今回の箇所には四種類の人々が登場します。エジプト人のファラオ(15-19節)、エジプト人の「追い使う者」(10-14節)、イスラエル人の「下役」(10-21節)、そしてアロンとモーセです(20-21節)。ここには社会階層があります。最も上位に神の子として崇められていた現人神のファラオ、次に追い使う者、その次に下役、最底辺に奴隷であるアロンとモーセがいます。階層を意識することが重要です。それは、ヤハウェという神がこの社会階層の中でどこに位置するのかという信仰上の質問でもあります。また、ファラオ以外の三種類の人々は互いに対立させられていることにも注目すべきです。ここには分断があります。この分断を乗り越えるためには何が必要なのでしょうか。
追い使う者とその下役はファラオの命令(6-9節)に忠実に従います。ファラオに出エジプトを直接要求したアロン・モーセに対して、アロン・モーセも含むイスラエル奴隷たちへの制裁です。れんがの材料の一部であるわらを奴隷自身が調達するようにと命じ、しかも一日のノルマは同じとしたわけです。
イスラエル人以外の奴隷たちも大勢エジプトにいたことでしょう。この人たちには材料のわらはいつもどおりに支給されます。イスラエルだけが自己負担となるならば、他の奴隷に対する見せしめになります。「ファラオに歯向かって交渉をするとあのような制裁措置をされる、それぐらいなら楯突かず黙々と従おう」と思うようになるでしょう。萎縮効果がファラオの狙いの一つです。それはイスラエル人に対しては「アロンとモーセの言うことを聞くと損をする」というメッセージにもなります。イスラエルと非イスラエルという奴隷の民の間に分断が生まれ、イスラエルの内部にも分断の芽が生まれます。
イスラエル人は当たり前のことですが一日のノルマを達成できませんでした。それはそうでしょう。他の奴隷たちのために国家がわらを刈り尽くしているからです。下役たちがいくらはっぱをかけて急き立てても、無いものは拾えません。そうなると、エジプト人である追い使う者たちは、イスラエル人である下役たちに辛く当たります。体罰です(14節)。追い使う者たちはファラオを恐れているのです。れんがの生産量が目標に達しないことの最終責任は、追い使う者たちにあります。ファラオからの懲罰を恐れて、彼らは下役たちに暴力をふるいます。エジプト人同士ならばこのような暴力をふるうことはできないかもしれません。ここには民族差別も絡みます。相手が「目下」のイスラエル人であるから、エジプト人は体罰という方法で急き立てました。
イスラエル人奴隷をまとめる下役たちは悲しい思いになりました。差別に直面すると心も体も痛みを覚えるものです。彼らは奴隷の中では出世頭です。エジプト人と方を並べるぐらいになったという自負もあったかもしれません。6節において彼らは対等にファラオの前に召集されています。れんが造りという同じ仕事を担っているというやりがいもあったことでしょう。しかし、何かことが起こると、このようにイスラエル人だけが暴力を被るのです。暴力は分断を深刻化させます。そして差別が暴力を下支えしています。
イスラエル人の下役はファラオに叫びます。「あなたはあなたの奴隷たちになぜこのようになさるのですか。わらはあなたの奴隷たちに与えられていないのに、『れんがをわたしたちに作れ』と(彼らは)言い続けています。そしてご覧下さい。あなたの奴隷たちは打たれています。つまりあなたの民は罪を犯しているのです」(15-16節直訳風私訳)。ここには民族差別への批判があります。あなたの民エジプト人が暴力をふるうのは良くないと言っているからです。また、イスラエルは「あなたの奴隷たち」であると言い、ファラオの奴隷に対する扱いの不当さを批判しています。ファラオは倫理的宗教的な意味で罪を犯していると、非常に鋭い指摘をしています。
イスラエル人の下役たちは、アロンとモーセに見習ったのでしょう。それまではファラオに楯突くようなことは考えてもみなかったと思います。しかし、あの二人の勇気ある直接交渉を見て、「これは我慢をするべきではない、直接叫ぶべきだ」と考えて、政治的な直接行動を取ったのです。しかも宗教的な言葉を使って、ファラオの良心に働きかけたのです。新共同訳は「間違っている」(16節)と訳していますが、この動詞は通例宗教的な意味の「罪を犯す」時に用いられます。「ファラオの制裁行為は神の前に倫理的に正しくない」と下役たちは堂々とファラオの前で語りました。この言葉遣いから、下役たちの言動はアロンとモーセの影響によるものと推測します。20節で二人が待ち受けていた様子からも、下役たちはファラオに交渉する前にアロンとモーセから主張すべき内容を教えてもらっていた可能性があります。
すると(あるいは、だからこそ)ファラオは猛反発します。「怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ」(17節)。新共同訳のこの部分は臨場感あふれる名訳です。図星をつかれると逆上する感情的な人はいます。その逆上を演技・技術として用いるのがハラスメントです。そして力を濫用して力づくで話し合いを打ち切るのです。ファラオは結論を決して曲げませんでした。居丈高な言動も暴力の一種です。ここでも暴力が分断の道具になっています。下役たちは自分たちが「悪の中にいることを見/認め」ました(19節、直訳)。この構造的な悪に出くわすと、多くの人は悪の中に陥る方がましではないかという誘惑に遭います。下役たちとアロン・モーセは連帯していたのですが、連帯を断ち切ろうとする誘惑が生じます。それこそファラオの目論見なのです。下役たちはアロンとモーセと対立するように仕向けられました。
