奴隷の民 出エジプト記1章1-14節 2014年12月28日礼拝説教

出エジプト記は「モーセ五書」の一部です。そしてモーセ五書は一冊の本です。元々一巻の巻物でした。それが後代、便宜的に五つに分けられたのです。たとえば、イスラエルの民は出エジプト記19章からシナイ山の麓にいます。そしてまるごとのレビ記を超えて、民数記10章10節までシナイ山にいます。もし物語の設定に沿うように区分するなら、「シナイ山での律法授与」として一巻設けたほうが自然です。現在の五巻の区切りは便宜的であるということの一つの証拠です。ですから、五書は一つの本として読むべきなのです。

五書は一冊の本として、バビロン捕囚を経験した民によって編纂されました。「モーセが五書の著者である」という伝説をわたしは採りません。むしろ、モーセが主人公であるという意味で、モーセ五書という名前はふさわしいと考えます。紀元前587年に新バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、貴族階級たちが強制連行されました。イスラエルは民族国家を失い、主権・領土を失い、神殿を中心とした祭司制度を失いました。

そして、バビロンの地で、「ユダの人々(ユダヤ人)」と呼ばれるのです。ちなみに五書の中では「ユダヤ人」という単語は使われません。むしろ、ヘブライ人・イスラエル人だけが用いられます。この事実は、現実に蔑視を込めて呼ばれていた「ユダヤ人」という言葉に対する抵抗です。五書を書いた人々は、自分たちは「ユダヤ人」なのではなく、イスラエルという人物(先祖ヤコブの別名)から出たイスラエル人であり、しかもエジプトではヘブライ人と呼ばれていたという主張を持っています。それによって言いたいことがあります。それは新しいイスラエルを生むことです。民族国家によらない、ダビデ王家によらない(だからモーセまで遡る必要があります)、神殿祭儀によらない、「本の民」として生きる道の創生です。五書があり、五書を中心とした礼拝をする民がいれば、そこにイスラエルがあるという信仰です。これならばバビロンでもイスラエルは存続できます。そしてできれば約束の地に帰って、この実践を行いたいという希望を、彼ら/彼女らは持っていたのでした。

わたしたちはこの著者たち・編纂者たち・最初の読者たちの境遇や、著作動機・目的を理解した上で出エジプト記を読み進めていきたいものです。バビロン捕囚に遭っている人々は、「自分たちの先祖がエジプトで奴隷の民でした」と語る際に、自分たちの強制連行の境遇と重ね合わせて物語っているからです。700年前の出来事を物語るときに、物語る者たちにとっての現在の状況が否応なく入り込むものです。たとえば、わたしたちが「今から900年前に源頼朝が駒繋神社のある場所に馬を繋いだのだ」と語る際に、わたしたちの下馬を誇りにする思いとか、駒繋小学校についての思い出とか、犬の散歩コースであるとか、そのような感情が必ず入り込んでくるのと同じです。

五書の終わりにモーセは約束の地をはるかにのぞみ見ながら、自分はその地に入れずに死んでいきます(申命記34章)。それは、バビロンの地で死んでいった多くの仲間たちの境遇と同じです。全体としての五書が、捕囚民にとっての希望の書であるという前提に立って、読み進めていきましょう。それは、出エジプト記がわたしたちにとっての希望の書となるための前提でもあります。

創世記の37-50章は「ヨセフ物語」と呼ばれます。なぜイスラエルの人々がエジプトに寄留しているのかという原因を説明する物語です(原因譚)。この意味でも創世記と出エジプト記には切れ目が無いと考えるのが自然です。兄弟から嫌われエジプトに売り飛ばされたヨセフがエジプトで出世し、ファラオに次ぐ地位を得て、飢饉に遭ったエジプトの国全体を救い、周辺各国の飢餓をも救うというお話。そしてカナンの地から飢饉を避けて、かつての敵である兄弟たちと父ヤコブもエジプトに移住してきたのでした(1-5節)。

ただし、この11人の兄弟の一覧は差別的です。ヤコブの娘であるディナが抜け落ちているし、生まれた順番を無視して「正室」(レアとラケル)の子どもたちを先に固め(2-3節)、「側室」(ビルハとジルパ)の子どもたちを後ろに固めているからです(4節)。そもそも一夫多妻も性差別の一形態です。著者たち・読者たちの気持ちを考えるということは、この類の差別性をも指摘し吟味することでもあります。わたしたちは性差別に立たないということを決めるためにこの記事を批判的に取り扱うべきです。

また、翻訳の問題もあります。「数」「人」と訳されている言葉は、同じヘブライ語「ネフェシュ」です(5節)。これは「全存在」「いのち」という意味です。「子、孫のいのちは、全部で七十のいのちであった」が直訳となります。人間を数値化・数量化することも戒めなくてはいけないでしょう。奴隷というものが、個人としての人間の尊厳を奪われ、数量化されがちな存在だからです。そのことに対する憤りが五書にあるはずなので、わたしたちは「数」「人」という翻訳を採らない方が良いのです。

エジプトという当時最強の国にとっての恩人であるヨセフが死に、幾世代かが経過します。ヨセフのことを知らない新しい王が即位します(6-8節)。エジプトは王朝がしばしば交代するけれども、地形的要因から領土や民族の大きな変更が無い国でした。おそらくは紀元前13世紀頃、ラムセス二世というファラオ(王)の時代にイスラエルは奴隷とされたのでしょう(11節参照)。現在発掘されている資料の中で、出エジプトそのものの聖書以外の証言はありません。しかし、前13世紀のネルネプタハ碑文によって、「イスラエル」という民の名がエジプトで知られていたことは分かっています。この碑文は最古のイスラエルについての言及です。それ以前には存在しない民ということが類推されます。

