いのちのパン ヨハネによる福音書6章34-40節 2013年9月15日礼拝説教

「永遠の生命を得る」(40節)を本田哲郎神父は「永遠のいのちを自分のものにする」と翻訳します。本田訳の方が分かりやすいかと思います。というのもキリスト教信仰とは、永遠の命なる有難いモノを何事かをすることによって獲得するということではないと思うからです。「永遠のいのちを自分のものにする」という翻訳は、イエスのように生きるという意味を示しています。神の子イエスの生き方を自分自身の生き方にしていく、そこにいのちの輝きがあり、その輝いて生き続ける生き方が永遠のいのちだからです。

ヨハネ福音書の3章からこの主題がずっと続いています。永遠のいのちを生きるということは具体的に何なのか、特に今・ここで・何を意味するのかを毎週考えています。それがこの福音書の特徴です。

ただし今週は一つの注意が必要です。ヨハネ福音書にしては珍しく世の終わりの教えが書き込まれているからです(39-40節)。実はすでに世の終わりの箇所に出くわしていたのですが、あえて通り過ぎました(5:21、27-29)。なぜかと言うと、世の終わりに死者がよみがえるという教え(終末論)は、もともとのヨハネ福音書にはなく、後に付け加えられた部分だからです。聖書という本はそのように雪だるま式に増えて行って現在の分量になりました。まずヨハネ福音書全体の大筋・原則についてよく知ってから、その後細かい部分や例外・応用についてとりあげるべきとも考えるからです。ちなみに今日は召天者記念礼拝で、この部分を取り上げるつもりです。

永遠のいのちを生きるということ、第一にそれは自分の目で見て信じることです(36・40節)。ヨハネ福音書は全体を通じて、イエスが神の子であることを証言しようとしています。しかも、どんな人もイエスと面と向かって出会うならばイエスが神の子であると分かるはずだという信仰に基づいて、著者は書いています。バプテスマのヨハネは、イエスを見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29・36)。最初の五人の弟子(アンデレ・匿名の一人・ペトロ・フィリポ・ナタナエル)も直接イエスと出会って弟子となっていきます。ニコデモも、サマリア人女性も、王の役人も、ベトザタの池の病人もみな一対一でイエスと出会い、直接自分の目で見て信じています。人から薦められた人、半信半疑だった人もいました。アンデレやナタナエルがそうです。しかし実際にイエスに出会った時に信じない者ではなく信じる者となったのです。

ヨハネ福音書は鳥の目よりも虫の目を重視しています。空高く上から全体を見渡すというものの見方よりも、地べたを這いつくばって下から近いもの・狭いもの・小さいものを見るという見方です。望遠鏡より顕微鏡、展望台より虫眼鏡です。じっくりよく見て自分の頭で考えて信頼に値するかどうかを判断することが勧められています。

またヨハネ福音書は間接的に知ることを批判し、直接の出会いを勧めています。噂話を聞くよりも、当事者に直接話を聞くことが大切だということです。信頼というのはそういうものでしょう。遠くからその人を見ているだけでは信頼できません。間接的にその人のことを聞いただけではその人を信頼できません。見て信じること、それが現代のわたしたちにとって特に重要になってきました。地球が狭くなったと言われます。高度情報化社会と呼ばれます。その分知ったかぶりの人が増えたのではないでしょうか。その土地のこと・その出来事のこと、本当は自分で直接見ていないのに、知ったような気になっていないでしょうか。あることがらに虫の目で接近することが下手になっていないでしょうか。それが直接の人間関係の結び方の下手さにつながっていないでしょうか。噂で判断したり、遠目に見て知ったような気になっていたりしないか問われています。それでは信頼のネットワークを作り出すことはできないのです。

今日の小さな生き方の提案は、自分の目で見て判断するということです。虫の目でじっと隣人を見つめることです。出来事やことがらに近接していくことです。信者もそうでない人も、イエスとは誰か改めて近寄って、イエスのもとに来て、自分の目で見て判断し信頼し直していく作業が必要です。テレビに煽られない、インターネットなどの大量の情報を選ぶ目を鍛えることが必要です。

だから第二番目に、イエスを「いのちのパン」として見ること・信じること・欲することが勧められています。32-35節は、イエス自身が天からのパン、神から与えられた食べ物そのものであることが語られています。よく見たら必ずわかります。イエスは神の子であり、イエスを食べると永遠に生きることができる、いのちのパンであるということがわかります。

それは世界でただ一人、イエスだけが食べられて良い人という意味です。あえて言えば、イエスのみが文字通り食い物にされて良い人ということです。誰かの犠牲になって良い人ということです。

キリスト信徒は、イエスを犠牲の小羊として考えます。ユダヤ人たちの宗教行為の中には常に犠牲祭儀がありました。穀物や動物を犠牲として燃やすなどすることによって、他の人の罪をかぶり、誰かの身代わりの死を死ぬという考えです。誰かほかのいのちを犠牲にしなくては、全体が生きることができないという考え方です。

それを比喩的に言うと、「いのちのパン」ということになります。パンを食べる時にわたしたちは小麦のいのちを犠牲にしています。すべての食べ物についてそれが言えます。他のいのちの犠牲がなければ、わたしたちのいのちは保つことができません。礼拝の中でパンを食べることは、イエスの犠牲を記念するためです。ただ一度イエスはいのちを十字架で捧げました。わたしたちの代わりに犠牲となりました。それはいのちを配るためです。永遠のいのちを自分のものとしてイエスのように生きるためです。

