あなたと共に 創世記31章1-9節 2019年6月16日礼拝説教

「そしてヤコブはラバンの息子たちの言葉を聞いた。曰く、『ヤコブは我々の父に属するもの全てを取った。そして我々の父に属するものから、この全ての富を彼は作った』」(1節)。

ラバンの息子たちはヤコブの秘密財産をどこかで見ました。驚くべき数の羊の群れです。ぶち・まだら・縞があったり、全身が灰色であったりする羊、すべて元気な羊たちです。ラケルと、ヤコブの子どもたちが(上は20歳のルベンから下は6歳のヨセフまで)大群の羊を世話しています。見れば、大勢の使用人も、ロバやラクダなどの家畜もいます。一体どういうことか。息子たちはラケルに問いただしたことでしょう。ラケルは、「何が悪いのか。全部ぶち・まだら・縞・灰色の羊だ。これは夫の正当な報酬だ」と答えます。

この後、隠す必要もなくなったのでヤコブは堂々とハランの町の近くでも羊を放牧させることにします。町の人々は、ヤコブの羊飼いとしての手腕を高く評価します。「富」(カボード)は、「栄光」という意味でよく用いられます。「神の栄光」のための専門用語です。旧約聖書中200回用いられるカボードは、この箇所で初めて登場します。ヤコブの富は、神の栄光に匹敵する、町の栄誉として褒め讃えられたと推測します(岩波訳参照)。当時、富は神の祝福によると素朴に信じられていたのです。

息子たちはすぐに父ラバンに報告をします。ヤコブは内緒で白くない羊の大群を飼っているということ。明らかにその元手となったのはラバンの白い羊だったということ。何らかの方法でぶち・まだら・縞・灰色の羊のみを爆発的に増殖させたこと。ラバンは苦虫を噛み潰して、息子たちの報告を聞きます。確かに、ヤコブに対する報酬としてラバンが公に認めた羊のみを、ヤコブが所有しているのですから、ラバンは何も文句を言えません。隠し財産を作ることは何も禁じられてはいませんし、ラバンの白い羊の群れの管理自体は怠ることなくヤコブは行っていました。ヤコブは完璧な人なのです。6年間、ヤコブの行動に気づかなかった自分の愚かさに、ラバンは悔しがります。とうとう初めて甥であり婿であるヤコブに出し抜かれたのです。

ラバンの息子たちは陰口をたたくことしかできません。「ヤコブが父の財産を横領して財をなし、町の栄光を掠め取った」という悪口をハランの町に流したのです。今までの経緯を考えると、ひどい言い方です。ヤコブの報酬を搾取したのがラバンだったからです。そしてこの息子たちは、理由もなくヤコブが得るべき羊たちを父から贈られたのでした(30章35節)。ともかく、この悪い噂は当然、ヤコブの耳にも入ってきます。

「そしてヤコブはラバンの顔を見た。そして見よ、それは彼と共に存在しない、昨日・一昨日のように」(2節)。ラバンの顔が、この時点からヤコブと共に存在しない。ということはこの時点まで、ラバンの顔はヤコブと共に存在していたということになります。「顔」は、人あるいは神の臨在を象徴するものです。神の顔は、民に向けられたり、民に同伴したり、民を先導したりします。ラバンの顔が、ヤコブと共に存在しなくなるということは、ラバンがヤコブと共に生きる意思を失ったということを意味します。もはや利用価値がなくなったからであり、むしろヤコブが自分を踏み台にして出世していくからです。この時点で神が介入します。

「そしてヤハウェはヤコブに向かって言った。『あなたは帰れ、あなたの父祖たちに向かって、またあなたの故郷のために。そしてエフエ(わたしはある)があなたと共に』」(3節)。

前半の言葉は、祖父アブラハムに向けられた神の召しと非常によく似ています(12章1節)。アブラハムも、ハランの町で神の命令を聞きました。それは、「あなたは行け、あなたのから・あなたの故郷から・あなたのの家から」という召しです。アブラハムとイサクがカナンの地に住んでいたので、ヤコブはハランからカナンへ帰ることが求められます。

実はヤコブよりもレアとラケルの方が、アブラハムに似ています。彼女たちこそ、父の家を離れて多くの財産と家族を連れて約束の地へと初めて出て行くからです。レアとラケルは、アブラハム・サラ夫妻や、リベカの直接の後継者です。それに対してヤコブの「出ハラン」は、放蕩息子の帰還のようです。「帰れ(シューブ)」は、「立ち返れ」「悔い改めよ」とも解しえます。

完全な類比ではないけれども、もちろんヤコブの帰還はアブラハムと同じく、神からの召命です。カナンの地を出たことは、母リベカの命令によるものでした。しかしここでは神が直接ヤコブに「出ハラン」を命じているのです。

後半の言葉は、モーセに向けられた神の召しと非常によく似ています。出エジプト記3章11-14節によく似た表現があります。出エジプトの指導者となるようにという、神からの召命を拒む羊飼いモーセに対して、神は諄々と説得をします。モーセもミディアンという外国の地で国際結婚をし、舅と一緒に暮らしていたのでした。ヤコブと似ています。

「実にエフエ(わたしはある)があなたと共に。そしてこれがあなたのためのしるし。」(同12節)。さらに神の名を尋ねるモーセに対して、神は言います。「エフエ(わたしはある)、エフエ(わたしはある)というものだ・・・エフエ(わたしはある)が遣わしたと言え」(同14節)。

