先週までは救いとは何かを教える「女性たちの物語」でした。シフラとプアという女性が数多くのヘブライ人男子のいのちを救ったということ(その中にはモーセの三歳上の兄アロンもいたことでしょう)、そして、母ヨケベド・姉ミリアム・ファラオの娘・その家臣たちがモーセという個人のいのちを救ったということ、これら一連の出来事が救いです。性差別の強い社会において、抑圧されていた女性たちが連帯して、虐げられたヘブライ人男性のいのちをも尊重し歓迎したということに救いがあります。救いとは人の心身を助ける行為です。小さくされている者たちが微力を寄せ合って救いを成し遂げたのでした。
今週の箇所は「救いの反対」です。そのことと関連して今日の物語は「男性たちの物語」と言って良いでしょう。ヘブライ語で読むと、イーシュ(男性/夫/人/各人の意)という単語がほんの5節の中に5回も登場します。それだけではありません。15節に不自然なかたちで2回もy-sh-bという動詞を登場させ(住む/座るの意)、イーシュ(y-sh)を強調しようとさえしています。新共同訳はギリシャ語訳の異読を採っていますが、ヘブライ語の底本は「そして彼はミディアンの地に住んだy-sh-b。そして彼はかの井戸の上に座ったy-sh-b」という二つの文です。第一の文は21節の末尾にある方が自然です。今までの女性たちの物語から(1:15-2:10)男性たちの物語に変わったこと(2:11-15)、そして次週取り上げる箇所は再び女性たちも登場することを(2:16-25)、発音上際立たせるためにあえてここに置いているのでしょう。
当時も今も社会の中で力を与えられ、優遇され、力を濫用しがちな男性たちがどのような社会を形づくっているのかを、「イーシュの物語」である今日の箇所はあぶりだします。支配と暴力。この二つが鍵語です。そしてこれらが「救いの反対」なのです。
「モーセが成人したころ」(11節。直訳「大きくなったころ」)を、使徒言行録の著者ルカは「四十歳になった時」と解釈します(使徒7:23)。これはモーセの120年の生涯を、きれいに三分割するための解釈です(出7:7参照)。また、40年という長さを「十分な長い年月」と考える「聖書読者の常識」からくる解釈です。このように新約聖書が旧約聖書を引用している時に、両者の異同に目配りすることは必要かつ面白い作業です。今日の箇所は使徒7:23-28(新約225ページ)と並行しています。見比べるとルカの解釈が分かります。
モーセはヘブライ人たちがエジプト人たちに重労働を負わされている現場を見ました。また、一人のエジプト人がヘブライ人を打っている現場を見ました(11節)。母がモーセを見たのと同様に(2節)、見るということは認識するということです。漠然と見たのではなく、虐待されている奴隷の実態をはっきりと認識したわけです。大きい支配者が小さくされている被支配者を見たのです。
モーセはヘブライ人を一応「同胞」(直訳「彼の兄弟」)と考えています。三つ子の魂です。彼はエジプト王宮での高等教育を受けていましたが、自意識の中ではヘブライ人でした。自分の骨肉が打たれているのを見ることに耐えられなくなりました。もしかすると、この殴打によってヘブライ人は死んでしまったかもしれません。なぜかと言えば、モーセが辺りを見回して誰も男性がいないことを確かめているからです(12節)。
モーセはそのエジプト人に同じ行為をしました。打ったのです。「目には目」(同害報復)です。結果、死んでしまいました。そこまで予期していたかは分かりません。11節「打つ」、12節「打ち殺す」、13節「殴る」は、原文においてはまったく同じ単語です。故意でなくても打つことによって死なせてしまうことがありうるでしょう。ルカはモーセを庇いたいので「倒されたヘブライ人を助けるために殺した」と解しますが、原文はそこまで記していません。
次の日モーセはヘブライ人同士のけんかを目撃します(13節)。一方的に相手にのしかかって打っていた男性がいたようです(悪い方)。モーセという人は、「強い者が弱い者を打つことはいけない」という倫理観を持っていたのでしょう。「なぜあなたはあなたの隣人を打つのですか」(直訳)と言って止めようとします。「兄弟」と「隣人」は「親族として平等な男性同士」という類義語です。しかしそれは虚構でしかないことをJは暴いていきます。
モーセは強烈な反論に遭います。「どなたがあなたをわたしたちの上にいる監督や裁きをする男性に就けているのですか。あなたはかのエジプト人を昨日殺したように、わたしを殺すと言っているのですか」(私訳)。ギリシャ語訳や使徒言行録のように「昨日」という単語を補う異読を採ります。その方が目撃証言としてふさわしいからです。
この批判は強烈です。モーセはヘブライ人奴隷男性を自分の兄弟・隣人と思っていました。だから一人のヘブライ人が打たれたら、打ち返して良いと考えました。しかし貧しいヘブライ人からすれば、モーセはエジプト王ファラオの孫です。最高権力者の血筋のものです。仮にモーセの出自がヘブライ人であると知っている人にとっても、今やモーセが雲の上の特権階級であることに変わりはありません。「あなたは今日のエジプト人現場監督なのですか。それともあなたはヘブライ人である裁きづかさ(士師)という指導者なのですか。どちらでもないでしょう。エジプト王家の特権階級の人が下々のけんかに口を挟みなさんな。それとも、あなたが昨日殺したエジプト人のように、ヘブライ人のわたしを殺すと言っているのですか。どうぞご自由に」(14節)。
