わたしに従いなさい ヨハネによる福音書21章15-19節 2014年12月7日礼拝説教 

イエスによるペトロに対する三度の質問は、ペトロがイエスを三度「知らない」と言って否定したことと対応しています。三度も否定してしまったことに対する「雪辱」として、三度「わたしはイエスを愛している」と告白する機会を与えたというように、大方は考えます。そして、ペトロはこの信仰告白を全うして殉教したのだというように結論づけていくのです。「行きたくないところに連れて行かれる」ということは処刑を指す、「両手を伸ばして」は十字架刑死を示唆する、などと解釈されてきました。ペトロの立派な信仰告白、それに基づくペトロの立派な死(殉教)という路線です。

確かに13:36-38にある「イエスによるペトロの離反予告」は、今日の箇所と関係しています(後述)。しかしだからと言ってペトロを礼賛する方向で読むべきではないでしょう。なぜならこれがヨハネ福音書だからです。ヨハネはペトロを直接に褒め上げることはしないで批判的にしか取り上げません。その点マルコと似ています。21章の著者が元来の著者ヨハネと異なっていたとしても、全体の調子は引き継ぐものです。たとえば、ペトロはいつも「イエスの愛する弟子(著者ヨハネ)」の引立て役としてしか描かれないということは一貫しています。空の墓の目撃でも見ずに信じたのはヨハネ(20:8)、ガリラヤ湖の漁でも最初にイエスと認識したのはヨハネなのです(21:7)。ペトロは常に二番手以下という位置づけが、21章を含む福音書全体で一貫しています(1:35-42)。実際にペトロが主人公の今日の記事全体は、来週取り上げる箇所のヨハネについての記事と深く関連していて、「前座的な役割」を持っています。

このように考えてペトロを祭り上げないという視点で解釈していきます。つまり、ここでペトロは立派な信仰告白なんぞというものを行っていないし、ペトロの殉教がここで予告されているのではないということです。初代教会の伝説はペトロが逆さ十字架に架けられ殉教したと語りますが、史実かどうかは眉唾です。もし史実であれば、ペトロの死後に書かれペトロ礼賛主義に満ちたマタイ福音書は、そのように明記するでしょう。だから、わたしたちにも立派な信仰告白や、それに基づく殉教が勧められているのでもありません。

焦点は、イエスの第一の質問をどのように理解するのかにかかっています。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。イエスはこの質問に対してどのような答えを期待していたのでしょうか。あらゆる質問は答えを内に含んでいます。問い立てが答えを規定するものです。世論調査が答えを誘導することができるのと同じです。どこに投票するのかと聞かれれば、「まだ決めていない」がかなり多数になるのは当然です。秘密選挙なのですから、盗聴の恐れがあるのに知らない人に正直に答える行為は愚かです。「言わないよ」という多くの意見を差し引いて、ある党派が圧倒的優勢などと報じることは公正なのでしょうか。より重要な視点は、「その情報を流す事によって、投票行為に意味が無いと思わせる意図があるのではないか」と問い直す批判的精神です。イエスはペトロに何と答えて欲しかったのでしょうか。

イエスの第一の質問をギリシャ語文法に従って分析すると二つの点でひっかかります。一つは「以上に」という言い方が変だということです。ここで使われている単語は数値などの比較に用いられるものです。人間の愛情の度合いのような数値化されないものには使われません。二つ目に、この曖昧な言い方は二種類に翻訳されうるということです。①「この人たち(他の6人の弟子および「153匹の大きな魚」=17人の会衆)がイエスを愛する以上に、ペトロがイエスを愛しているか」、②「ペトロがこの人たちを愛する以上に、ペトロがイエスを愛しているか」という二種類の意味が可能です。①会衆全体の中で誰よりもイエスを愛しているか、それとも、会衆全体とイエスを比較してイエスの方を愛しているかという二種類です。

イエスの質問は文法的な問題だけではなく、内容的にも問題をはらんでいます。まずは人間を数値化して比較して良いのかという問題があります。特に直前に153という具体的数字が挙げられているため、数値化したいという誘惑にペトロたちは直面していました。また、①の立場を採った場合、仲間の中で比較することが良いのかという問題。②の立場を採った場合、イエスと仲間たちを比較してどちらかを採るという態度が良いのかという問題もあります。信頼のネットワークを作ろうという集団にとって、イエスの質問は信頼を破壊する方向性や仕掛けを持っているので、はなはだ問題が多いものです。

この問題の多い質問に対してペトロは滑らかに答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが知っています」(15節)。ペトロの回答は、問題を回避しています。「~以上」という部分をすっぽりと省略しているからです。これは問いに対して不誠実かつ不正確な答えです。「数値化すると何人分以上の愛なのか」ということや、「自分は教会の中で一位」なのか、それとも「自分にとってイエスは教会員全員以上の存在」なのかも、文字通り不問に付されています。いい加減な答えとも言えるし、巧妙な答えとも言えます。

