すべての人を照らす光 ヨハネによる福音書1章6-13節 2013年4月14日礼拝説教 城倉啓牧師 

先週は、他者のために生きるということが光の子として生きるということだと申し上げました。今日も似たような話です。なぜならヨハネ福音書は金太郎あめのように、どこを切っても似たような話が出てくるからです。

わたしたちキリスト信徒はイエス・キリストの生き方と死に方に他者のための生き方の模範を見ます。というのも、キリストの死は全世界分のいのちを活かすための犠牲だと考えるからです(3:16)。10-11節にある「言が世に来たが拒否された」ということは、人々がキリストを十字架で処刑したという意味です。人々はキリストを殺したのですが、キリスト信徒は「実は十字架は神が神の子を犠牲に捧げたこと」と信じているのです(29節参照)。他人のために自分のいのちを差し出すことは他者のための生き方の最たるものです。国家によって騙されない限り、または宗教的なまやかしによらない限り、あるいはドメスティックバイオレンスの被害にあっていない限り、自分の命を誰かに捧げるなどということはできません。それを美化することは危険です。

また、わたしたちはそこまでする必要がありません。キリストが一回限りそのような犠牲の死をしてくれたので、わたしたちは誰かのために死ぬ必要はないのです。キリストが「すべての人を照らすまことの光」である(9節)ということは、キリストがすでに全世界の人のために犠牲になったということです。贖罪信仰と言います。この「お題目」は、人々に優れた実践・より良い社会をもたらす限り有益なものです。その一つを今日は紹介します。

キリストの死が全世界の人のための犠牲ならば、わたしたちは誰かの犠牲になって死ぬ必要はなくなります。国のため、家のため、教会のため、職場のため、恋人のため、子どものためなどなど誰かの犠牲になることが強いられるのはおかしなことです。おかしなことが横行するのを止めるので、贖罪信仰はより良い社会づくりに貢献します。

犠牲ではなく自分の人生を楽しみながら、自分の人生を他者と共に豊かなものとするために、生き生きと生きるために、他者のための生をできる範囲で広げるということが求められています。それと同時に、誰かを犠牲にして平和をつくるということを、少しでも改めていかなくてはなりません。自分のための生を出来る範囲で狭めることが求められています。オキナワ・フクシマ・ヤスクニが問うことは、誰かを犠牲にして成り立つシステムそのものです。わたしたちはこれらの犠牲のシステムを温存しています。だからわたしたちは到底まことの光ではありえません。光の子にはなれるけれども、光そのものではないのです。

それは太陽と月の関係にたとえられます。自ら光を放って太陽系全体を照らす太陽がキリストです。わたしたちはその太陽の光に照らされて、地球という一つの星を照らす月で良いのです。限られた範囲で、個別の他者のために生きることが少しでもできれば、それで構わないということです。そしてその個別の他者が、少しでも太陽の光について関心を寄せるならばなお良いことですが、それは結果として起こることです。わたしたちは結果におどらされずにただ反射させ照らすことをし続ければ良いのです。

ヨハネという人は(6節)、そのような意味で月に似ています。このヨハネは福音書を書いたヨハネとは別人です。イエス・キリストの活動の少し前に独自の活動をしていた宗教家です。ともかく、このヨハネは「光ではなく、光を証するために来た」(8節)と、福音書によって評価されています。太陽に目を向けさせるために月のように太陽の光を反射させていたということです。地球は月を見て太陽を間接的に知るのです。

ではヨハネという人がしたことは何だったのでしょうか。彼が自分のできる範囲で行った他者のための生き方を広げること・自分のための生き方を縮めることとは何でしょうか。ヨハネは正しいことを言う人でした。誰に対しても歯に衣着せずにずばっとものを言う人でした。マルコ福音書には、ヨハネがヘロデという人物を批判したことが載せられています。ヘロデはガリラヤ地方の統治者・権力者・政治家です。このヘロデが、自分の兄弟の妻と結婚をするという出来事がありました。ヨハネは、権力者を怖がらずに、自分自身の良心に従って真っ向から批判しました。こういうタイプの人を聖書は預言者と言い習わします。預言とは、未来の予見というよりも、良心的な発言という意味です。正しいことを公に発言することは、他者のための言葉です。もし自分のためだけを考えるならば、そのような面倒なことをしなければ良いからです。特に権力者にものを申すということは、自分のためを考えればできません。ヨハネは社会全体の益になると考えて、旧約聖書に照らして暴走する権力者ヘロデを批判しました。今で言う「立憲主義」です。

そしてそれはヘロデの「自分のための生き方」を縮小させる意図をもった発言でもありました。ちなみに、13節「人の欲によってではなく」とあるのは、「男性の意思によってではなく」が直訳です(本田哲郎訳参照)。

その結果、ヨハネには何がふりかかったのでしょうか。ヘロデはヨハネを逮捕監禁し、そして最終的には首をはねて処刑したのです。このヨハネの生と死を、ヨハネ福音書は「光についての証」(7節)と評します。「証」という単語は、原語のギリシャ語ではマルトゥリオンと言います。この単語は裁判用語です。「証言」という意味です。証言は、キリスト信徒が迫害され裁判で死刑判決を受け処刑されていった時に別の意味を持つことになります。裁判所で「イエスは神の子か、それとも人の子か」と問われた時に、信徒は「神の子です」と証言した場合に、処刑されていったからです。つまり「証言」は「殉教」につながったのです。そこでこの「証」という単語は、教会内では「殉教」を意味するようになりました。英語のmartyrは、マルトゥリオンが語源で「殉教する」という意味で今でも用いられています。

