Kさん葬儀説教 ルカによる福音書2章36-38節

Kさんという人がどのような人であったのか、聖書に照らしてお話いたします。それは2013年から牧師・園長であるわたしの知っている限りの彼女の姿であり、かつ、キリスト者としてどのような人であったのかという視点でのお話です。

一言で言えば自由な方であり軽やかな方であったと思います。おしゃれな方でした。その意味で神に仕え・神に従う方でした。なぜならわたしたちの信じている神が「自由」を性質としているからです。「わたしはある/成る」という名前を持つ神は、自分の思うところに風のように吹くことができる神です。それが聖書の示す神です。

1930年12月10日にお生まれになったKさんの人生は思うようにならない人生であったし、しかし深いところで思うようになった人生でもあったと思います。誰も好き好んで夫と死別したくないものです(1975年)。しかし人生万事塞翁が馬と申しますが、その不幸な出来事がいづみ幼稚園との深い関わりの大きなきっかけとなります。幼稚園事務職として任用されたからです。「まさか自分がこんなに幼稚園・教会に関わることになろうとは」と、生前おっしゃっていたことを思い出します。そしてそれが「普通の人」から「自由な人」(それは真の意味で普遍的に通じる人=「普通の人」であり、わたしの言葉で言えば「ただの人」という意味です)に変わっていく道のりでもあったのです。

1983年9月4日、バプテスマを奥多摩の川で受け、キリスト者としての歩みが始まります。爾来、31年欠かすことなく毎週の礼拝に通っておられたのでした。しかも最も教会から距離の近い下馬の人として徒歩で通っておられたのでした。往復回数は何回だったのだろうと、ふと考えてしまいます。

その間、教会の責任役員も、幼稚園の理事も歴任され、2006年度途中から2010年度までは幼稚園園長もなさっていました。80歳近くになられていましたが、お人柄・ご人徳によってみんなから推され、幼稚園の難局を見事に乗り切ってくださったと伺っています。「最終的な責任は自分が受け持つから、現場は自由にやりたいようにおやんなさい」という姿勢だったとのこと。いづみの伸び伸びとした保育にぴったりの園長をいただいた幸せな時代だったと思います。園長として思うことを思ったようにずばずばと采配できたのではないでしょうか。

Kさんは世界の昔話・日本の昔話をそのまま95話覚えておられた「超人」でした。それを、幼稚園・教会の子どもたち、また近隣の保育園の子どもたちにも喜んで「素話」で語りかけてくださっていました。毎年の年中組のお泊まり保育の際には、寝る前に素話をしてもらいました。また、翌朝の散歩では必ずKさん宅に子どもたちを連れてあいさつにうかがったものです。「Kさんはまっすぐ教会を往復できた試しがない」と言われました。この10分以内の間に、誰からから声をかけられ、立ち止まってはお話をし、結局1時間も帰宅に時間がかかることもあったとのこと。下馬という街の名士でした。

子ども好きな人というのは概して自由な方です。子どもというのは勝手気ままな生物だからです。子どもの持つ独特の面白みを、「面白い」と思える人でした。そこにKさんの自由の泉があるのかとも推測しています。

愉快な方で共に食べること・おしゃべりすることが大好きでした。交差的と申しますか(それは自由の一形態ですが)、様々な人との会話の交錯を楽しんでいました。相槌がうまいのでついついこちらも何でもお話してしまいました。埼玉県名栗村の二泊三日のキャンプ、新潟浦佐の一泊二日「雪の保育」、高尾山の山登りなどなど幼稚園の大きな行事の後には、渋谷でも三軒茶屋でもくりだして教師たちと食事をとることを常としていました。そのような場でわたしはいつも、Kさんに決まりきった報告をします。「今日もいづみの保育を全うしてきました」と申し上げて、頭を下げるのです。ちょうど本場所が終わった力士が、親方・おかみさんに報告するような感じです。するとKさんはいつもにこにこして「おかえりなさい」とおっしゃったものです。この決まりきった会話をもうできないということが寂しくてしょうがありません。

この秋にも山登りのあと、いつものように三軒茶屋で教職員とともに会食をしました。その後、一緒に歩いて下馬まで帰ってきたときの話です。「わたしは死ぬのはこれっぽっちも怖くない。不思議な感覚だけれども、怖くはない。ただ少しやり残したことはある」とおっしゃっていました。

