今日の箇所は、先週のE集団の筆ではなく、J集団の筆によると考えられます。ここに、神がまったく登場しないことがその理由の一つです。Jの書く物語はしばしば人間臭いものです。主(ヤハウェ)と呼ばれる神が登場する際も、主が人間臭いという特徴を備えています。たとえば創世記2章で人間を土から手作りする主なる神は、きわめて人間臭い神です。最後に鼻から息を吹き込むということは、神は手や口を持っているということでしょうか。今日の物語の生き生きとした人間模様は、人間臭い描写を好むJの特徴です。
J集団はバビロン捕囚で「人間とは何か」「救いとは何か」「神とは何か」ということを真剣に考えたのです。ジックラトという高い塔(バベルの塔のこと)を建てているバビロンの人が果たして幸せか考えよう。世の中には聖と俗、正義と邪悪、浄と不浄など、二つに分かれるものばかりではないはずだ。悪人が栄えたり、金持ちの中にも良い人がいたり、さまざまなことが起こるのが人生であり、人間である。主なる神はご自身が自由な方なので、世界を自由につくられた。人間には主に背く自由すら与えられている。人生は何が幸いか不幸かよく分からない。それで良いし、それが良い。このような曖昧な姿勢、問いを常に開く姿勢が、Jの特徴です。主が登場しない物語において、正に主の世界に対する関わり方が示されます。主の前で・主と共に・主無しで生きる(自分の頭で考える)成熟さをJは促しています。
Jは積極的にメソポタミア文明と接触して得た知識を用います。ノアの箱舟物語もギルガメシュ叙事詩の一部とそっくりです。また、モーセの誕生物語もアッカド王国のサルゴン一世の誕生物語とそっくりです。それは「女神官だった母親にアスファルトで防水した籠の中に入れられ、ユーフラテス川に遺棄された赤ん坊のサルゴン一世が、水汲み人アッキという男性に拾われて養子となる」という物語です。聖書よりも古い物語に似ているのですから、聖書が真似をしたのは論理的に明らかです。感情的に「こっちがオリジナル」などと反論する必要はありません。Jはバビロン捕囚でメソポタミア文明に出会い、取り入れながら批判をしているのです。一旦受け止めた後に改変していることが重要です。改変部分に聖書独自の使信があるからです。
なお、細かい情報ですが、「籠」(3節)は、「箱舟」(創6-9章)と全く同じ単語です(ヘブライ語テバー)。この事実は、メソポタミア文明と五書の深い関わりと、ノアの洪水物語とモーセの誕生物語を重ね合わせて読むようにという指示です。両者を突き合わせて「救いとは何か」ということを考える必要があります。
サルゴン一世の誕生物語は身分の高い女神官が赤ん坊を棄て、身分の低い水汲み人が養父となります。モーセの誕生物語はそれをひっくり返しています。奴隷のヘブライ人が子どもを遺棄し、身分の高いファラオの娘が養母となります。ここにJの人間理解があります。金持ち=悪、貧しい人=善という単純な二分法で考えないということです。苦労すると良い人になるかどうかは、よく分かりません。かえってひねくれる場合もあるからです。むしろ構造的な貧困が相続され続け、教育が保障されない結果貧しい人に犯罪率が高くなることの方がありうる事態です(2:13参照)。環境的に「恵まれた人」は何も考えない人になる場合もあれば、かえってまっすぐに共感できる人にもなることがありえます。マザー・テレサの例もそうでしょう。
モーセという人は非常に複雑な生い立ちを持っているということが物語全体の趣旨です。実の母親が乳母となり、おそらく当時の風習に従って3歳ぐらいまでヘブライ人の間で育てられ、その後エジプト王の娘の息子として王宮で育てられたのですから。わたしの息子も三歳まで米国にいましたが、その頃のことは一切覚えていないようです。モーセは「主という神の名前を知らない」という欠点を持っていました(3:13)。そして奴隷の苦労ということもよく分からなかったと思います。ただし、ヘブライ語はある程度理解できたのでしょう(3:14)。わたしの息子も、英語の聞き取りや発音が若干うまいように思えます。そしてモーセが当時の世界最高峰のエジプト文明の教養を持っていたことは間違いありません。そういう人が出エジプトの指導者となる。特にこの後のファラオとの交渉において特性が生かされていくのです(5章以下)。
サルゴン一世の誕生物語にまったく書かれていない部分が、モーセの誕生物語にあります。まず救い出し・養子にし・名付けまで行ったのは男性ではなく、女性のファラオの娘です。それだけではなく、モーセの姉(ミリアム。15:20)の活躍、母親(ヨケベド。6:20)を乳母にする知恵についてです。また王女の家臣の女性たち(侍女、仕え女)についても聖書独自の語りです(5節)。全体に大勢の女性たちが一連の過程で協力し合ってモーセを救ったということに独自の使信があります。これは女性たちの物語なのです。その点で先週の「神を畏れる助産師たち」と通底しています。教会に女性が多いので示唆深いのです。
ここでJは救いとは何かを示しています。それは個人としていのちが尊重されるということです。ノアの箱舟の時にはすべての種類の動物が一つの箱舟(テバー)に入って救われました。それはそれで意味のあることです。多様性を認めて共存するという救い、また動物も含めての救いが描かれているからです。今回は、その色々な意味で広い/寛い箱舟にただ一人の個人モーセが入れられています。このことの意味は、ひとつのいのちが地球/世界全体と同等の重さを持つということの現れでしょう。イエス・キリストがひとりひとりと顔を合わせ、個人として尊重し、その人に仕え、愛した姿勢と重なります。キリストによる救いは、その人のいのちが大切にされるという経験です。全世界が入る救いの舟を、たった一人が占めることが当然であるという出来事です。