新しい王はイスラエルの人々を虐待します。その理由は、しばしば起こる移民に対する悪感情と同じです。「外国人の数が増えすぎている」「外国人はスパイ予備軍である」(9節)。そして、新しい王の移民政策も、しばしば起こる移民政策と同じです。「自国民が嫌がる労働を押し付けよう」(11・14節)。最近の報道でも、外国人(東南アジアの人が多い)の研修労働の実態が暴かれていました。看護師等医療従事者などに門戸が開かれたようにみえて(月額16万円という触れ込み)、中間搾取を除くと1万円の手取り。しかも長時間労働なので、なんと時給25円だとのことです。日本の若者が少なくなり労働者の数が減ってきているので移民に頼らざるを得ないのは、誰もが知っています。このような不正を行ってはいけません。

ファラオの場合はイスラエルの人口減を狙っての政策でしたが、この状況下でもイスラエル人は増加したので、目に見えて移民政策は失敗に終わりました。ちなみに、7節の表現は単語レベルで創世記に記される「祝福」と一致し重なっています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創1:22、1:28、9:7)。だから、創世記の記述もまた出エジプトの奴隷状況と、バビロン捕囚の状況とを重ねて読まなくてはいけません。神は単に「増えるように」と祝福しているのではなく、「抑圧者への抵抗として生きろ」と命じているのです。そのような意味で普遍的な教えとして天地創造物語も読み直されるべきです。

エジプト学などの時代考証によれば、ファラオによる公共事業・強制労働は失業者対策として有効であり奴隷の民はファラオに感謝していたということが史実とされています。当時の労働者の落書きに「ファラオ万歳」というような言葉が残されているからです。仮に史実がそうであっても構いません。歴史をどのように切り取って見るかが重要だからです。わたしたちは同じ聖書の民なので、奴隷の民/捕囚の民イスラエルの視点に立つ読み方を採ります。

抵抗する民衆を支配者は嫌がります(12節)。そして支配者は、一般のエジプト人がイスラエル人を嫌悪するように仕向けていきます。悪い感情を持たせることは支配の道具です。世論が差別待遇を支持することで、差別は固定化されていきます。効果の上がらない移民政策を、加速・加重させるために人々の感情も操作されます。差別は制度によっても、そして感情によっても固定化され強化されるものです。時々行われる「中国・韓国への感情についてのアンケート」というのは、本当に意図的感情操作だと思います。

わたしが松本蟻ケ崎教会の牧師であった頃、しばしば「松代大本営」を訪れ、また友人知人に紹介したり、若い人たちを連れて行ったりしました。その若者の中には富士吉田教会員であった吉野健太郎さんも居たのです。松代大本営というのは、アジア・太平洋戦争末期に「大本営(軍の本部、日本放送協会、政権中枢)・皇居を長野県松代の地下に移そう」という秘密計画があり、実際に岩盤を掘って坑道・洞窟を作った跡地です。工事は1944年11月11日に始まり、敗戦とともに立ち消えになりました。結局使わずじまいの大本営。現在は観光地ともなっています。当時、東京にそれほど遠くなく、岩盤が強く地震が少なく、空襲にも遭いにくい場所ということで、松代が選ばれたのでした。

そこには約7000人の朝鮮半島出身者が徴用されていました。コンプレッサーという掘削機で硬い岩盤を掘りぬくのですが、場合によっては手作業でも掘ります。厳寒の中、過酷な労働です。壁のところどころに落書きがあり、「大邱(テグ)」など朝鮮半島の地名が記されています。そして、松代大本営の工事現場にも「慰安所」があったという証拠・証言があります。3-4人の若い朝鮮人女性が働かされ、そのうちの一人「金本順子」さんという方は「日本で看護師の募集がある」との言葉にだまされて来たとされます。

朝日新聞の「慰安婦報道」が虚偽の証言に拠っていたそうです。それは問題です。しかしだからと言って、「すべての慰安婦が居なかった」とか「強制連行の事実は無かった」とかと言い募るのは、論理の飛躍です。わたしたちは冷静に論理の積み重ねを重視しなくてはいけません。なぜならわたしたちの感情はたやすく操作されやすいからです。「憎悪感情」というものが差別を強化するからです。また、結論・効果から考えて、自分の立ち位置を定めることが必要です。「史実」なるものがどうあれ、現在の差別に手を貸す言い方・表現については批判・吟味が必要なのです。たとえば「朝鮮半島の鉄道を敷設したのは大日本帝国なのだ」という言葉は、植民地支配を正当化し、現在のコリアン差別を助長するために言われるから問題なのです。

今日の小さな生き方の提案はmisogysm の克服です。「(女性への)憎悪主義」「嫌女性感情」などと翻訳されます。同じ言葉でも女性が言うと信じない等の差別的態度を指します。女性のみに限らず、たとえばヘイトスピーチなどのように、感情を剥き出しにすることや、感情的な言い方を是認する態度を止めましょうとお勧めしたいのです。それが支配者に悪用されやすいからです。「生理的に受け付けない」「肌感覚で拒否する」という言い方の危うさを思います。論理で説明することに対する怠慢がそこにあります。その怠慢は、「主観的に受け入れられやすいものには無批判になってもよい」という態度に繋がりかねません。嫌いなものを好きになる必要はありません。しかし嫌いになった理由を吟味する必要はあるでしょう。煽られているかもしれないからです。そしてどんなに嫌いでも失礼な言動をしてはいけないのです。奴隷の民であったイスラエルと自分たちを同じ聖書の民として考える限り憎悪主義を克服しなくてはいけません。それが罪の一形態だからです。