今日の箇所は、JとEの筆が混在しています。「主(ヤハウェ)」(2・4節)という神の名前を使うJ(ヤハウィスト)集団、「神(エロヒム)」(1・4・5・6節)という神の名前を使うE(エロヒスト)集団の共同作業による箇所です。Eの主張に対してJが応答しているという図式を踏まえてお話をします。Eの主張というのは、神への畏敬・神への急進的服従というものです。物語全体は神がモーセを出エジプトの指導者として任命するというものですから、神への徹底的服従がふさわしいものです。履物を脱ぐとか(5節)、神を見ることを畏れる(6節)などの主題は、E集団の好みです。上意下達、問答無用の信従です。信仰にはそういう面も確かにあります。
それに対して、まったく結論の無い不思議な燃え尽きない火の話を混ぜ込んで、Jは物語に柔らかさと膨らみを加えています(2-4節)。主なる神は、人間の好奇心を引き出す≒自分の頭で考えさせる教育的な方なのです。自分の意思で信じようとする気持ちも大切です。信仰にはそういう面も確かにあります。信仰生活はこの両面のバランスが大切です。
さてE集団の思想の根っこには預言者エリヤ(前9世紀)の実践があります。エリヤの思想と実践を引き継いだ預言者たち(ホセア:前8世紀⇒エレミヤ:前7世紀)やその弟子たちが、捕囚期にEと呼ばれる思想集団を構成していたのです(前6世紀)。「神の山ホレブ」での出来事は、エリヤにも起こったことでした。列王記上19:8(旧約566頁)です。エリヤは急進的な預言者でした。政教一致した国家権力・国家宗教(バアル宗教)に抵抗し、バアルの預言者らを大量に殺害しています(王上18章)。そのために国家権力から指名手配され、亡命します。40日40夜かけて逃げのびた場所が、神の山ホレブでした。ここでエリヤは神に死を願います。初めて弱音を吐いたのです。その時に皮肉なことにエリヤは神からの召命を受けます。一度預言者として挫折したエリヤが、ホレブ山で再び別の使命をいただいて立ち上がるのです。モーセの召命と似ています。なぜ似ているのでしょうか。どちらかが真似をしたからです。
列王記の方が先に書かれたのですから、出エジプト記は列王記の記事を知っていて、それをなぞって書いたと考える方が自然です。「エリヤの体験は、実はモーセの体験(前13世紀)を基にしている」とか、「モーセとエリヤは同一線上にある人物」とかと、現在ある聖書は言いたいのです。だから現在の読者であるわたしたちは、安んじてエリヤとモーセを重ね合わせれば良いでしょう。両者は似ています。
エリヤという人は出自がよく分からない人物です。ティシュベ人というだけしか知られていません。このことは、ヘブライ人/エジプト人/ミディアン人として存在自体が流動的なモーセに似ています。
挫折の中にいるという点でもモーセとエリヤは似ています。エリヤは神に従ったために亡命する羽目になったことに不条理を感じています。モーセは同胞を助けたために亡命する羽目になったことに不条理を感じています。国家による指名手配という点でも似ています。自分の力では抵抗しきれない圧倒的な権力を前に、殺される恐怖が理由で逃げたわけです。神はそのような人を用いる方なのです。人生のどん底に、神がおられて、正にそこで神がわたしたちを必要としておられるのです。それでも従え、または、そこでこそ別の使命のために遣わされてゆけと、神は召される方です。
この服従への招きは、場合によっては酷な教えでもあります。E集団の挫折・どん底という主題を、J集団も引き受けて応答します。それが「柴(セネー)」という単語の使用です(2・3・4節)。この単語は、申命記33:16を除いては、ここだけにしか用いられません。そこでも(申命記は全体がD集団の筆)も「神は柴の中に住む」と言っているので、趣旨は同じです。柴とは「いばらの茂み」のことです。ヘブライ語にはいばらを意味する単語がたくさんあります。その中でセネーs-n-hがここでだけ使われる理由は語呂合わせ/駄洒落にあります。シナイs-n-yという単語との語呂合わせです。ホレブの山は、シナイの山の別名なのです。柴の中に住む方は、シナイ山に住む方だということです。ここには、「主は山で見られる」(創22:14直訳)という考えも重なっています。ちなみに創世記22章もEの筆にJが書き加えている物語であり、今日の箇所との類似が著しい物語です(創22:11と出3:4との類似)。
山とは何でしょうか。日本のほのぼのとした野山・里山を想像してはいけません。古代西アジアの人にとって山は危険な場所の象徴です。「わたしは山々に向かって目を上げる。わたしの助けはどこから来るのか」(詩121:1)という言葉は、危険な場所である山にこそ、逆説的な仕方で神の助けがあるという信仰告白です。
いばらとは何でしょうか。いばらとは価値の低い植物の象徴です。棘があるので扱いにくく、曲がっているので細工がしにくいし、作物の成長を妨げたりもするので、人間にとって価値が低いとされるのです。イエスの譬え話においても、いばらに覆われた種子は成長しにくいということが言われています(マルコ4章)。この意味で、山といばらは重なります。
人間にとって危険であり、価値の低いとされる場所に、主なる神ご自身がおられるとJは語ります。今までJは主を登場させませんでした。しかしここで劇的なかたちで主なる神がどこにおられるのかを告げます。人生のどん底と呼ばれるような場所、危険であり自分の価値が貶められる場所に、主はずっと居られたのです。わたしたちが見ようとすれば見られたのですが、その努力を怠っていたので見られなかったに過ぎません。
