さぁ立て、ここから出かけよう ヨハネによる福音書14章22-31節 奥田悟神学生礼拝説教

 おはようございます。本日は神学校週間に近い礼拝という事で、神学生として説教の機会をいただき、主に感謝いたします。また、こうして泉教会のみなさんと共に、礼拝をささげ、お交わりをいただく事の恵みも主に感謝いたします。

さて、本日のヨハネによる福音書、この場面は、イエス・キリストと弟子たちとの最後の対話につながる局面です。弟子たちの裏切りと共に、キリストの導きが連続して語られている所です。ここの14章の15節からの所にあたっては、聖霊を与える約束、という事で小見出しがついています。今日は、22節からをご一緒に読みましたが、18節ではキリストはこのように語ります。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る。」。

繰り返し、キリスト本人から語られているように、十字架が迫っており、一時の断絶、離散、終了があるにはある。しかし、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と言われるのです。そして「あなたがたのところに戻って来る」。ギリシャ語の原文では、「私は来る。あなた方の所にまっすぐ来る。」という「戻って来る」という言葉です。キリストと会うのは、何も弟子たちだけではありません。キリストはもういないと思うような出来事の時、その時でもキリストはまっすぐ来るのだよ、私たち一人ひとりにも、そうキリストは語りかけています。

 そして、弟子たち同様に、私たちも疑問を持つことが出来ます。22節、「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。」。そもそも神が人間を信仰ある者として創造され、イエス・キリストがそのスーパーパワーですべての悪霊を追い出してくだされば問題なし。そして、世界を正義と平和で満たし、私たち人間を信仰で満たしてくだされば、私たちがこんなに苦労して伝道に走り回らなくても良いはずです。これに対して、キリストは答えになっているような、いないような形で語られます。「私を愛する者は、私の言葉を守り、私を愛さない者は、私の言葉を守らない。」…「どういうこと?」と思いますが、これは、私たちの態度に一本の線をひくものであります。愛するのか愛さないのか、それは分断のためではなく、私たちとの関係をより深く、より強くするための、「愛の絆」であり、「愛の鎖」とも言えるかもしれません。キリストが再び来られたら、誰にでも、まっすぐに戻ってくるという様なものではない。という事であります。それは一見厳しくも、真実の、誠実な、本当の所の、あなただけの物語であります。こうして、私たちはイエス・キリストにまるでそこにいるかのように出会って、会話をし、また別れるのです。

信仰を求めて教会に通っておられる方々がこのように何人もおられます。そのような方々がいつも問われておられるのは、信仰が分かる、信仰に生きる、とはどういう事か、という事でしょう。分からないから悩む、悩むから成長するのであります。そしてますます、キリストとの結びつきは強まり、私たちは実際に、本当の意味でイエス・キリストを知るところとなるのです。たとえ、ペトロのように三度「私は知らない」と言っても問題ありません。むしろ「私は何も知らない」と自覚的に言った人の方が、キリストとの愛の鎖に手をかけ始めているのかもしれません。そこにはやはりそれぞれオリジナルの物語が皆に存在します。

 

ドイツ人の哲学者でアルフォンス・デーケンという人がいます。上智大学で長く働かれ、カトリックの司祭でもあります。彼がいつか日本で働きたいと志したのは中学生の頃でした。教会の図書館の掃除、整理の奉仕をしていた時の事、一冊の本と彼は巡り合いました。そこにはキリシタンの二十六人殉教の話がありました。子供から大人までキリシタン禁教令によって、長崎で磔にされた史実であります。その殉教者の中で最年少のものはルドビコ茨木と言いました。12歳でした。彼が捕まり牢屋に入れられて、名簿にその名前が記される時のことでした。一人の身分ある役人が見るに見かねて、この少年とも言えないぐらいの幼きルドビコ茨木に声を掛けます。「一言、一言でいいんだ。まだまだ人生はこれからだろ。何もそう急いで逝く事はないじゃないか。キリシタンをやめれば、釈放してやろう。俺だってお前のような者の名を書きたくはないんだ。」

