五書は紀元前6世紀、バビロン捕囚の時代における四つの思想集団による合作であることをこれまでも申し上げてきました。JEDPと呼びます。今日の箇所には初めてD集団の筆が入っています。D集団の起源は紀元前7世紀に遡ります。ヨシヤ王の時代です。「申命記改革」と呼ばれる一大政治運動がありました。南ユダ王国を実質的に支配していたアッシリア帝国が弱体化しました。パレスチナ地域に対する軍事的圧力が弱まりました。その隙に、ダビデ王時代の領土を回復し、エルサレム神殿を中心にした中央集権国家を作ろうという企てが「申命記改革」です。政教一致した軍事的侵略国家をつくる企てとも言えます。この政治運動の担い手が申命記(の原型)を改革のための企画書・法律・施行細則と考えていたので、申命記改革と呼びます。申命記の中に行政組織の施行細則が多いのは、回復した領土に行政官・裁判官・レビ人などを派遣するためのものです。失った土地の奪還・軍事的占領が主題にあるので、D集団は先住民たちに排他的な思想を持っています。
捕囚期に五書を編纂する計画がPから起こりEもJも加わります。文書化運動の先輩であるDもそこに加わります。そして彼らにとって重要な文書である申命記を五書の一部に捧げたのです。さらにDは五書の随所に書き加えていきました。8節の途中「この国から・・・」から「導き上る」までです。ここには六つの先住民が紹介されています。この部分がDの書き加えです。Pと並ぶ有力な思想集団だったのでぎりぎりまで書き加えを続けることができたのです。
申命記7章1節を読みます(292頁)。ここにある七つの民族は、先ほどの六つの民族と重なります。ギルガシ人だけが欠落していますが、ギリシャ語訳聖書・サマリヤ五書・死海写本(4Q Gen-Exoda)にはギルガシ人も挙げられています。いずれにせよ、この二つの聖句の密接な連関は明らかです。同じ思想をもつ人たちの筆によって書かれたのです。申命記Deuteronomyの頭文字を取って、D集団と呼びます。
ヨシヤ王の侵略国家は王の無謀な戦争による戦死によって挫折します(前609年)。そして南ユダ王国はこの直後からバビロン捕囚という破局まで転落していくのでした(前598年・前587年)。敗戦は多民族への排他的な態度に対する教訓です。現在もわたしたちは、後19世紀から始まる「パレスチナ問題」「中東情勢」に直面しています。その際に、Dのもつ排他性は批判すべき対象です。エジプトから逃げることと、先住民を追い出すことは、決してイコールではないものです。今日の説教において8節後半は重視しません。
7節から8節前半まではJの筆(「主」という神の名)、9節から10節をEの筆と考えます。全体はEの物語ですが、そこにJが書き加え、その後にDが書き加えたのでしょう。9節の「今、わたしのもとに届いた」という単語は、2:23(P)と重複しています。Eの後にPが書き加えたと考えれば良いでしょう。JEDP理論の利点は、この類の重複を説明できるところにあります。
先週は、Jの神理解とEの神理解を比べた上でまとめていきました。わたしたちと「近い神・共に居て肩を並べている方」・「遠い神・ひれ伏し服従すべき方」という言い方をしました。今週も似ています。今日の箇所は「神による救い」を教えています。Jは「おのれの民を直接的な方法で救う主」を語り、Eは「おのれの民を間接的な方法で救う神」を語ります。
Jの描くヤハウェ神は、きわめて人間臭い神です。「民の苦しみをつぶさに見」ます。原文において強調構文を使っていますので、これで直訳です。ヤハウェは、具体的な「追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き」ます。そしてヤハウェは「その痛みを知った」のでした(7節)。同じ単語を使いながら、Pはもっとさらりと描いていました(2:24-25「嘆きを聞き」「人々を顧み(見)」「御心に留められた(知った)」)。Pの信じる神は超然とした神なのです。あるいは、Pは大状況を大まかに書きたがるのです。それに対してJは細かい描写を好みます。創世記1章と2章の書き方の違いがここにも起こっています。
8節「それゆえ」は訳しすぎです。7節と8節を原因と結果としなくて良いでしょう。ここは継続的・同時的にも訳せるので、直訳の「そして」ぐらいが無難です。または反対に踏み込んで、「つまり」とも訳したいところです。
8節前半は「つまり、わたしは降った、エジプト人の手から彼らを救い出すために。」と訳せます。新共同訳は、主がすでに降ったのか、これから降る予定なのかを曖昧にしています。サマリヤ五書は未来の意味にしていますが、おそらくそれは創11:7と調和をとるための修正です。すでにいばらの茂みの中にヤハウェは居るのですから(4節)、ここは過去の意味で「(すでに)わたしは降った」とします。
ここには自らの手で自分の民を直接救い出すヤハウェの神が描かれています。ヤハウェは救いの目的のためにすでに降っていたのです。救いの業の内容はエジプト人の手から救い出すことです。奴隷の解放です。その救いの業の一部として、民の苦しみをつぶさに見ること・追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞くこと・その痛みを知ることがあります。主ご自身が見・聞き・知る。それは先に降っているからできることでしょう。そして民から見れば、降ってきてくださっただけで嬉しいものです。奴隷の民と共に居て下さるだけで、少し重荷が軽くなるものです。