「わたしたちを殺す目的で彼らの手に剣を渡すために、あなたたちはファラオの目に・彼の家来たち(奴隷たちとも訳しうる)の目に、わたしたちの臭いを臭くした」(21節直訳)。人に対して「あの人は臭い」と言うのは差別や偏見の常套句です。「あなたたちがけしかけるので、エジプト人のイスラエル人差別は強化されたではないか。寝た子を起こすものではない。彼らに迫害の理由を与えるぐらいなら、黙って従ったほうがましだった」。このように嘆いて、下役たちは共に交渉をし続ける行動から、退いていきました。出エジプト交渉という運動にとって大きな打撃です。下役というエジプト社会上層部との接点であるイスラエル人が仲間であるときには、アロンとモーセの交渉運動は成功率が高かったのです。下役たちと分断させられ、下役たちがエジプト側に取り込まれたのは打撃です。
22節「そしてモーセはヤハウェへと立ち帰った」(直訳)。モーセは抗議をします。またもやモーセは「わが主人よ(アドナイ)」と呼びかけ、ヤハウェという神の名を用いません。抗議の意思が込められているからでしょう。
「なぜあなたは民に悪を行うのか(22節)」とモーセは神の責任を問います。その言葉は「下役たちが悪の中にいる」(19節)や「ファラオはこの民に悪を行っている(23節)」と対応しています。同じことば(語根)が用いられているからです。表面的にはファラオが下役も含むイスラエルの民に悪を行なっています。しかし宗教的に言うならば(唯一神教的に言うならば)、最終的な悪の責任者は歴史を導く神にあります。モーセはファラオが構築した構造的悪を放置している神の悪を問うているのです。「神は善い方であるはずだ。なぜその善い方が悪をそのままにしておかれるのか」ということです。「善い業のためにわたしに使命を与えてファラオのもとに派遣したはずなのに、事態が悪化するとは何事か。自分の民を救わない神が、果たして神の名にふさわしいのか」ということです(22-24節)。「自分は救えるだろうけれども、他人を救わない。それがイスラエルの救い主か」という鋭い問いです(マコ15章31-32節参照)。モーセは社会階層の最上部にヤハウェを置いて、ヤハウェの「不作為の悪」を問うたのです。ファラオの上にいるはずのヤハウェこそ行動すべきではないか。
とうとうモーセとヤハウェとの分断までもが起こったのかとも思える事態です。ファラオの悪巧みが勝利したかのように思えるその瞬間に逆転劇が始まります。十字架なしには復活はありません。どん底こそV字回復の開始地点です。
下役が打たれたこと・悪に飲み込まれたことをきっかけにしながらも、モーセはきちんと最底辺の奴隷たちの苦労に留意しています。「この民」・「あなたの民」(22-23節)と繰り返しているのは強調点を示しています。良い質問は良い答えを引き出します。ヤハウェは自分の責任を認めているからです。「今、あなたは見る/認める。わたしの強い手によってファラオがイスラエルを派遣する(去らせる)のを」(6章1節)。
具体的には、下役という中間存在を頼るな、ただ神の強い手だけを信頼せよ、つまり、あなたたち二人だけでファラオと交渉しろという声かけです。実際この後の物語で奴隷であるアロンとモーセが直接交渉を延々と続けることになります。それは下役への配慮でもあります。職務上板挟みになる人を苦しめてもいけないのです。
「強い手によって」と言いながら何もしないことは、ヤハウェが社会階層の中でどこにいるのかを示しています。モーセは最上部にいるはずだと考えているのですが、ヤハウェはそうは答えていません。ヤハウェは無力な仕方で最底辺にいるのです。茨の中にヤハウェは座しておられる方です(出3章4節、申33章16節)。十字架で無力に殺される方と同じ神です。ヤハウェは名もない奴隷の一人としてわらを集め、腰を屈めてれんがを造り、おのれの十字架を担わされています。そして、そのような無数の奴隷たちがアロンとモーセを代理人としてファラオとの交渉に派遣しているのです。神は奴隷の神・ヘブライ人の神です。神の強い手というものは、奴隷たちのれんがにまみれた無数の手の集合体です。その多くの手がアロンとモーセを派遣しています。エジプト人の追い使う者たちから打たれた下役たちの手を借りる必要はありません。アロンとモーセが交渉している時に彼らの代わりに働いている奴隷たちの手が(5章4節参照)、ヤハウェの強い手としてファラオに働きかけていきます。「あなたはわたしがファラオにすることを見る」(6章1節)。
ここに分断を乗り越える道が示されています。12章38節には出エジプトの旅に種々雑多な人々が加わったことが記されています。非イスラエル人の奴隷たちも連帯しています。12章35-36節には好意的なエジプト人が金銀・装飾品・衣類をイスラエル人に提供したことが記されています。エジプト人の一部も連帯しています。ヤハウェの強い手は目には見えませんが、信頼のネットワークとして現にあるのです。社会階層としては対立させられがちではあっても、個々人の良心の中に「この悪の構造はおかしい」という考えがある限り、連帯の網目・連絡網をかたちづくるヤハウェに希望をおくことができます。
今日の小さな生き方の提案は、分断ではなく連帯をということです。分断を促す国家権力の手は力強く見えます。差別と暴力を道具にするのでわたしたちに恐怖と無力感を植え付けます。しかし本当に「強い手」とは、名もない無数の連帯の手です。わたしたちは微力ではあっても無力ではありません。神は何もしないのではありません。微力なわたしたちと共に働いておられます。神への希望が、分断への誘惑に遭うわたしたちを悪から救い出します。共に手を取って分断という罪から贖い出されていいきましょう。