ラバンの顔がヤコブと共に存在しなくなった直後に、神は自分の顔をヤコブに向け、ヤコブに神ご自身が伴い、神ご自身がヤコブを導いていることを告げます。聖書の約束する救いは、神が常に共におられるという原事実にあります。イエス・キリストのあだ名がインマヌエル(わたしたちと共なる神)であることとぴったりと重なります。わたしたちが孤独を感じ、誰も隣にいないと感じる時にも、いやまさにそのような時にこそ、神はわたしたちと共にいます。それを知るだけで、人生は軽くなります。だから神があなたと共にいるという事実は、わたしたちを復活させ生き直す力を持っています。神我らと共に。天地創造の昔からこの救いの事実は、わたしたちが認めようが認めまいが、揺るぎません。問題はそのことを救いとして「アーメン」と受け取るか否かだけです。

その神の名はエフエです。神の名は神の本質を示します。「わたしはある」という意味の名前は、二つの神の性質を示しています。自由であるという性質、そして、毅然としているという性質です。「エフエがあなたと共に(いる)」という約束は、聖書の神が共にいると信徒に何が起こるのかを説明しています。つまり、神の性質にならって、わたしたちは神の似姿とされ、自由な言動と毅然とした態度をとるようになるのです。

日本社会における救いとは何でしょうか。この同調圧力の強い国で、個人が尊重されず人間としての尊厳がへし折られる社会で、何がわたしたちの救いとなるでしょうか。自由な言動と毅然とした態度が、救いです。神を信じ、神の伴いを信じる時に、わたしたちは神のように自由にされ、顔を上げ・胸を張って生きることができるようになります。

「そしてヤコブは遣わした。そしてラケルとレアを呼んだ、その野(に)、羊に向かって。そして彼は彼女たちに言った」(4-5節)。ヤコブはアブラハムよりも優れています。妻たちに相談した上で、「出ハラン」を決めていくからです。民主的な過程は効率が悪いものですが、判断の正統性を保証します(ギリシャ語訳は「レアとラケル」の順)。ヤコブ家は三頭政治です。これも出エジプトの三頭政治(ミリアム・アロン・モーセの姉弟)の模範です。ここでもヤコブはアブラハムとモーセをつないでいます。さらに言えば、三位一体の神の熟慮や、バプテスト教会や市民社会の民主的運営・熟議と重なります。

「わたしはあなたたちの父の顔を見続けている。なぜなら、それはわたしに向かって存在しないからだ、昨日・一昨日のように。そしてわたしの父の神はわたしと共にいた」(5-6節)。ヤコブは正しく自分の救いを認識しています。顔も向けずに共に生きようとしない隣人が自分を苦しめていること、その最中にも神だけはずっと共にいらしたこと。これが救いです。

「そしてあなたたち、あなたたちこそ知っている。わたしが自分の全力であなたたちの父に仕えたことを。そしてあなたたちの父はわたしをだました。そしてわたしの報酬を十回変えた。そして神は彼に与えなかった、わたしを害することを。彼がもし『ぶちのものがお前の報酬となる』と言えば、全ての羊がぶちを生んだ。そして彼がもし『縞のものがお前の報酬となる』と言えば、全ての羊が縞を生んだ。そして神はあなたたちの父の家畜を取った。そして彼はわたしのために与えた」(7-9節)。※「そして」か「しかし」かは解釈次第。

ヤコブは自分の知恵の結果を、すべて神の救いの業と考えています。ラバンはヤコブを精神的にも経済的にも苦しめました。しかし、あるいはだからこそ、神はラバンからヤコブへの物理的暴力から守り、経済的支援をしてくださったのです。神は取り上げ、神は与えたもう。神の名はほむべきかな。

信仰を持つことは良いことです。ヤコブのように何でも神さまに栄光を帰することができるからです。自分の長年の計画も神さまのおかげ。計画の実施も、結果の成功も神さまのおかげ。自分の才覚ではないと捉えるところに、ヤコブの人格の成長があります。さらに、彼には相談すべき隣人がいます。共に生きたい家族がいます。家族はヤコブを謙虚にさせ、人格的に成長させました。

ヤコブは「あなたたちの父」と何度も繰り返します。レアとラケルを説得しようとしていることが分かります。二人の「父の家」を離れることを決断させるための対話です。両者の反対や、どちらか一人の反対もヤコブは望んでいません。全員でハランを出ようと持ちかけているのです。

ギリシャ語訳は、「十回変えた」を「羊十頭に変えた」とします。確かに物語は十回もの報酬変更を記していません。ギリシャ語訳の立場は、ヤコブの奇跡的経済成長をうまく表現しています。これだけの家畜があればハランでなくても家族全員食べていけるし、羊を増やすことはいつでも可能だと、目の前の大群を見せながらヤコブは二人にアピールしています。

ヘブライ語本文は、ラバンの非道ぶりを強調しています。ここハランにいても不幸になるだけだ。何よりも自分が惨めな思いをすることにもう耐えられないとヤコブはアピールしています。いずれにせよ、妻たちの賛成を得るために言葉を尽くそうとしていることが分かります。ヤコブは言葉の人です。

今日の小さな生き方の提案は、「エフエの神が、あなたと共に」いるということを受け取ることです。これこそ救いです。誰も共にいないと思い込むことはありません。神は共にいて自由と尊厳を与えます。その神はあなたに、共に生きるべき隣人を教え、また与えます。その人たちと言葉を尽くして共に生きるのです。それが救いです。

言葉の通じない人、あなたに顔を向けない人、あなたを騙し、その尊厳を脅かす人からは距離を保って逃げて構いません。その人を出し抜くことさえも悪いことではない。神はあなたと共にいて、あなたの言動を弁護します。神と、神の与える隣人と、顔と顔とを合わせて共に生きましょう。