よく見るとそれがわかります。イエスが徹底的に利他的に生きたことが聖書を近接して読むと分かります。イエスの言葉と行動は決して自分のためのものではありません。正義のために権力に楯突いたり、社会的弱者をかばったりすることばかりだからです。そういうわけで、弟子たちやわたしたち聖書の読者は、そのような方の死は利他的な死なのだ、全世界の犠牲なのだと信じることができます。自分もまたイエスを食い物にしてしまったという後悔が弟子たちにありました。裏切って引き渡したり、関係を否定して見棄てたり、そのような利己的な弟子であったのです。ましてや、弱い者たちを食い物にしていた権力者たちは何の後悔もなく冤罪をかぶせて彼を抹殺したのです。これがイエスの十字架です。

しかし、この十字架は逆転の装置でした。神が捧げたいのちのパンだったのです。復活の朝、弟子たちはイエスと共にパンと魚を食べ、赦しを体験しました。イエスを食い物にしたことは、罪を明らかにするためのことであり、罪が赦され新しい生き方を始めるためのものだったと、振り返って分かったのです。「自分の肉を食べよ。そして食い物にするのは自分だけに止めよ。むしろ今度はパンを分かち合え」とイエスは、食卓で慰め励ましておられると弟子たちは知ったのです。十字架は復活によって逆転装置になるのです。

ここには飛躍があります。この飛躍を信仰と呼びます。利他的な生き方を徹底し、利他的に死んだイエスの死が、このわたしの利益のためだったと信じることだからです。もし、この死を自分のためになされた犠牲だと信じて「いのちのパンを食べさせて欲しい。いのちの水を飲ませて欲しい」と言うなら、つまり礼拝に来るなら、そこでいつもなされるパンを食べぶどう酒を取るなら、誰でも永遠のいのちを自分のものにすることができます。

死にざまは生きざまの凝縮です。イエスの十字架とは何か、それは犠牲です。イエスとは誰か、彼はいのちのパンです。しかも唯一の犠牲、ただひとつのパンです。そしてこのわたしのためのただ一度の犠牲の死を、わたしが生まれるはるか前にしてくださった神の子です。

だから三番目に、永遠のいのちを自分のものにするということは、神の意志を行うということです(38-39節)。イエスの十字架を記念するためにいのちのパンを食べている人は、イエスの生き方を自分の生き方とする人です。イエスが神の意思を地上で行い利他的に生きたということがわたしたちの模範です。

「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)という願いは、「永遠のいのちへの水をください」と言ったサマリア人女性と願いと同じです(4:15)。この両者は呼応しています。だからこそパンの話題であるにもかかわらず、「決して渇くことがない」(35節)とも言われているのです。そしてこれは「永遠のいのち水」ではなく「永遠のいのちへの水」です。ここにも永遠のいのちが「天国行きの切符」「来世の命」のように捉えられていないことが分かります。永遠のいのちへと続く日常の生き方が問題となっています。他者のための水となっているか、隣人のためのパンとなっているかが問われます。わたしたちがあのパンを食べぶどう酒を飲んでいるからです。

今日の一つの小さな生き方の提案は、毎回ぜひ主の晩餐のパンを食べぶどう酒を飲んでくださいということです。わたしたちは決して追い出しません(37節)。子どもであれ、しょうがいを持っていて口で告白できない人であれ、日本語が第一言語ではなくて理解が不十分な人であれ、どんな人に対しても「礼拝のこの部分だけは参加しないでください」とは言いません。最終的な決断はご本人がすればよいでしょうけれども、教会としては共に食べ飲むことを望んでいます。共にイエスの犠牲がただ一度のものだったこと、イエスの生き方が利他的であったことを覚えたいし、そうして、一週間を始めたいと願っています。

いのちのパンを食べる礼拝から始まる一週間を、なるべく誰をも犠牲にしないように歩めたら最高です。誰かを踏みつけにし、踏み台にし、犠牲にしている生き方は、利他的ではありません。わたしたちはイエスの十字架を前に自分の罪を告白している者たちです。それはあの犠牲をただ一度にしようという決意の裏返しです。

フクシマとオキナワには共通点があります。二つは犠牲のシステムとして共通しています。田舎が都会の犠牲となっています。危険なものを地方に押し付け利益だけを都会が受けています。どんなに交付金が自治体に入っても、人口流出は止まりません。また原発に依存して新たに原発を立てるしか増収の道がないように法律が仕組みを作っています。できた電気は東京、放射能汚染は福島です。ヤマトは琉球を常に犠牲にしてきました。日米安保のために基地が必要だとしてもなぜ沖縄に集中すべきかの理由はありません。米兵の暴力行為の犠牲になる理由は沖縄県民にはありません。ましてやサンフランシスコ講和条約で沖縄などの島嶼部を犠牲にして日本は独立したのです。本土には核兵器を持ち込ませないけれども沖縄には構わないとしたのです。平和憲法は一秒たりとも沖縄に実現していません。東京との関係で福島は東京の犠牲となり、沖縄との関係で福島含む本土は沖縄を犠牲としています。これはわたしたちの罪です。法律も条約も東京で作られ結ばれるからです。それにより誰かを犠牲にしているからです。共に核発電と安保条約を止める道を考え行動しましょう。微力ではあっても無力ではありません。