確実に言えることは、ペトロの答えが目の前にいる仲間たちに対して極めて失礼な答えであり、自分だけが優等生たろうとする答えだということです。もしかすると「153匹の魚を獲ったのは自分の実力なのだ」という妙な自負があるのかもしれません。ここにおいてペトロは、13章の時点から何も成長していないことが分かります。「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と仲間の前で大見栄を切りながら、実際にはヨハネの見ている前で「わたしはイエスを知らない」と三回も我が身を守ったのでした(18:15-18、25-27)。ちなみに13:36「ついて来る」、13:37「ついて行く」と訳されている単語は、21:19「従う」と同じ単語です。だから13章と21章の主題が共通しているのは事実です。イエスに従うということ・イエスの後ろを歩くこととは、どのような生き方であるのかという主題です。

さてイエスはペトロの回答に対して応答します。「わたしの小羊を飼いなさい」(15節)。イエスはペトロの答えに不満だったと解します。この応答が投げやりな感じであり、何回も問答が繰り返されるからです。満足のいく答えならば一回で終わる話です。細かい表現に違いがありますが(小羊/羊、飼いなさい/世話をしなさい、「愛する」の原語がアガパオーとフィレオー)、大意は同じです。ペトロが困惑したのは(17節、田川訳参照)、一体何がイエスの求める答えなのかを分からないからなのです。

ではイエスの求めは何だったのでしょうか。ペトロはどのように回答すれば良かったのでしょうか。ペトロには問い立てそのものを問い直す姿勢が必要だったと思います。「主よ、人間を数値化することはできません」や、「①と②のどちらの意味で問うておられますか」、また、「①でも②でも、人間を比較することはおかしいと思います」など、批判的に応答する勇気が必要だったのだと思います。それがイエスに従うことであり、イエスの生き方をなぞることだからです。イエスは相手の言葉の問い立てそのものを問題にして、批判してひっくり返し、本当の論点が何かを明らかにする論客でした(たとえば9:40-41)。そのような批判的精神に従うべきだったのです。

このイエスの真意を見破れずに、ペトロはひっかかるべきところを見過ごし、頑張らなくて良いところで気張って「わたしはあなたを愛しています」と言い張るので、イエスはうんざりしていきます。だから、イエスはペトロにある種のあきらめを含めた励ましとして言います。「何度言っても通じないけれども、あなたなりに隣人を世話する仕事をがんばりなさい。本当は目の前の仲間を貶めているあなたには大変な作業なのだけれどね。目の前の教会員を愛せないあなたにわたしを愛することはできないのだけれどもね」。そして、ペトロが三度目の答えで余りにも力んで「私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。わたしにはできます」などと言い張るので、イエスはその虚勢を張る行為に対して諌めて言います。

「あなたは現在若いので好きなように生きることができている。教会員の世話もできる。自宅まで開放して教会を建て、神に従って生きていると胸を張っている。しかし年を取ると誰かの世話になる。介護されるようになる。赤ん坊が両手を伸ばしてしてもらいたいことを言うように、年老いてそのような状態になる。それは人間として当たり前の道だ。弱さをこそ覚えなくてはだめだろう。できると言い張るところにあなたの罪(根源的な倒錯)がある。弱さを知って、低いところに登っていくことこそ、神を崇める生活だ。それこそわたしに従うということなのだよ」(18-19節)。

だから、イエスがペトロに求めていたもう一つの答えは、「わたしにはあなたを愛することは完全にはできないと思います。その自信はありません」という正直な言葉だったのだと思います。威張らないで・見栄を張らないで・力を濫用しないで、小さく生きることこそ、イエス・キリストに従う道なのです。大いなる神が小さな赤ん坊になるということは、自ら世話される者になるということです。神の子が十字架で死刑囚として殺されるということは、自ら力奪われる者になるということです。

21章の著者もペトロの人生の終わりを知っているように思います。それが伝説通りの殉教(逆さ十字架刑死)ではないなら、おそらくペトロは良い歳のとり方をしていき、程よく力を奪われていき、自分の弱さを受け入れながら、活動範囲を自然に縮めながら、その分多くの人に手をかけられより多く世話されながら、静かに死んでいったことでしょう。ちょうど、モミジが枯葉の時にきれいな色を発するように、散り際の美しさを表現しながら死んでいったと推測します。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)を、現代で言う「老人ホーム」のような施設で余生を全うしたと推測する学者もいます。それもまた、神の栄光を現す生き方であり、その生き方の帰結としての死に方です。こうして、ペトロは13章以来の宿題を果たします。どうすればイエスに従うことができるのかと言えば、自分の弱さを受け入れる行為そのものが、イエスに従い、神に栄光を帰す生き方なのですから。

今日の小さな生き方の提案の一つ目は、批判的な精神を持つことです。自分が全幅の信頼を持っている人に対しても批判を持ち合わせることです。そうでなくてはDVなどを止められない、巧妙な支配・被支配の仕組みを見抜けない、犠牲のシステム(ヤスクニ、オキナワ、フクシマ)を打破できないからです。イエスに従うということは、イエスの言葉でさえ批判するという行為を含みます。そうでなければ信仰は洗脳になってしまいます。信頼とは、真剣・誠実に「問いつ問われつ」を続ける交わりなのです。

また二つ目は、自らの弱さを認めるという生き方です。強いと言い張る必要はありません。少なくとも教会という交わりの中では、世間の中での地位や能力などは関係ありません。そういうものは棄てなくてはいけません。そうすれば世界で小さくされている人の居場所をつくることができます。弱さによる連帯の輪の中に入ることが幸せなのです。十字架の主に栄光を帰しましょう。