燃え尽きない火は、いつから燃えていたのでしょうか。論理的には天地創造の昔から燃えていたと言えます。神の臨在を表わすのですから。では、いつまで燃えるのでしょうか。歴史の終わりまで燃え続けると言わざるをえないでしょう。燃え尽きないのですから。主はずっと苦難の現場に居るのですし、どん底を体験する者と常に共に居続ける方なのです。
モーセに現れた神は、ゴルゴタの丘でいばらの冠をかぶせられた主イエス・キリストを指し示します。ゴルゴタも山です。ヘブライ語においては山も丘もハルという同じ単語です。人が殺害される危険な場所、忌み嫌われる場所です。その山にわたしたちは目を上げるべきですし、そこから助けが来るのです。
イエス・キリストが被せられたのは、いばらを編んだ冠でした。頭に棘が刺さった状態で、死刑が執行されたわけです。十字架刑は長時間の拷問という意味でも残酷です。肉体的な具体的痛みの只中に主がおられる。主なる神は「いばらの只中(4節直訳)」に座しておられます。もちろんいばらの冠は侮辱の象徴でもあります。「イスラエルの王万歳」という嘲り、「救い主ならば十字架から降りてみろ」という罵倒、精神的な苦痛もまた主イエス・キリストは負われたのでした。そして社会的に抹殺されるべく死刑に処されたわけです。
種まきの譬え話は不可解な物語です。種子(=信者)には道端も、石地も、いばらの中も、良い地も選びようがないからです。種子を無造作に変な場所に蒔いた農夫に喩えられる神の責任をこそ問いたいものです。その問いに十字架の主は答えます。神はいばらの只中に神の子を蒔いた、神ご自身がいばらの苦しみを負い、肉体的・精神的苦痛と社会的苦難を引き受けたのだと、答えます。神の子が世界のどん底と黄泉の深みという徹底的な低さを体験されたのでした。イサクを捧げ損なったアブラハムの物語は(創22章)、十字架において追完されます。神が神の子を捧げてしまったからです。
E集団はどん底でも従えと要求します。その神は近づきがたい聖なるお方として観念されています(5-6節)。エリヤの神です。Eの信じる神は「遠い方」「おそるべき方」です。それに対して、J集団はどん底に神が居ると語ります。その神は十字架の主イエス・キリストと同じ方です。つまりインマヌエルの神です。わたしたちのどん底に付き合い、同じ経験をし、共感・共苦する十字架の主です。Jの信じる神は「近い方」「友である方」です。神は不在なのではありません。わたしたちが気づかないほどにわたしたちの近くに居られ、不思議なかたちで常に共に居たということを、時に応じて示してくださる方なのです。
英語のcompassion「共感」は、「共に」という意味のcomと、「情熱」という意味のpassionから成ります。このpassionには「キリストの受難」という意味もあります。受難週をPassion Weekと言うゆえんです。キリスト教信仰において共感するということは共に苦しむことを意味します。単なる同情や、上から目線の憐れみではないのです。苦難を負わされている民と、常に共に歩き続け、二つの牛をつなぐ軛の「もうひとつの首穴」に自らの首を入れて、重荷を共に運ぶ方がインマヌエルの神・十字架の主です。
この共感・共苦の神は、族長たちの神でもあります(6節)。アブラハム・サラ・ハガル・ケトラの神、イシュマエル・イサク・リベカ・ラバン・ナホルの神、ヤコブ・エサウ・レア・ラケル・ビルハ・ジルパの神、ヤコブの12人の息子と1人の娘の神です。この人々は旅をする家族でした。その旅に主は常に共におられました。聖書の神は、周辺諸民族の神々と異なり、場所に縛られない方です。礼拝施設に定住するのではなく、移動する民と共に移動する神です。そこにインマヌエルの徹底があります。この根本的な慰めなしに、急進的な服従への励ましはありえません。
バビロン捕囚というどん底の体験の中で、外国に住みながら存在が脅かされている民は、モーセの召命物語を読みながら慰められ励まされたのでした。バビロンの街では捕囚民は日常的に嘲笑されています(詩編137編など)。肉体的・精神的苦痛と、社会的苦難がいばらのように覆っている危険な山なのです。その只中で共に集まり礼拝をする時に希望の書である五書が朗読されます。するとそこは神と共なる祝宴会場・神の山となります(出24章)。どん底から助けが来るという体験を共有するのです。そしてどん底でも従うという意思がひとりひとりに与えられ、それぞれの厳しい日常に散らされていくのです。毎週の安息日礼拝が必要となったのは、捕囚民の厳しい現実からなのです。教会は曜日を変えましたが、毎週の礼拝という体裁を継承しました。それはわたしたちの現実にも適う良い伝統です。七日に一度は共に慰めと励ましを得たいものだからです。こうしてエジプトの奴隷と、バビロンの捕囚民と、わたしたち毎週の礼拝者とが一直線に並びます。共感・共苦の主の周りに座る民として、わたしたちは同じ聖書の民なのです。
今日の小さな生き方の提案は、共に毎週の礼拝をできる限り守りましょうという勧めです。これは神に会うための義務ではありません。救いの条件でもありません。主は常に共におられ、助けてくださるからです。また「本当は毎週礼拝したいけれどもできない」という苦しみにある者を、さらに苦しめる論法は避けるべきです。義務としての「主日礼拝死守」ではなく(それは魂を殺します)、わたしたちが慰め・励ましを得るための「礼拝への招き」です。十字架の主と共にいることを実感できる礼拝共同体をつくっていきましょう。