるからです。1+1+1+・・・が起こるのではなく、1+2+3+・・・という掛け算的な出来事が起こるということです。教会という交わりは、そのようなネットワークです。礼拝は復活のイエスを中心にした食卓です。わたしたちはこの場で、掛け算的な交わりの豊かさ・関係性の網目に感謝をするものです。
今日の小さな生き方の提案は、初代ガリラヤ教会にならう交わりを作ろうということです。それが信頼のネットワークというものです。
わたしは幼稚園に専ら労力と時間を注いで働く園長・牧師であることを悪いと思っていません。それだから大変だとも感じません。漁師をしながら伝道活動をする伝道者たちがここに記されていることは大きな励ましです。それは、教会に集う人々と同じ地平に立つことができる恵みです。みんな忙しく働き、時間を取り分けて日曜日に来ているのです。
そのような労働者たちの教会は、見知らぬ野宿者からの助言にも耳を傾けることができます。すべての人が外との接点を持っているからです。部外者の声を、復活のイエス・キリストの声と聞き分ける柔軟さが大切です。神の創ったこの世界に部外者なぞ存在しないのです。部外者とみなされがちな世界で小さくされている人の声に耳を傾ける教会づくりが必要です。
さて2013年度の開始時点わたしたちは7-9名の群れでした。それが今やこのように多くの人々の集まる交わりとなりました。これは、「船の右側に網を打つ」=「午後の会議を極力減らす」という、バプテスト教会の常識からかけ離れた方策と関係がありますが、しかし基本的には復活のイエスの起こした奇跡です。イエスは泉教会の復活を望んでおられたのです。その際留意したいことは隣人や交わりをどのように考えるかです。十進法や足し算で考えないことです。掛け算的・三角数的な153の豊かな関係ができていると信じることです。主の晩餐を行いながら、復活の主との朝食を追体験いたしましょう。