12歳の彼は笑顔で言いました。「私が今最も望むことは、あなたがキリシタンになる事です。あなたのような人こそキリシタンになるべきではありませんか。救いのためには、他に道はありません。」その後、彼らは京都で耳を切り落とされ、長崎で処刑されました。

ドイツ人アルフォンス・デーケンはこの本に出会った当時、かれは中学生。成績優秀につき、校長先生からエリート高校への推薦の話が来ていました。しかし、そこはナチスのエリート養成学校でした。彼は悩んでいました。ですが、この本に出会い、自分よりも年下で、しかも極東のアジアで、このような信仰が存在していたことに大変驚きました。そして、彼はその学校推薦を断り、いつか日本に行こうとの志を立てたそうです。

 

そのデーケン先生は、専門は死生学だそうです。人の死生観、死への準備教育を広めたことでも知られ、2020年に88歳で天に召されました。彼の言葉の一つです。「旅立つ者にとっても、見送る側にとっても、別れは悲しくつらい。しかし「良き死」は、逝くものからの、最後の贈り物(プレゼント)となる。」

 

ヨハネによる福音書14章27節、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」騒ぐ心、おびえる心に対する、世が与えるように与えるのではない平和をわたしたちは受け取ることが出来ます。

そして、29節、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」わたしは私を愛する者の元へ戻ってくるんだ、まっすぐに戻ってくる。そのことを今、その事の起こる前に話しておく。とキリストはある種、死への準備教育を始めたのであります。

世の支配者がやってくる、十字架が起こってくる。キリストはどのように十字架へ向かい、そこでどんな姿で身をささげられたのでしょうか。死のことばかり話してしまっているようですが、キリストは、最後の最後の最後の瞬間まで生きられました。生きて生きて生きて、更に生きるという復活、最後の贈り物を残されました。

 

来週から神学校週間礼拝です。各神学校、神学生を覚える時です。改めまして、平素からのみなさまのお祈りとお支えを感謝いたします。しかし加えて、献身は神学生だけのものではありません。お一人お一人が毎週のように決心され主に遣わされて教会のために献身されています。

私たちの使命はどこへ向かっていくのでしょうか?私たちの伝道はどこへ向かうのでしょう。私たちの決心は、どこへ向かうのでしょうか?本日の箇所の最後の所、31節には「さあ、立て。ここから出かけよう。」で終わります。こことは今現在であります。現在、現状、あるいは過去から、これまでから出かけて行こう、とキリストは呼びかけておられます。そこに決意があります。

ジョセ・モウリーニョという人が語った言葉に「不条理が情熱を生むのではない。情熱が不条理を発見するのだ」というものがあります。彼は単なる世界的なサッカーの監督ですが、その競争の真っただ中に身を置いて、そんな言葉を発しました。なぜ負けたかわからない、人生にはそんな事もあります。人生には不条理が確かにあります。なぜこんなことが起きるのか、どうしてこんなことになってしまったのか、なぜ良くならないのか、どうして自分だけがこんなことになるのか。。。わたしにも、きっとあなたにも、あの人にもそんな事があります。そして、そんな事とよく向き合って来られたのではないでしょうか。時に顔をそむけたくなる事があっても、やはり向き合って来られたのではないでしょうか。

不条理な出来事が起きれば、怒りや心折れる瞬間、ショックがあります。しかし、私たちが何かを、誰かを愛し、信じて、考えるからこそ、その不条理な出来事の「意味」が見つかるのではないでしょうか。自分はこの人を愛していた、この人を信じていた、この事を大事に考えていた、キリストの弟子たちもそのようにして、イエス・キリストが我らの救い主である事を見つけたのではなかったか。

ヨハネによる福音書14章31節、「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」何も隠すことは無い、堂々と信仰者は信仰を、誰を愛しているか、誰を信じているのか、世は知るべきであります。日々新たにされ、私たちもまたイエス・キリストが我らの救い主である事を見つけていくのであります。救いのためには、他に道はない事を発見するために、信仰者の教会での、日常での、世界での営みは続いていきます。どうぞ主が我らを結び付け、なすべき業とつとめに、共に進んでいこうではありませんか。我らの魂にまっすぐに戻って来るイエス・キリストの待つところへ、共にあゆんでいこうではありませんか。お祈りをいたしましょう。