すべての人にわが霊を ヨエル書3章1-5節 2022年8月28日礼拝説教

 旧約聖書には「十二小預言書」という一まとまりがあります。ホセア書からマラキ書までの十二書のことです。大まかに書かれた順(古い順)に並べられています。ホセア、アモス、ミカは前8世紀の預言者たちです。また、文書の分量も考慮されたとも言われます。十二書のうち最長の14章を備えたホセア書が冒頭に置かれていることの理由ともなっています。アモス書の方が古いにもかかわらず、です。三大預言書(イザヤ・エレミヤ・エゼキエル)が、その分量のゆえに「大」と呼ばれていることとも重なります。

 さてヨエル書は書かれた年代が不明です。冒頭に誰それが王の時代という情報が記載されていません。また、ヨエル書は分量も多くありません。なぜ14章あるホセア書と9章あるアモス書の間に、4章しかないヨエル書が置かれるべきか説明が難しくなります。ちなみにギリシャ語訳聖書は、ホセア・アモス・ミカ・ヨエルという順番で、二番目ではなく四番目です。ただそれでも四番目は十二書全体の中では早い順にあります。

 小さな書であるヨエル書が番付上位であることの理由は、その内容にあるでしょう。心を打つ内容が番付を押し上げます。それは本日の箇所です。人間の平等を強く打ち出す非凡な指針に、ヨエル書の意義があります。

1 そしてそのような後に次のことが起こった、わたしがわたしの霊をすべての肉の上に注ぐだろうということが。そしてあなたたちの息子たちとあなたたちの娘たちは預言した。あなたたちの長老たちが諸々の夢(を)夢見るだろう。あなたたちの選ばれた者たちが諸々の幻(を)見るだろう。 2 そしてその男奴隷たちの上にもその女奴隷たちの上にもそれらの日々に、わたしはわたしの霊を注ぐだろう。

 ヘブル語には現在・過去・未来という時制はありません。そして詩の一種である預言には、特に時制という考え方が弱くなります。俳句が無時間的であるのと似ています。私訳で「~した」とあえて過去のように訳しているものは「完了視座」という断言口調です。対比させるために「未完了視座」を「~するだろう」と弱い主張のように訳してみました。このことによって、ヨエルが強く言いたいことを先に語り、その後に弱めの主張を出していることが分かると思います。完了で言い切り、未完了で補足するという文体で、この箇所は貫かれています。

 ヘブライ語は一文の中の品詞の語順という点では欧米語に似ています。否定詞は文の冒頭に来るし、動詞も冒頭に来ます。先に結論は明らかです。さらにヨエルは、先に登場する動詞を完了視座にして、言いたいことを強調します。「起こった」(1・5節)という断言は、預言者の確信です。

 未来は「未だ来ていない」現実なので誰も確言できないはずです。預言者は根拠のない自信に満ちています。これは「狂信」なのでしょうか。いや、優れた内容を備えた「狂信」を、わたしたちは理想と呼びます。優れた内容とは、普遍的で誰にでも当てはまり、全ての人の幸せに役立つ内容ということです。

 それは、人間が平等であるということです。ある学者はヨエル書の著作年代をユダヤ教サドカイ派の支配が確立したころと推測します。イエスや、その弟子たちを苦しめた神殿貴族たちです。権威主義です。モーセの権威、モーセ五書の権威、神殿の権威、大祭司サドクの権威、ユダヤ人・健常者・成人男性・年長者・家長。これらによって人間を序列化する社会に対して、ヨエルは理想を語り抜きます。

 わたしがわたしの霊をすべての肉の上に注ぐだろうということが起こった(1節)。わたしはわたしの霊を注ぐだろう(2節)。人間の平等は、否定的にも言えます。全ての人は罪びとであるというように、または死んだら皆骨になるというようにも言えます。しかしここでヨエルは人間の平等を最大限肯定的に語っています。すべての人は神の霊を宿しているので平等です。すべての人は神の子です。神のように尊重されるべき存在です。すべての人は生きている間、さまざまな可能性を持つ肉体です。

 ヨエルは「あなたたちの息子たち/娘たち」「あなたたちの長老たち/選ばれた者たち」「その男奴隷たち/女奴隷たち」という三対の人々を例示しています。このうちで最も重要な一組は、冒頭の「息子たち/娘たち」です。完了視座の「預言した」が使われていることも根拠になります。男性家長以外は預言することができない権威主義・家制度が、平等思想によって強く批判されています。

 ヨエルが下敷きにしているのはモーセの故事です。民数記11章24-30節(新共同訳聖書232頁)を開いてみましょう。そこにはモーセがイスラエルの長老たちの中から72人を選び出し、神の霊の一部を授けたところモーセと同様に預言をすることができるようになったというのです。特にエルダドとメダドという長老は宿営の中でも預言し続けたので、モーセの従者ヨシュアは嫉妬します。羨ましかったのです。モーセの反論、「わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」(同29節)。

 ヨエルは長老たちや選ばれた者たちという役職男性たちよりも先に、息子たち・娘たちに言及します。未完了視座の夢・幻を見る行為は、完了視座の預言する行為よりも格下げされています。サドカイ派の権威主義や限られた人たちの支配が批判され、皮肉をもって家の中で貶められている娘たちが息子たちと等しくモーセの望み通り預言する日が来るというのです。さらに自営農民たちだけではなく、家の中の男女の奴隷たちも対等にヤハウェの霊が注がれる預言者になるのです。人間が平等だからです。

