それでよい ルカによる福音書22章35-38節 2018年9月23日礼拝説教

本日の箇所も「解釈の十字架」と呼ばれる、理解困難な箇所の一つです。右の頬を打たれたら左の頬も差し出せと命じたイエスが、上着を売って剣を買えと命じているからです(36節)。武力によらない平和(絶対的平和主義)と真っ向から矛盾しています。いったいこのようなことがなぜ起こるのでしょうか。イエスの真意はどこにあるのでしょうか。

まず、イエスの発言を含むこの箇所がルカ教会の創作であることを指摘します。ルカ教会の主張の短所と長所について論じます。そして最後に、「剣(武装)」の問題にもう一度戻って考えてみます。それは「それでよい」(38節)という言葉を、今日どのように理解すべきかということの考察です。

新共同訳聖書の小見出しの下には、他の福音書の並行箇所が常に付されています。本日の箇所には並行箇所がありません。ルカ福音書は他の素材を用いずにこの部分を掲載しています。さらに、「財布」「袋」「履物」(35・36節)は、ルカ福音書・使徒言行録に頻出する好みの単語です。こういう事実からこの部分は、ルカ教会の創作記述である可能性が高いと推測されます。

内容もこの推測を補強しています。全体にこの後起こる事件を弁護しようとしています。事件とはイエス逮捕時の弟子による武力抵抗。つまり武装するローマ兵/ユダヤ官憲に対して、イエスの弟子のうちの一人が斬りかかって、相手の片耳を切り落としてしまったという事件です(50節)。教会にとって不都合な情報の記載ですから、これは間違いなく史実です。そして、細かい情報が好きなヨハネ福音書は、斬りかかった弟子がペトロであること、怪我をした兵士の名前がマルコスであることを報告しています(ヨハネ福音書18章10節)。

ヨハネ福音書は復活のイエスに最初に出会った人物をマグダラのマリアとしています。ペトロではありません。なるべくペトロよりもマリアを後押ししようとするのが、ヨハネ福音書の癖です。そして、ルカ福音書はそれとは逆です。先週申し上げたとおり、ペトロを支援しようとする傾向が全体にあります。ルカ教会も、ペトロがあの夜暴力をふるって傷害事件を引き起こしたことを知っています。知っているからこそ、ペトロが下手人であると書かず、イエスの言葉によって剣を持つことを肯定しています。これによりイエスは弟子たちが武装することを予め知っていることになります。「剣が二本あれば抵抗するのに十分だ」(38節)というヤクザの親分のような発言は、隣人愛を説くイエスのイメージをかなり傷つけています。

Aをかばおうとしたら、Bを貶める結果になるということは、わたしたちの日常でも起こることです。ペトロをかばうばかりに、イエスに過大な不利益が起こってしまっています。そこでルカ福音書だけが、被害者の治療をイエスが行ったという記述を残しています(51節)。イエスの応急処置によりバランスを取ろうとしているのです。しかし逆に矛盾が深まってしまいました。

おそらく史実は次のとおりです。イエスはペトロが剣を持っていることを知りません。ペトロも怒られると思ってイエスに内緒にしています。このような両者すれ違いのままに逮捕の場面に出くわします。武装したローマ兵・大祭司の手下を見て、そそっかしいペトロが激高してマルコスに殺意をもって斬りかかり、よけたマルコスの右耳が切り落とされます。その様子を見たイエスは「剣をさやに納めなさい」(ヨハネ福音書18章11節、マタイ福音書26章52節)とペトロを諭し、イエス自身は無抵抗のまま引き渡されます。

イエスが無抵抗のまま十字架で殺されていったことはルカ教会も信じている内容です。これこそイザヤ書53章の実現だからです。37節「その人は犯罪人の一人に数えられた」は、イザヤ書53章12節の引用です。ルカ教会は、剣による抵抗を認めている文脈(35-38節)に、まったく無関係な重要な聖句(無抵抗の処刑)を入れ込むことで、バランスを取ろうとしたのでしょう。しかしこれまたかえって矛盾を深めてしまいました。イエスの真意は、剣を打ち直して鋤とする非暴力にあります。この矛盾はルカ教会が作り出したものです。

ルカ教会の作文とすることは、大きな利点をも生み出します。「財布」「袋」「履物」という最低限度生活を支えるものを持って良いという教えは、生前のイエスの時代に対する教えではなく、ルカ教会の教会員に対する教えとなるからです。10章4節をご覧下さい。かつてイエスは七十二人(十二使徒を含む)を派遣する時に、「財布」「袋」「履物」を持って行くなと命じました。托鉢の放浪生活を、自分の弟子たちに義務付けたのです。それでも欠乏は無いということを、成人男性五千人の給食の奇跡は示しています。どんなに長い旅でも神が満たしてくれる。そのことをイエスは弟子たちに教えるために、一行は貧しい身なりで歩き回ります(35節)。

本日の箇所により、その義務付けが解かれます。十字架以前は放浪生活が勧められていました。しかしその義務はイエスの十字架刑死によって終わります。「わたしにかかわることは実現する」(37節)は、「私にかかわる事は終わる」とも訳せます(田川建三訳)。十字架は「目的の達成」でもあり、「終わり」でもあります。十字架で一つの大きな区切りがなされます。

復活・聖霊降臨後、つまり教会の時代には教会員には定住が勧められます。ルカ教会の現実です。どんなに長い旅もせいぜい数年です。しかし教会は何十年単位で続くものです。その際には、教会員の日常生活が重要になります。健康で文化的な最低限度の生活が保障されなくてはいけません。

