すべての人を一つに ヨハネによる福音書17章20-26節 2014年8月17日礼拝説教

ヨハネ福音書を読み進めながら今まで触れずに来ていたことを申し上げたいと思います。それは「天地創造の前からイエス・キリストは存在していた」という教理です(先在のキリスト論)。24節の「天地創造の前からわたしを愛して…」や、5節の「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」などの言葉がその教理に関わるものです。教理というものは具体的生き方と関わらなくてはただの能書きに過ぎません。そこで先週の話の続きである「三位一体の神を模範とする平和づくり」と、関係づけて先在のキリスト論について現代的に考えてみましょう。

1章を振り返ってみましょう(163頁)。ここには天地創造の昔に、「言(ギリシャ語ロゴス:男性名詞)」があったということや、このロゴスは神であり、ロゴスによって天地創造がなされたことが書かれています(1:1-3)。そしてロゴスは人となった神の子イエスであり、元々アッバである神のふところに居たとされます(1:14・18)。天地創造を神と共に行ったのだから、キリストは世界よりも先に居たと考えられています(Ⅰヨハ1:1-4、コロ1:15も参照)。

このロゴスという神の子が天地創造の前に居たという信仰は、意外なことですが旧約聖書にその根を持っています。ここでもヨハネ福音書は旧約聖書の中のあまり注目されない意外な傍流の思想を継承しています。箴言8章を開きましょう(旧約1000頁)。

箴言8:1には「知恵(ヘブライ語ホクマー:女性名詞)」という「人物」が登場します。そして8:4以下でこのホクマーが人々に話しかけます。8:12「わたしは知恵」と自己紹介している通りです。ホクマーは「主は、その道の初めにわたしを造られた」(8:22)、「わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」(8:24)と語ります(本日の招きの聖句)。天地創造の前にホクマーが居たという信仰が、先在のロゴス・キリスト論の原型です。ヨハネは「知恵」の言葉であるホクマーが箴言で人間のように登場していることを継承します(擬人化)。そのために知恵の「言葉」という意味合いでロゴスという訳語が選ばれたのでしょう。

さらに、8:30は、ホクマーが「神の愛する子」であることをも言い表しています。新共同訳が「巧みな者」と訳している単語は、母音記号の付け方によって「赤ん坊」「愛する子」「信頼すべき者」という意味となります(岩波訳・関根正雄訳参照)。ヘブライ語の母音記号は紀元後5-10世紀に付けられたものです。元来の本文には母音記号はありません。きわめて興味深いことに、ユダヤ教徒は伝統的に現在に至るまで「愛する子」「信頼すべき者」という翻訳を採っています(JPS)。ここはどちらにも読めるという姿勢を保つことに意味があります。つまり、「愛する子」と理解すれば、神の子イエス・キリストが天地創造の前から神のふところに居たことを裏付けするでしょうし、「巧みな者(建築家/芸術家)」と理解すれば、神はホクマー/ロゴスによって天地創造を成し遂げたということを裏付けするからです。

旧約聖書と新約聖書を貫く芯のようなものがあります。「わたしはある」という神の名もそうです(26節)。そして、天地創造の前から神は交わりにおいて一つの神である、三位一体の神としておられるという教理もそうです。では聖霊はどうなるのかという質問がありえます。創世記1:2の「神の霊」が創1:3以下の天地創造に先立っていることで、聖霊もまた先在していると言えます。そして聖霊も天地創造に積極的に関与しているのです。ちなみに「霊」という単語はヘブライ語・ギリシャ語共に女性名詞です。

今日の聖句21節において、イエスは神が自分の内におり、神もイエスを自分の内にもつと語ります。そんなことができるのは、イエスが「神の霊」を宿し(マコ1:10)、神が「イエスの霊」(使16:7)を宿すからです。三位一体の交わりとは、聖霊を介して、お互いを内に宿すという関係です。そして神は多様な性を持つ方として表されています。

多様性において一つとなっている神が、世界全体を創造されたということが実践的に重要です。世界は三位一体の神のようになることを望まれています。

先週は、教会や市民社会が三位一体の神のようになるべきであると申し上げました。6節「世から与えてくださった人々(弟子たち)」および、20節「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々」のために、イエスは祈っています。今教会に連なっている人と、イエスと信頼のネットワークを結ぶ可能性のある人すべてのために、聖霊が結び合わせる神と神の子の交わりが実現するようにと、願っています。それは創1:26-27に書かれている人間の創造とぴったりと重なり合う祈りです。「わたしたちにかたどり、わたしたたちに似せて、人を造ろう…。神は自身にかたどって人を創造し、神にかたどって創造し、雄・雌・彼らを創造した」(私訳)。神は「わたしたち」と自ら語る、元々複数の集合体です。そして自ら多様性において一致している神は、後天的な男らしさ女らしさによらず(ジェンダー)、生物学的男性・女性も、性的少数者らも含むような表現で群れとして/社会的存在として人間を創造されています。

歴史の始まる前から神は交わりの神でした。第三者を介して、相互に受け入れ合い、互いを内側に持つほどに親密な関係でした。お互いの胸に寄りかかりふところに入れ合いながら食卓を囲む間柄でした。そうでありながら、それぞれに「わたしはある」という神・神の子・神の霊でした。歴史が始まった時、この神の交わりは人間社会の模範でした。