殺人の目撃者が居たことにモーセは恐怖します。自らの殺人事件が確実に知られたと思いました。事実、ファラオは事件を聞きつけます(15節)。14-15節においては、「打つ」n-k-hではなく、一貫して「殺す」h-r-gが使われます。「打つ」とは異なり、冷酷なかたちで故意に殺害する意味合いを含む言葉です。ここに物語がエスカレートしていることが表されています。モーセ自身の主観とは関係なく、目撃証人はモーセの殺意と動機(支配欲)を読み込んでいます。内心を見抜かれたことにもモーセは恐怖を覚えたのです。
ファラオは「目には目・歯には歯・命には命」を要求します。モーセは処刑されなくてはいけません。国家の威信のために、王家の者でも特権は剥奪されます。モーセの行った私刑を許しては支配のピラミッドがゆるがせになってしまいます。興味深いことにJは、国家による殺害である死刑とリンチである私刑を何ら区別しません。同じh-r-gが使われているからです。
モーセは逃げます。今まではファラオと顔と顔とを合わせることができました。王家の者だったからです。しかし、その「ファラオの顔から」(直訳)逃げなくてはいけなくなりました。逃げながらモーセは考えたことでしょう。「自分は一体何者か。自分はどこにいるべき人間なのか。自分の兄弟はどこにいるのか」という問いを胸にしながら逃げたことでしょう。
モーセにとって衝撃だったのはヘブライ人からヘブライ人としてみなされていないことでした。ヘブライ人女性たちはエジプト王家の女性たちと連帯することができました。しかし、ヘブライ人男性は仲間内でも喧嘩をし、エジプト人男性とヘブライ人男性は支配・被支配の関係にあります。そしてどちらの社会にも属するモーセという男性は、どちらの社会からも歓迎されません。連帯ではなく分断が、「男性たちの物語」の基調にあります。
このモーセの殺人および亡命事件は、創世記4章と呼応しています。どちらもJの筆による物語です。4章は兄カインが弟アベルを殺害し(h-r-g)、その罪と罰のゆえに共同体から追放させられる物語です。主はカインに対して、「あなたの兄弟はどこにいるのか」と問いました。非常によく似た話の組み立てです。
モーセの方がカインよりも同情に値するように見えます。特に使徒言行録のように解釈すると、倒れている人を助けるための殺人は情状酌量の余地がありそうです。しかし、根本的には「支配欲に駆られた暴力行為」に過ぎないのではないのかということが問われています。カインは弟アベルを邪魔者だと考え、支配欲に駆られて暴力を犯したのです。ヘブライ人であるエジプトの王子がエジプト人を邪魔者だと考え、上から目線で支配しても良い相手とみなし、力を濫用して「打つ」行為(とその結果としての殺害)は、支配と暴力という点で何も変わりません。土の中から血が叫んでいます。モーセはカインと同じく共同体から追放されます。ミディアンの地とはシナイ半島の辺りと呼ばれます。これはモーセが誰よりも先に出エジプトを行ったヘブライ人だったということでもあります。エジプトから亡命する道をこの時モーセは体得します。
後にイスラエルの民を引き連れて出エジプトを果たしたモーセは、シナイ山で神から十戒を授かります(19章以下)。第六の言葉を読んだ時に彼は仰天したのではないでしょうか。「あなたは殺してはならない」(出20:13)。ここでの「殺す」は別の単語r-ts-chです。故意の殺害も、過失致死も含みます。モーセの主観も(過失/仲間を助けるための正当防衛)、目撃者の主観も(故意の殺害)、ファラオのしようとした死刑も、すべて含む「殺人一般」という意味です。今日の箇所にもまったく登場しない主なる神はモーセの殺人行為を決して忘れていません。赦すということは忘れるということではありません。赦されるということは、加害者の開き直る態度を促す理由にはなりません。主はモーセに、カインの額につけた印のようなものとして、第六戒を授けたのでしょう。
イエスは「殺してはならない」を精神化し徹底した実践を説きました。「兄弟に腹を立てる者・『ばか/愚か者』と言ってはならない」(マタ5:21-26)。心の中の憎悪も殺人と同じ、言葉の暴力も殺人と同じという解釈です。ここに日頃の差別を含む双方の力関係や支配欲などの視点を加えれば、腕組み一つ、目配せ一つで、「人を殺すことはできる」と言えます。ファラオを頂点としヘブライ人を奴隷とする構造は殺人です。エジプト人・モーセ・ヘブライ人同士の行った「打つ」行為も、モーセの上から目線の忠告も、ヘブライ人の批判的返答も、ファラオの処刑のための指名手配行為もすべて殺人です。すべて相手を尊重していないし、すべて支配欲に立った暴力だからです。そしてすべて相手の心を殺しているからです。意識するとしないとに関わらず、報復を志向する男性たちは罪を連鎖的にエスカレートさせながら犯しています。
性暴力被害者の多くは「心が殺された」と語ります。結婚差別・就職差別に直面させられた被差別部落出身の人・在日コリアンは「心が殺された」と語ります。実際の殺害ではなくても、不当に貶められるとき、人は言葉や態度によって殺されうるのです。形式的に差別語がなくなっても、それだけでは解決しません。それを罪と呼びます。自由に侵略できる富める者たちが二重基準を使って貧しいイスラム世界をこれ以上言葉で苛立たせてはいけません。ユダヤ人虐殺を肯定する表現を許さないとしながら、ムハンマドを侮辱する表現を許すのは二重基準です。相手を尊重しない表現は制約されるべきと考えます。
今日の小さな生き方の提案は尊重の文化を創ろうということです。力関係を考慮すれば、言ってはいけない言葉や取ってはいけない態度があるのです。自らの大きさに自覚的であるべきです。支配は分断を基礎づけ、尊重は連帯を基礎づけます。暴力は心身を殺し、歓迎は心身を救います。血縁主義・家制度・社会的地位を超えて、隣人同士として互いに仕え合い・愛し合いましょう。