ヤハウェの神はイエス・キリストと同じ神です。神の懐から降って行きガリラヤの民と共に歩くイエスは、奴隷の民イスラエルと共に歩く出エジプトの神です。イエスと出会った人々は、その時・その場で直接的な方法で救いを経験しました。ある者は癒され、ある者は食べ物を与えられ、ある者は教え諭され、ある者は励まされたのです。
ヤハウェの神と、神の子イエスと、「ヤハウェの霊/イエスの霊/聖霊」は同じ神です。神からもイエスからも派遣され降って来られる聖霊は、わたしたちを直接的な方法で救います。ある者は癒され、ある者は食べ物を与えられ、ある者は教え諭され、ある者は励まされます。身体的にも、また精神的・霊的にも、わたしたちは霊である神によって直接救われます。
救いとは何か。よく分からないものです。言葉で説明した途端に嘘っぽく聞こえるからです。わかりやすくするために、たとえば、このように考えたらどうでしょう。自分の苦しみをつぶさに見る方がいる。抑圧状況からくる自分の叫び声を丁寧に聞く方がいる。自分の経験している痛みを知っている方がいると考え、信じる。そうすると、人生の重荷が軽くなるような気がしないでしょうか。これも霊である神による救いの一部です。
この救いをわたしたちは「全体の救い」の途上で経験します。毎週の礼拝で人生の重荷が軽くなる経験をしながら、出エジプトの道を歩き、約束の土地に入るという「全体の救い」「歴史の目標」を目指します。解放奴隷(罪赦された罪人)の集まりである教会は、世界全体の贖いを目指して励まし合いながら・慰め合いながら歩く神の民です。ペンテコステ以降、霊である神は降ったと過去形で言うべきです。そして直接、この救いの歴史を導いておられます。
さてE集団は、間接的な方法での救いを語ります(9-10節)。モーセという指導者を用いて出エジプトを果たそうとする神を、積極的に描き出すからです。人間を用いるという方法は間接的です。神自らが降るのではなく、モーセが神の代理人として民の指導者となり、モーセが民の代理人としてファラオに交渉をする、ここに力点があります。Eは信者に対して急進的な服従を要求するのですから。9節には「叫び声が届いた」「有様を見た」と、こちらもJと違って民の苦しみがあまり具体的ではありません。10節に重きがあるからです。
「今、あなたは行け」「わたしが遣わす」「あなたが連れ出せ(サマリヤ五書・ギリシャ語訳)」という神からの命令への服従がモーセに要求されています。「あなた」と「わたし」という人格的な関係から来る命令です。この場合、降って行くのはモーセということになります。ホレブ山(シナイ山)から、再びエジプトへ降れ、そこから再びホレブ山(シナイ山)を経由して、約束の地に導き上るために今降って行けと、神はモーセに命じました。黒人霊歌のGo Down Mosesという歌は、この辺りの上下運動を上手く言い当てています。
モーセに命じたエロヒムという神は、イエス・キリストを派遣したアッバと呼ばれる神です。神は神の子を地上に派遣しました。クリスマスを降誕節と呼ぶように、神から遣わされた神の子イエスは天から地へと降って行ったのでした。それはおのれの民を救い出すためでした。神は神の子を用いて間接的な方法で世界を救い出しました。モーセの派遣はそのことの予表なのです。モーセは「メシア的人物」の一人です。
神の子イエス・キリストを用いて世界を救った神は、わたしたちをも用いて世界を救おうとなさっています。神の子を通して(つまり間接的な仕方で)、わたしたちは一人残らず神の子らだからです。神は神の子をこの世界に遣わしたのと同じように、わたしたち神の子らを世界に遣わします。それは奴隷の苦しみにある隣人を連れ出して救い出すため、共に約束の地に入るためです。
救いとは神ご自身の直接の行いです。誰でも聖霊の働きによらなければ、イエスをキリストと告白することはできません。霊である神が直接伝道をし、直接その人に働きかけ、直接人を救い出すのです。バプテスマという人間の行い・儀式には人を救う力はありません。神ご自身が人を救い出し、人はその後に自分の救いを告白し、その告白を受けた教会が三位一体の神の名においてバプテスマという儀式を志願者に行うのです。ある人は「自分の貪りの罪がキリストによって贖われ、新生した」と告白するし、ある人は「貶められていた自分のいのちが、キリストによって尊重され、新生した」と告白するでしょう。
この事実はわたしたちの伝道という行いとどのような関係になるのでしょうか。神が何もかもなさるのなら、教会には伝道する必要は無いのでしょうか。もしわたしたちが自分たちを高めるため、上に登るためならば、伝道などという行いをすることは百害あって一利なしです。教会という人間の組織のため、「先に救われた者のプライドのため」ならば、伝道すべきでさえありません。
伝道はイエス・キリストという道を伝えることです。だからイエス・キリストの道をなぞることです。キリストが草分けた道を歩くことです。降って行く生き方を真似ることです。そして小さくされ低くされ貶められている人々を解放することです。神は伝道という愚かな方法で愚かなわたしたちをも世界全体の救いのために用いようとしています。
今日の小さな生き方の提案は「降って行く生き方」です。出世のレールから外れても良いでしょう。その分ヒマになるかもしれません。そうすれば貶められている人の苦痛を見・聞き・知ることができます。競争社会から適度に降りるとき、隣人に仕える時間と体力が与えられます。モーセもそうではないですか。その方が人間らしい生き方ができるのです。追い使い・圧迫するエジプト人は非人間的なのです。やはり伝道は個人がキリストの真似をすることに尽きます。それを見た他人が魅力を感じれば教会にも来ることでしょう。