「信仰と奇蹟」マルコによる福音書5章21-43節2022年7月10日礼拝説教(松田健太郎さん)

 説教箇所は、「マルコによる福音書」5章21節から43節、会堂長ヤイロの娘の甦りの物語を選ばせていただきました。

 ご存知のように、イエスが死者を甦らせる奇蹟は、福音書に3つ出てきます。ヤイロの娘の甦り、「ルカによる福音書」7章のナインのやもめの息子の甦り、そして「ヨハネによる福音書」11章のラザロの甦りです。

 私には2人の子供がいるためか、ヤイロとナインのやもめに対してどうしても感情移入してしまいます。中でも、同じ父親であるヤイロに起こったことは、他人事とは思えません。ヤイロの娘の物語は、福音書中で、とりわけ私の心に訴えるものがあるのです。私と同様なお気持ちの方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 それでは、話を追っていきましょう。

 この話は、イエスがガリラヤで福音を宣べ伝え、様々な奇蹟を為している中での出来事の一つとして記述されています。

 イエスがガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ地方に出かけて、再び舟でガリラヤ湖の北西岸に戻って来た時、ヤイロという名の会堂長がイエスを見かけてその前にひれ伏します。会堂長とはシナゴーグ(会堂)の管理や運営の責任を担っている指導的立場の人です。ラビと呼ばれる教師ではありません。長老またはそれに近い人と言えるでしょう。そのヤイロには12歳になる娘がいて、その子が死にかかっているというのです。ヤイロはイエスに何とか娘を助けてくれるよう伏して懇願します。

 その時点で、イエスの奇蹟行為は既に周辺一帯にうわさとして広まっていました。ヤイロはそれを知って、一縷の望みを抱いて、それこそ藁をもつかむ必死の思いでイエスのもとに出てきたのです。地域の指導的立場の人でありながら、イエスの足下にひれ伏すというなりふり構わない行為に胸を打たれます。

この後の節に、イエスの服に触れる女のエピソードが挿入されています。ヤイロの娘の話は、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書全てにありますが、イエスの服に触れる女の話が間に挟まる形も一緒です。マタイとルカは、ともにこの話をマルコから引き継いでいますので、マルコ福音書の段階で二つの異なった奇蹟の話が一つにまとめられたものと考えられます。こういった形の編集はマルコの特徴とされています。

 さて、イエスが、その服に触れる女と話しをしている間に、ヤイロの娘は亡くなってしまいました。ヤイロの家からそれを伝えに来た人は、イエスに来てもらってももうダメだ、という意味のことを言いますが、イエスはそれを気にせず、「恐れることはない。ただ信じなさい。」とヤイロに言います。イエスがヤイロの家に着くと、少女の死に人々が泣き叫んでいました。もはや死は決定的です。そんな中で、皆の前でイエスは「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言います。人々はそれをあざ笑います。

 この状況を想像してみてください。私たちは、イエスが神の子であると知る立場からこの場面を見ているので、あざ笑う人々の方の不信仰を責めがちですが、私たちも当時の人々と同様な立場だったらどうでしょうか。皆がもう死んだと思っている人を指して「この人は眠っているのだ。」と大真面目に言う人物を、まともであると思えるでしょうか。まことに滑稽な人物です。私たちもイエスをあざ笑う側になるのではないでしょうか。

 イエスは、それら不信仰な人々を外に出し、3人の最も身近な弟子と、少女の両親のみを連れて部屋に入ります。少女の両親であるヤイロと妻の気持ちを想像しないではいられません。事実として娘は今まさに死んでしまった。人々はイエスをあざ笑っている。イエスがどんな奇蹟行為者とはいえ、死人を甦らせることなど常識的にはあり得ない。絶望感と強い疑念が頭をもたげますが、親はあきらめないのです。あきらめきれない。私は、山梨県道志村のキャンプ場で行方不明になった少女の母親を思い出します。最後の最後まで信じる。子供は生きていると信じる。あの母親の姿を見たとき、親とはそういうものなのだと思いました。

 そして、イエスが少女の手をとり、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言うと、少女が起き上がり、人々は我を忘れるほど驚嘆します。この「人々」は、ルカ伝では明示的に「両親」γονεῖςとなっています。文脈から考えて、マルコでも両親を指すと考えてよいでしょう。この両親の驚きを表すのに「心を失う、正気でなくなる」(ἐξέστησαν: ἐξίστημιのアオリスト形)というほどの強い意味の単語が使われています。単に驚いたのではなく、正気を失わんばかりに大喜びしたのでしょう。劇的な展開です。一縷の望みでイエスに信頼した両親には奇蹟が起きたのです。

 この物語が史実なのか否かは置くとして、平均寿命が現代と比較して大幅に短く、幼いうちに病などで命を落とすことの多かった当時の社会では、子を失う親はあまたいたことでしょう。愛する子供に先立たれることは、今も昔も親にとって最大の不幸です。子供に生き返って欲しい、子供が生き返ってくれたなら、という多くの親たちの切実な願いが、この話の古い層に横たわっているように思います。

 さて、この物語の主題について考えてみましょう。

 中心的メッセージは、36節の「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエスの言葉です。奇蹟の中でも最も劇的な、死人の甦りという出来事を通じて、ただ信じること、つまり一途な信仰と奇蹟の強い関係性を述べようとしているのです。

 聖書では、信仰と奇蹟の強い関係が繰り返し強調されていることはご存知のとおりです。ヤイロの話に挟まれている「イエスの服に触れる女」の物語でも、34節で「あなたの信仰があなたを救った。」とあります。これがこの女の話の中心的メッセージです。つまり、この二つの物語は一体となって信仰と奇蹟の関係を述べているのです。