イエス・キリストが歴史に登場した時、イエスの周りに集まった人々によって、かの模範が示されました。ユダヤ人もサマリア人もガリラヤ人もギリシア人も、男性も女性も、大人も子どもも、支配層の金持ちも貧しい者も、健常者もしょうがい者も、すべての人はイエスの食卓を囲んだからです。人の子イエスは、「人の子らを喜ぶ神の愛児」でした(箴8:31岩波訳「そして私の喜びは、人間たちであった」)。イエスは神がイエスに与えた栄光・尊重をすべての人にすでに与えたのでした(22節)。これが十字架の出来事であり、イエスの生涯の完成です。

教会はイエスの打ち立てた神の国を継承しました。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、『男と女』もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)。教会において、民族主義や支配・被支配の関係やジェンダーによる分断が否定されています。「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェ2:18)。教会において、三位一体の交わりが教会の模範であることが明らかになります。聖霊を介して、神と神の子のような交わりをわたしたちはできるようになります。それは、神と神の子の交わりの内に混ぜてもらうことでもあります(21節)。こうしてあらゆる人々が教会の交わりに入ることができます。

現在わたしたちの人間社会にはさまざまなかたちの痛ましい分断と差別があります。民族差別・性差別もその一つです。また同時に、ひどいかたちの統合支配や画一化があります。日本人らしくあれ・女らしくあれというのもその一つです。分断も画一化も対等の交わりを破壊しているから問題です。

十字架前夜イエスが祈ったあの時から今に至るまで、いまだ世はこの模範を信じないまま・知らないままにいます。世は信頼のネットワークを憎んですらいます(14節)。この模範を示すためにイエスが派遣された神の子だったということを、世は分かろうとしません(21・23・25節)。このような世にあって、世に抗して、わたしたちには多様性における一致を人間の社会において実現することが求められます。イエスが、すべての人を一つにすること(21節)・人々が完全に一つになること(23節)を祈り続けておられるからです。実に神が交わりの神であるのは、わたしたちが神のように愛し合い一つになるためなのです。そしてその有様を見て、世間は神が神の子を派遣したのはこのためだったと知り、「まことにあなたがたの間に愛の神が宿っている」と告白するようになるのです(26節)。だから伝道というものは、わたしたちが愛し合っているところを見せつけることです。

天地創造の前からある三位一体の神の交わりを理想とする教会形成は、結局、世の終わりを目指す共同体づくりです。イエスが「人々をわたしのいる所に、共におらせてください」と願っているからです。これは歴史の終わり、神の国の祝宴の場面です。その時、世界は「一つのものへと完成され/成し遂げられ」ます(23節、田川訳)。それは三位一体の神による救いという仕事が完全に成し遂げられる時です。世の終りにも三位一体の神の交わりが用意されていて、わたしたちはそこへと合流していくのです(イザ25:6-10)。その時、神からイエスへの尊重がすべての人の前にはっきりと示されます(23節)。またその時、イエスから人々への尊重がはっきりと示されます(箴言8:31)。多様性における一致へと世界は完成されるのです。

ここには教会が謙虚さと大らかさを保つ必要が述べられています。すなわち、わたしたちがどんなに互いに愛し合う交わりをつくろうとしても、不完全なものでしかないということです。イエスが世の終わりに到来して初めて完成されるのが神の国です。お互いが欠けだらけであることを大らかに認め合うことも必要です。大目に見る明るさが大切です。その寛容さも愛の一部だからです。しかも実は「欠け」ではなく「個性」という場合もあるわけです。「毒麦かと思ったら良い麦だった」ということもありえます。自分の判断にも欠けや間違えがありうるので、多様性を認め合う構えを持つ方が安全です。世の終わりに神が三位一体の交わりを完成してくれるのだから、わたしたちは開かれた精神でそれを待つだけで良いのです。

キリスト者が平和のことを語ると独特の悲壮感が漂うことがあり、わたしには馴染めないときがあります。「唯一の神に従う=殉教も辞さない」のような図式です。ここにも「日本型平和教育」に似た雰囲気を感じます。生真面目さが隣人への不寛容にならないようにと願います。信仰を「告白する」ということが、そもそもの語義として「一つの言葉を口にすること」なので、用い方によっては心を縛ろうとする支配の道具になりかねないのです。「教会のために理不尽な犠牲をも払うべきだ」という同調圧力にも、似たような画一化を感じることがあります。教会は内なる天皇制にも批判的であるべきです。

ピラミッド型組織から水平型の交わりへ、唯一神信仰から三一神信仰へ、狭く追い詰められた心から広く多様性に開かれた心へ、上からの命令への服従からお互いの信頼に基づく仕え合いへ、わたしたちは発想を転換する必要があります。それが今日の小さな生き方の提案です。だから、色々な人と食卓を囲む礼拝を世の終わりまで着実にするだけで十分です。互いに和気藹々と過ごすだけで十分です。三位一体の平和の神を信じ、多様性における一致を希求しながら共に歩き、細かいところは個々人にお任せ。ゆるい教会をつくりましょう。イエスがアッバの前で見せた穏やかな笑顔がわたしたちの目標です。