「しかし今は、財布のある物は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい」(36節)という言葉を、イエスの口にのぼせることによって、ルカ教会は日常生活の大切さを教えています。ここで言う「今」は、毎週礼拝を繰り返すルカ教会の「今」です。「何もかも捨ててイエスに従う」という言葉は、大変美しく響きますが、危険な香りもします。そのように煽ることが教会の成長を促すのではありません。また牧師になりたいという人を増やすのでもありません。「財産を教会に供出せよ」と教会員(牧師含む)を脅し上げてはいけません。むしろ教会員一人一人の日常生活の苦しさに共感して配慮をし、「日常生活を大切にしなさい」と教会から送り出すことが、小さな群れを助け合う交わりに育てていくのです。財布も袋も持ったまま、烏やあざみを養い育ててくれる神を信じることが大切です。このような庶民の素朴な信仰生活は、決して「神と富とに兼ね仕える」という事態ではありません。

ルカ教会の訴えには、以上のように今を生きるわたしたちにとって有益な教えが含まれています。教会は、そこに連なる人々の欠乏を慰め励まし合う交わりでありたいものです。

最後に、残された難問に取り組みます。史実のイエスの言葉だけが重要なのではありません。聖書として残された言葉は、常に「神の言葉」として影響力を持っています。二振りの剣に対して「それでよい」と語ったイエスの言葉は史実ではなくても、今も聖書・正典・神の言葉なのです。だから、この言葉をどう読むかが、わたしたちの課題となります。「今」(36節)とは、ルカ教会の今というだけではなく、わたしたちの今でもあります。正典信仰とは、地域・時代を超えてあてはまる神の言葉への信頼だからです。

今という時代はどのようなものなのでしょうか。何が時の徴となるでしょうか。「力の支配」が鍵語です。軍事力による米国一極支配がPax Americana(アメリカの平和)を形作っています。その傘の下に入って、自衛隊によって米軍を補完しているわたしたち。では在日米軍を排除する、自国のみの武装ならば良いのか。どこまでの武装ならば戦力ではなく実力なのか。日本国憲法9条の意義が、平和の福音から問い直されています。「武力による威嚇又は武力の行使は…永久に放棄する」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」。

「それでよい」(38節)の直訳は、「それは十分である」です。「十分」(ギリシャ語ヒカノス)は、量的な意味でも質的な意味でも使える形容詞です。「二振り」という剣の数量が問題になっているので、剣の数について十分であると肯定していると採るのが自然です。田川建三訳は「それで十分だ」とします。新共同訳は、イエスが渋々認めているという含みを込めて、「それでよい」としていますが、基本的には同じ解釈の路線です。

それに対して岩波訳は、「〔それで〕十分なのか」と疑問文にします。岩波訳の根拠はギリシャ語写本の事情にあります。実は4世紀の大文字写本にはアクセント記号も疑問記号(英語の?)も書かれていません。極端なことを言えば、5W1H以外の文章はすべて肯定文にも訳せるし、疑問文にも訳すことができます。「?」はすべて後世の写本家たちの解釈による付加だからです。もちろんルカ教会は肯定文で考えていたでしょう。しかし、当初の著者・読者の意図を超えた作用が、後の時代に起こることもあります。疑問文に翻訳・解釈することが、今日的に意義深いならば、それを積極的に評価し採ればよいのです。

「それで十分なのか」。実際、剣は二振りで十分だったのでしょうか。二人の人が剣で武装できたとしても、ローマ兵や大祭司の手下が大勢剣や槍で武装をしている場合、イエスの逮捕を阻止できたのでしょうか。到底できなかったと思います。もしも相手に勝る武装をして、ゲツセマネの園で武力衝突が起こったとしたら、その場でイエスも暗闘の最中に惨殺されていたかもしれません。剣をとる者は剣によって滅びるものです。

仮に二振りの剣でローマ兵を撃退できた場合も、「それで十分なのか」との問いが残ります。次の機会には相手はより多くの武器を用意し、弟子たちもさらに武器を多く用意するでしょう。今度は二振り以上の剣にしたいし、槍も盾も欲しくなるものです。こうして「軍拡競争」は終わることなく続いていきます。イエスが引き渡されるまで続くはずです。

わたしたちの世界が今さらされている誘惑は、これに似ています。軍事力に対する、より大きな軍事力を持ちたいという誘惑です。核抑止力論もその亜流です。こうしてわたしたちは自分たちを全滅させるのに十分な武器を持ってしまいました。そのようなわたしたちの悲惨な今に対して、イエスは問いを発し続けています。「どんなに新しい武器を研究開発し、買い揃えても、それで十分なのか」。軍拡に十分ということはありえません。

根源的には戦争のためというよりは軍需産業の富のために武器は仕えていますから、これこそ富の奴隷となる生き方です。富をむさぼる国際軍需産業に対してもイエスは「それで十分満足に至るのか」と問うています。

今日の小さな生き方の提案は、「それでよいのか」「それで十分か」という問いに誠実に向き合うことです。開き直らない生き方です。「力の支配」を肯定する人は、しばしば開き直ります。ハラスメント加害者も、ポピュリストも乱暴な論理で開き直ります。ゴリ押しで無理を通すという誘惑に負けているからです。開き直らないことで、何かをもって誰かを威嚇する生き方から脱出することができます。武力による威嚇という罪から解放されましょう。