 ペトロがペンテコステの日に、この聖句を引用してキリスト教会は立ち上がりました(使徒言行録2章16-21節)。パウロはこの聖句を背景に「もはや奴隷もなく自由人もなく、男もなく女もなく」と手紙に記し、そのような教会形成を志しました(ガラテヤ4章28節)。教会は平等思想に根差した団体です。隠れたところで限られた人にのみ神の霊が配られ神の意思が示されるのではありません。教会に集まるとすべての人に神の霊は配られていたことを知ります。聖霊による平等の実現が救いです。わたしたちは教会の外にこの平等を宣べ伝えよう、預言しようと思います。それが伝道です。

3 そしてわたしはその天の中にしるしを与えた。そしてその地の中に血と火と煙の柱とを(与えた)。 4 その太陽は闇に変わるだろう。そして月は血に(変わるだろう)、偉大かつ恐るべきヤハウェの日が来る前に。 5 そして次のことが起こった、ヤハウェの名前で呼ぶ者が逃げるだろうということが。なぜならシオンの山において、またエルサレムにおいて生き残りとなるだろうから、ヤハウェが言ったとおりに。そしてヤハウェが呼び続けている残りの者たちの中で(生き残りとなるだろうから)。

 「偉大かつ恐るべきヤハウェの日」(4節)を、キリスト者はイエス・キリストの十字架の出来事であるととらえます。イエスが命を絶たれる直前に「太陽は闇に変わ」りました(4節。マルコ15章)。それは「血と火と煙の柱」で示唆されるシナイ山での契約(出19・24章)と響き合う新しい契約です。神が神の子を裁いたのです。ヤハウェ神が、「ヤハウェは救う(ヨシュア=イェシュア=イエス)」という名前を持つ我が子を棄てたのです。しかしその直後に、神はイエスを死者の中から起こしてよみがえらせ救い出しました。ヤハウェは、自分の名前を否定できません。「彼は生起させる」、これがヤハウェの意味です。義人を復活させ、出来事を起こし、生命を生じさせるという業を、ヤハウェはせずにおれない神です。

 平等という救いは静かな状態だけではありません。平等という救いは、十字架と復活に重ね合わせて考えるならば、激しい動きのある上下運動です。大きな転落から元の場所に戻ることです。深い傷が塞がり癒されることです。へこんでいるところが埋め戻されて再び平らになることです。キリストの復活というどん底からの回復は、苦しい状況に追いやられている人への慰めです。必ず元に戻るからです。

その一方でキリストの十字架という不条理な悲劇は、高ぶり傲慢になり人を見下している人への批判です。不当に自分を肥大化させ無数のキリストを踏みつけている人の「高き所」は削られ、上から下へと平らにされなくてはなりません。十字架はわたしたちを悔い改めへと励まします。

 等しく配られた聖霊は、わたしたちの低いところを高くし高いところを低くし平らに整えます。平等という救いは、わたしたちの内に働く聖霊によって形づくられるものです。

 十字架と復活を経てペンテコステの日にイエスの霊が配られました。ユダヤ教ナザレ派/キリスト教会の誕生です。それは「ヤハウェの名前で(/を)呼ぶ者が逃げる」ことであり、「ヤハウェが呼び続けている者」の一部が、「エルサレムにおいて」「生き残りとなる」出来事でした(5節)。わたしたちが教会でどのような救いを体験できるのかを、ここから学び取ることができます。教会はこの世界からの逃れ場です。キリストの名を呼び賛美するわたしたちは、その名前を否定する世界から逃れて集まり礼拝をします。キリストの名前で祈るわたしたちは、その名前によって迫害される世界から逃れて集まり礼拝をします。良い意味の逃避です。逃げることは救いです。日曜日にリフレッシュされるからです。

 その一方でわたしたちは自分の生きている生活の場から完全に逃れることはできません。誰もが自分自身の「エルサレム」に縛り付けられています。聖書は日常生活からの、悪い意味の逃避は勧めていません。むしろ、苦しい現実にあっても踏ん張って「生き残りとなる」ことを勧めています。ここには月曜日から土曜日までの救いが示されています。特段上等な人になる必要はありません。ただ生き残ることだけが求められています。もちろん、それだけでも大変なことです。生き残りのコツは、「ヤハウェが呼び続けている」ということ(5節)、主イエス・キリストがあなたの名前を愛情込めて呼び続け、教会へと召しているということに気づくことです。

 今日の小さな生き方の提案は、「人間の平等という救い」を教会で実現することです。その一丁目一番地は女性差別/男性優位の仕組みを改善することです。女性差別は多数者への差別という点でより悪質です。イエスの霊はこれを禁じています。どんな人も教会では高ぶりもせず卑下もせず、平らかな気持ちで日常のへこみを分かち合うことが大切です。素直に「生き残り」となった弱さの体験を語り合い祈り合う時に、教会はすべての人にとって安全平等な逃れの場となります。このような教会が、この世界でしぶとく生き残ることができます。このような教会が、一人ひとりの厳しい現実における生き残りを応援することができます。わたしたちの泉バプテスト教会が、平等という救いをこれからも創り出すことができるよう群れであり続けるようにと祈ります。