その後、11月に折り入っての話として教会をお訪ねくださいました。それはご自分の葬儀についての要望でした。今わたしたちが行っているように行って欲しいという要望です。そして、「自分は多分年を越せないような気がする。ただ、息子が12月に帰国するのでそれまでは生きたい。そして息子が日本にいる間に死にたい」とおっしゃるのでした。病気そのものは思うようにならないこと・不本意なできごとです。しかし深いところで、思ったように生きかつ死なれたのだと思います。まさに、12月22日夕方息子さん、娘さんご夫婦、妹さんたちのいらっしゃる目の前で、息を引き取られたからです。息を続けるために口を空いておられたのですが、最後はご自分で口を閉じられたのでした。延命措置を拒んでおられましたので、まさに己の良しとする自由な最後でした。死に方が生き方の集大成であるなら(そしてわたしはそのとおりであると考えるのですが)、Kさんの人生は自由な方の振る舞いに徹しています。

この召天がクリスマスの季節の出来事であったことに、わたしは深い導きを感じます。この機会に息子さんの信仰告白を読み直してみました。そこにはクリスマスがきっかけでバプテスマを受けたということが書いてありました。Kさんご一家はクリスマスと縁があるのかもしれません。

先ほど読んだ聖書は、イエスの誕生物語の逸話です。生まれたばかりのイエスを神殿に連れて「宮詣で」をする両親に、二人の年長者が祝福の言葉をかけます。今日の箇所の直前には一人目の男性シメオンが登場します。この人は「救い主に会うまでは死なない」と約束されていたというのです。そして赤ん坊のイエスを見て、「ああこれで天国に行ける」と喜んだというのです。わたしは12月17日に息子さんと無事にお会いできたKさんの喜びは、こういうものだったろうなと思ったのです。

二人目の年長の女性がアンナという預言者です。この人は「やもめ」でした。そしてその立場を大いに利用して、自由に神のために・隣人のために働いていたのです。この時代、「やもめ」というある種の職分があったと言われます(使徒6:1、Ⅰテモ5:9)。教会で、「牧師」「執事」などと呼ぶのと似た職分・階層です。たとえば自宅を集会所に開放したり、神殿に入り浸ったり、貧しい人のお世話をしたりする女性信徒指導者たちが居たと推測されています。女性の預言者や教職者を差別に基づいて排除する歴史経過があり(Ⅰコリ11:2-16)、キリスト教会から「やもめ」という職分も失くなっていったとされます。

84歳のアンナは自由な人です。初めて会った赤ん坊は馬の骨とも分かりません。赤ん坊なのですから、後の名演説も例え話も奇跡行為もイエスにはできません。しかし、「面白い」と感じるところがあったのでしょう。「この人は救い主かもしれませんよ」と人々に言い触れ回ったというのです。

アシェル族というのはガリラヤ地方に住んでいた部族ですが、当時は存在しません。700年も前に「北の十部族」は滅んでいるからです。だから自分で勝手に名乗っているだけです。なんとも愉快な人物です。わたしはこのアンナという人物にKさんを重ね合わせているのです。

思いがけず夫に若いうちから死に別れますが、まさにその時点を起点にして思うように自由に自分の時間を使い生きかつ死んだKさんは、実に自由で楽しく軽妙で愉快な方でした。いづみ幼稚園・泉バプテスト教会のために、骨身を惜しんでさまざまなお働きをしてくださいました。ご自宅も開放して多くの人々との交わりを喜んでおられました。Kさんは、アンナのような預言者・「やもめ」であったのです。

わたしは彼女との死を悲しみ、大いに悼むものです。しかし悲しみすぎてもいけないのだろうと思います。Kさんは本当に自由になって霊のからだとなって、思うようにどこにでも居られるようになったからです。楽しい交わりの中に、Kさんはよみがえっています。ちょうどイエス・キリストが、二・三人の交わりの中によみがえるのと同じように、わたしたちがわいわいと彼女を記念して集まる中に、Kさんはいらっしゃいます。それが霊のからだというものです。肉のからだとの別れに際して、わたしたちはこのような意味での再会を地上でも、また天上でもできるという希望を持つようにと促されています。

 

お祈りいたします。

神さま、この場この時をともにできることに感謝いたします。どうぞあなたの深い慰めと励ましがわたしたちとともにありますように。

主イエス・キリストのお名前を通しておささげいたします。アーメン。

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