ヨハネは自分の信念を曲げずに権力を批判したために殺されました。殉教の死を遂げました。それによってキリストを証言したのです。同じように権力を批判し同じように権力によって殺される方が、自分の後に登場するということを証言したのです。それは太陽の光を受けて月が光を照らしたのと似ているわけです。ヨハネは自分の生きている範囲の権力者ヘロデを批判し、ヘロデによって殺されました。しかしキリストは全世界分の権力を批判し全世界分の罪を背負って全世界分のいのちを配るための犠牲となったからです。

今日求められている人間像とは何かをわたしたちはこの聖句から教えられます。それはヨハネのような人物です。12-13節は、ヨハネのような人物の説明として捉えることができます。「神によって生まれた神の子」です。

先週も申し上げたとおり、ヨハネ福音書はナザレのイエスが死に復活してから60年後に書かれました。しかもユダヤ教徒によるキリスト教徒迫害の時代です。こういった時代、二元論によって自分たちの優位を示したくなるものです。信徒/非信徒という区別・差別によって、キリスト者がより優れていると言いたいものです。12節はその点を割引いて読む必要があります。つまり、「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられた」は、狭い意味で「バプテスマを受けてキリスト教徒になると神の子となれる」と解釈しない方が良いだろうということです。実際、ヨハネはイエスからバプテスマを受けていません。

ではどのように解釈していくべきなのでしょうか。本田哲郎神父は、前半を「その方を信頼して歩みを起こす人たちに」と意訳します。釜ヶ崎に住み野宿者たちと共に生きる本田さんは、信仰は徹底的に生き方の問題なのです。キリスト教という抽象的な教えを信じるということではなく、イエスに信頼して真似をして生きるということに、解釈の力点があります。

もう一つ、「資格(エクスーシア)」をどう訳すかという問題もあります。ここがキリスト者という「特権階級」を匂わせるからです。この単語の第一の意味は「自由」「権利」です。そこから権威・権限・権力と派生するのです。ですから、「神の子であるという尊厳が与えられる=もともとあるべき基本的人権が回復される」という意訳が、現代においては良いと思います。まとめると、「イエスを信頼して歩みを起こす人々には、もともとの人権が回復される」ということです。それが神の子となるということです。

福音書のイエスは自分のことを「人の子」と言いました(3:13等)。自分からは神の子だとは言いませんでした。これは相手と同じ人間だという連帯感を表す一人称です。その一方で、人の子扱いされていない人々を「神の子」として手厚く扱いました。さまざまに差別を受けていた人たちの人権を尊重しました。これが仕えるということです。自分が神の子である方が人の子と自称し、相手方人の子を神の子として手厚く扱う、イエス・キリストは真の神の子・人の子です。全人類を照らす光です。

全人類を照らす光を受けて、ヨハネのようにイエス・キリストを証言して、本当に人間らしい生き方をすることが求められています。その一例は、世間に嫌われるかもしれないけれども真実を伝えるということです。9-10節にある「世」とは、「世間」と言って良いでしょう。特に世間体を気にする日本社会、世間という得体のしれないものに立ち居振る舞いが左右されるわたしたちにとっては、「世」は「世界」というよりも「世間」がぴったりと当てはまるでしょう。ヨハネもイエスも正に世間に嫌われることを言い、行なったからです。

新生讃美歌73番をさきほど歌いました。この歌の歌詞はディートリッヒ=ボンヘッファーという牧師・神学者が作ったものです。彼はナチス・ドイツに抵抗してヒトラー暗殺計画に加わったという理由で1945年4月9日に絞首刑に処されました。歌詞は同年1月17日の作ですから死の直前と言って良いでしょう。ナチスは「血によって」という純血主義・民族主義を主張しユダヤ人を迫害しました。ボンヘッファーはキリスト者の中で最も早くユダヤ人を支援し亡命の手助けもしました。そして公にヒトラー政権を批判したのです。世間は「ドイツ的キリスト者」と呼ばれる集団と化していて、少数のキリスト者(「告白教会」)しかボンヘッファーの仲間とはなりませんでした。それでも彼は真実を語りました。そして暴走するダンプにはねられている人の介抱(ユダヤ人支援)だけではなく、ダンプの運転を止める運動(ナチス転覆)に関わるのです。

この背景を踏まえて歌詞の二節を読み直す時に、わたしたちにはヨハネ福音書1章に書いてある闇と光や、真の光に照らされた人がその光を反射させて生きるということがどのようなことかを知ることができます。「輝かせよ主のともし火/われらの闇の中に/望みを主の手にゆだね/来るべき朝を待とう」

ヨハネやボンヘッファーのように神の子らしく、人間らしく生きることは日本のわたしたちにとっては何を意味するでしょうか。大手報道もやっと憲法審査会の危険な動きを報じるようになりました。しかし不十分です。自民党憲法草案を分析しないからです。人権を尊重しない方向に憲法が変えられようとしています。世間的にはちょっと損するかもしれません。しかしイエスに信頼をして歩みを起こし、他者のために、すべての人が人権を取り戻すために、社会全体の益のために暴走するダンプを止めましょう。祈ります。