 では、このような奇蹟を一体どう考えればよいのでしょうか。信仰さえあれば、死者も甦るというのでしょうか?神さまは全能ですから、もちろん死者を甦らせることができます。福音書にも、「神は何でもできる」(マタ19:26、ルカ1:37)とあります。ですから、ヤイロの娘の甦りが虚構であるとは言い切れません。

 しかしそうは言っても、現実の世界を見渡せば、神は人を甦らせるようなことはなさらない。此の世では死者の甦りは起きえないというのが常識です。だから、現代の人々は、福音書の奇蹟の記事に躓きます。一途に信じれば死人が甦るなどと言っている本が信用できるのだろうかと。奇蹟の記事は聖書の中で最も際立つものですから、聖書全体が信用ならないもののように思われるのです。

 ここで、私の体験をお話しします。

 私には二十歳になる娘がいます。詳しくは申しませんが、まだそれほど前ではない時分に、彼女は危うく死にそうになりました。死んでもおかしくはなかった。今はだいぶん元気になりました。娘が救急車で搬送されて入院した時、よくは思い出せないのですが、私は、神に祈っていたと思います。そういうと、ここで何か奇蹟的なことが起こったのかと期待されるかもしれませんが、当然ながらそんなことは起きません。結果的に娘は大丈夫でしたが、医学的、時系列的に考えて、私のその時の祈りのおかげで娘が助かったということはないです。

 ところで、冒頭でも述べましたが、私にとってヤイロの娘の甦りは最も心に残っている物語の一つでした。娘が危うく死ぬかもしれなかった日の数日後、まだ娘が入院していた時ですが、ふとこのヤイロの娘の話を思い出して、何かに打たれた気がしました。それから、黙想したり、この物語を読み直したりしました。その時、この物語が本当に深く私の中に入ってきました。思い巡らした結果私がこの物語の意味を理解できた、というのではありません。それとはまったく逆方向で、この物語の方がわたしの直面していた現実を照らして、私に状況の意味を直観させたのです。それは、娘が今此の世に生きているということが一つの奇蹟であるということでした。私の娘は幸いにして亡くなりませんでしたが、私には、彼女が「死ななかった」のではなく、「甦った」と捉えられたのです。恵みによりそう直観させられました。聖書の物語を通してそう知らされた私の体験それ自体も、一つの奇蹟だったように私には思われます。

 私にとって、聖書に書かれているこの奇蹟の物語は、このようにして「体験」されるものでした。こちらが外側から聖書の物語を理解しに行ったのではなく、ある時、物語の方から私に入り込んできて、私の現実を照らし出したのです。私は全くの受け身でした。

 聖書のこの奇蹟の記事は、私に能動的な理解を求めているのではなく、あるリアリティーを受動的に体験させるための媒体ではないかと、私は思いました。勿論、このとらえ方が唯一とは全く思っておりません。繰り返しますが、神は全能であり、実際にヤイロの娘が甦ったことも否定し得ません。それが事実であり得るということに反対ではありません。ただここでは、2000年前の出来事の事実判断とは関係なく、その奇蹟の記事を通じて今の私に起こった、私にとっては奇蹟と言える体験をお話ししました。

 同じことは、不幸にして子供を亡くされた方にも別の仕方で起きることがあるのではないでしょうか。内村鑑三は、数え年19歳の娘を病で失くしました。その経験をルカ伝のヤイロの並行箇所についての研究で述べています。それはもちろん私とは比較にはならない辛い経験です。内村の娘はその場で甦ることはありませんでした。その内村にも、しかし聖書は別の現実を照らし出したのだろうと思います。娘の死をきっかけに、内村は再臨信仰を強めて行くことになりました。

 さて、私が体験した、私にとっては奇蹟のような出来事が起きる前提は、イエスが繰り返し教えられた「ただ信じる」ということです。イエスがこんなにも「信じる」ことを繰り返されたのは、それが致命的に大事なことであると同時に、難しいことだからです。

 「信じる」とは、聖書の奇蹟の物語をただ史実として信じなければならない、というような即物的なことではないと思います。三位一体の神を信仰し(つまり、信じ)、聖書の記述には、字面の文字通りの理解には収まりきらない真実がある、言語を超えたそれ以上の使信がある、ということを信じる、聖書を信頼する、ということだと思います。そのようにして聖書を信頼して読んでいると、ある時、聖書の奇蹟の記事が、現実を、まさにその記事の語る奇蹟として照らし出す。私の経験はそういうものでした。

 イエスは言っています。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:6)

 ほんのわずかでも聖書に対する信頼があれば、奇蹟は体験され得る、現実が奇蹟として照らされると、主イエス・キリストは言っているのだと思っています。

 この体験のずいぶん後で知ったことですが、ヤイロという名前は、「彼は照らすであろう」という意味だそうです。私はこのことにも驚いています。

 最後に、イエスはヤイロの娘の甦りの奇蹟の後、所謂「沈黙命令」を発しています。すなわち、「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ」ました。

 このことが引っ掛かり、私は私の体験を語ることに躊躇を覚えました。しかし、イエスが沈黙命令を発した理由は、奇蹟を、ただ外面的に、事実として、出来事としてだけ伝えることが有害であるからです。信仰のない者、信じようとしない者には、奇蹟はあざ笑いの対象になり得ます。出来事をただ伝えるだけでは駄目なのです。他方、教会に集う皆さんに私の体験を証しすることは、それとは全く違うことです。それこそは、主のご意志にかなうことだと信じています。