その救いの出来事が女性たちのリレーによって成し遂げられていく過程が示されています。まず母親のヨケベド(「主は尊重する」の意)が、生んだ男の子を「良い」と見ます。「かわいかったのを見て」(2節)という翻訳は、かわいくなかったら匿わないのか・救わないのかという反対解釈を許すので、そのように考えない方が良いでしょう。創世記1章を意識して訳すと、「そして彼女は彼を良いと見た」となります。赤ん坊という存在が良いと認められているのであって、容姿によって赤ん坊の優劣が分かれるということではないでしょう。いのちを全肯定するヨケベドが三ヶ月赤ん坊を匿います。
匿うことが不可能になった時に、万全の防水をして誰か親切な人に救われるようにと願って、籠に赤ん坊を入れます。この行為は法令違反ではありません(1:22)。その際に、姉ミリアムはおそらく自発的に一人ナイル河畔に残って、「彼のために何が行われるのか知るために遠くに立ちます」(4節)。これも法令違反ではありません。ミリアムの関心はモーセの救いにあります。そのために知恵を働かせようとして頭がフル回転しています。誰が赤ん坊を拾うのかによって対応が少しずつ変わるでしょう。
そこへどやどやとエジプトの最高権力者の娘が家来を従えて来たのです。王女は救いの籠を見つけました。そして見張りの家来たちに取ってこさせました。王女はふびんに思うのです。外形はエジプト人の赤ん坊と変わりません。セム系・ハム系などと学問上言ったりしますが、あまり学問的な区分でもないのです。両者は広い意味で言語的にも人種的にも親戚です。見かけではその子がヘブライ人かどうかは分かるよしもありませんが、しかしこの文脈では明らかです。自分の父親が出した残酷な勅令を彼女は知っていたのです。男の子の赤ん坊がナイル川で発見されたら、それはヘブライ人です。王女は頭も良く、性格も優しい人でした。短期的には泣いている赤ちゃんを何とか泣き止ませたいということ、そして長期的にはこの赤ん坊のいのちを救いたいという思いが湧きおこりました。ただし、どうやってそれを実現させることができるのか、考える時間が必要でした。
ミリアムはそろそろと近づき、エジプト人たちは身分が高くしかも同情的であることを察知しました。そしてこの状況に合った機転を思いつきます。「乳母を必要としているなら、適任の女性を知っています」(7節)。家来たちはミリアムを取り押さえようとしません。王女も家来たちも、その若い女性がヘブライ人であること、泣き叫ぶ赤ん坊の姉か親戚であること、そして紹介された乳母が赤ん坊の母親であることが分かりました。しかし、誰も何もそのことについては言わないのです。7節と8節の間の行間には、この場面に立ち会わせた女性たちの優しさと知恵が詰まっています。
王女は「行け」(8節直訳)とミリアムに言います。この単語は、アブラハム・サラへの命令でもあり(創12:1)、モーセへの命令でもあります(出3:10)。民の救いのために、ファラオの王女がミリアムを遣わすのです。王女はミリアムが自宅を往復している間に、重大な決断を固めていました。それは「三歳までは有償で育ててほしい」と実母に依頼することです(9節)。この王女の行為は内容的には勅令違反です。勇気をもって王の娘がそれを実行したのです。母ヨケベドはこの恩義に対して、信義をもって応えます。子どものいのちが助かるならばそれで良いと考え、わが子をファラオの娘に差し出したのです(10節)。
王女はモーセと名づけます。家来たちやヘブライ人にとってその名前は「水の中からの救い」を意味します。しかしこれは暗号です。エジプト人にとってその名前は「こども」を意味します。ラムセスやトトメスなどの王の名の一部に使われているとおりです。王女は怪しまれない二重の意味を込めたのでした。
ここに「救い」とは何かが示されています。のっぴきならない場面に出くわした人々が、知恵をこらし勇気をふるってたった一人のいのちのために働き、実際にそのいのちを助け出すことです。その助け出す人々は、もちろんそれぞれ限界を抱えています。本当はすべてのヘブライ人男子を救い出したいでしょう。本当はモーセを大人になるまで育てたいでしょう。本当は勅令を変えたい、性差別を廃絶したいでしょう。その願いは長期的な展望とし次の世代の誰かに委ねるにしても、今この場で何を、倒れている彼/彼女のためにするかを決断しなくてはいけません。そののっぴきならない場面で、自分の出来る範囲で誠実にひとりの人を助けることが、聖書の語る救いです。Jは主による救いを頭の中だけの話・心の中の話にとどめません。生きる権利を当然に持つ個人への関わりを、読者一人ひとりに問うているのです。
今日の小さな生き方の提案は女性たちの振る舞いに倣うことです。それはイエス・キリストの振る舞いに倣うことでもあります。教会の外で、平日にそれぞれの人が出会う一人ひとりがいます。その際に「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)というイエスの命令に従うということです。
また礼拝に集う一人ひとりに同じ振る舞いをすることです。教会に集う人の中には世界でつまはじきにされている人もおられることでしょう。教会という箱舟は、その一人のためのパピルスの籠です。のっぴきならない現実の苦しみにいる人のために、できる範囲で一肌脱ぐ、少なくとも暖かく迎える、お互いに共感することがわたしたちに求められています。