わたしたちの言葉 使徒言行録2章7-13節 2020年9月27日礼拝説教

7 そこで彼らは驚き続けまたいぶかり続けた。曰く「見よこれらの話している全ての者たちはガリラヤ人たちではないか。 8 それにもかかわらず、どのようにして私たちは私たち各人が自身の母語で聞いているのだろうか。私たちはそれ(母語)において生まれた。 

 「彼ら」(7節)は、宿屋の一室から百二十人の大声によってなる賛美や信仰告白を聞きつけて集まった「よく受け取る」諸外国人たちです。「驚き続けまたいぶかり続けた」は、未完了過去という時制で書かれた動詞です。未完了過去は過去から過去まで継続した動作を表します。ギリシャ語は多彩な時制を持っています。彼ら彼女たちは驚きいぶかり始めます。それは何度も反復するほどに強い疑いです。しかしそのいぶかりは最後まで続くのではありません。いつかの時点で彼ら彼女たちは、言葉の奇跡について納得をし、キリスト信仰を受け入れていきます。同じ賛美と信仰告白に連なっていきます(41-42節)。ルカは「よく受け取る」諸外国人たちがキリスト信徒となったと予告しています。

 人々は自分の母語を聞いて集まってきました。人間にとって母語がいかに重要・重大であるかを、この外国人たちは深い表現で言い表しています。すべて人間は「母語において生まれ」るのです(8節)。言語は文化の代表選手です。生まれた時から死ぬまですべて自分が関わる交わりに、言語は関わります。人間が情報伝達や表現を言語でなすからです。文法は文化を規定します。たとえば日本語を使う人は、上下関係を重視し自分の意見を言わない文化を作ります。敬語が発達しているので主語を省けますし、最後に動詞や否定詞・疑問詞(か?)が来ますので、相手の顔色を見てから結論を変えることができます。母語において生まれ、母語において日本文化を身に付けていくわけです。

 アラム語は動詞が文の最初にあります。否定詞・疑問詞はさらに前に置かれます。ギリシャ語は文のどこにあっても構いません。語順の違いは、さまざまな地域出身の人々が同時に同じ意味の文を自分の母語で聞いたということが、奇跡であることを示しています。合理的な説明は何もできないのです。

それと同時に人々は、百二十人の大多数がガリラヤ人であることを察知しています(7節)。それは百二十人がガリラヤ地方独特の癖でアラム語を話していたからでしょう。さまざまな地域出身の人々は、エルサレムに住んでいました。エルサレムに住んでいる人はガリラヤ地方の人が話すアラム語の癖を聞き分けることができます。外国から来ても数年住めば判別はできます。百二十人も自分の母語で話したのです。初代教会は当時のユダヤ教正統派から「ナザレ人たち(ナザレ派)」と呼ばれていました。十字架前夜ペトロが隠したかったガリラヤ地方の癖を、復活後教会は全面に出しました。「我ガリラヤを恥とせず」です。その母語が、聖霊によって集まる一人ひとりの母語に変換されたというわけです。聖霊の起こす奇跡、教会という愛の交わりの形成という奇跡は、どんな文化を持つ人とも一つになれるという奇跡です。そこではどのような文化も尊重されるからです。アイヌ/琉球/ろう/朝鮮半島の諸文化も。

9 パルティア人とメディア人とエラム人、またメソポタミアに住んでいる者たち、ユダヤにも、またカパドキア、ポントスとアジア、 10 フリギアもパンフィリアも、エジプトとクレネの側のリビア地方(に住んでいる者たち)、またローマ出身の滞在している者たちも、 11 ユダヤ人も改宗者も、クレタ人とアラビア人(の滞在している者たちも)、私たちは彼らが私たちの固有の言葉でもって神の大いなる事々を話しているのを聞いている」。 

 集まって来た人々の一覧はパレスチナ周辺がほぼ網羅されています。文法的には三種類の人々です。①「~人」と明快に紹介されている外国人(パルティア人・メディア人・エラム人)。②「~に住んでいる者たち」(メソポタミア・ユダヤ・カパドキア・ポントス・アジア・フリギア・パンフィリア・エジプト・リビア地方)。③「~出身の滞在している者たち」(ローマ・ユダヤ人・改宗者・クレタ人・アラビア人)。同じような意味で用いられていますが強弱はあります。①グループから③グループへ言い方が徐々に弱まっています。力点は冒頭のパルティア人にあります。なぜパルティアが重要なのでしょうか

 地域的なグループ分けもありえます。(ア)パルティアからメソポタミアはパレスチナよりも東側のローマ支配圏外です(西アジア地域)。(イ)カパドキアからパンフリアまではパレスチナよりも北西のローマの属州です(小アジア半島地域)。(ウ)エジプトとリビア地方はパレスチナよりも南西のローマの属州です(北アフリカ地域)。(エ)ローマ・ユダヤ人・改宗者・クレタ人・アラビア人はその他地域の点在です。この中で、ユダヤだけが重複している理由も考えなくてはいいけません(9・11節)。そして、ルカの出身地マケドニア州(フィリピもその中にある)やアカイア州(アテネ、コリント)、つまりギリシャ地方が入っていない理由も考える必要があります

 週報四面に記した通り、アルサケス朝パルティア王国は、ローマ帝国にとって真のライバルと言える強国でした。ローマの東方への領土侵略はパルティアによって止まったからです。前53年カルラエの戦いは、地中海を内海にしたローマ軍が、四分の一の兵力のパルティア軍に惨敗したという戦闘です。パルティアの支配権は、メディアもエラムもメソポタミアも含んでいました。9節の「ユダヤ」という単語には、「アルメニア」「シリア」「インド」などの異読があります。アルメニア地方はパルティア王国とローマ帝国が支配権を争っていた地(どちらの傀儡政権を樹立するか)、シリアはローマの属州の一つでパルティアと接して居る最前線、インドはパルティア王国の支配下の一部です。本来の本文は「ユダヤ」iudaiaではなく「インド」indiaだったと推測します。これらの異読は「ユダヤ」が文脈に適合していないことを示します。ユダヤの重複は、パルティア色を薄めようという意図の、後代の修正によるものです。

 そうなると冒頭の五つにローマ帝国の支配下にない地域・パルティア王国の支配下の地域が集中することになります。この情報は、ローマ帝国にとって不穏なものです。最初のキリスト教会の信徒たちの多くがパルティア人だったということは、「教会は反ローマ帝国の組織である」とローマ帝国が疑う要素となるからです。反乱の多い属州ユダヤ地域にローマ帝国は総督ピラトと軍隊を駐留させ統治に労力をかけていました。ユダヤ在住のパルティア人とユダヤ人武装勢力とパルティア軍の連携は、ローマ帝国にとって由々しき問題です。

学問的定説は、「著者ルカはローマ帝国からの弾圧を避けるために、教会の歴史から反ローマ帝国的要素をなるべく減らしている」です。定説も疑うべきです。ルカは教会誕生の物語においてあえて冒険をしています。ピラトからにらまれていた、エルサレムに住むパルティア人(反乱予備軍)が最初の教会に大勢加わっていたと書いているからです。これは発禁処分になったとしてもルカがどうしても伝えたかった重要情報です。特に10節にローマ出身が挙げられているので重要です。なんと敵国出身同士が最初の教会にいたというのです。ここに著者ルカの教会像が現れています。

 先程紀元前53年のカルラエの戦いを紹介しました。ルカの故郷フィリピの町は紀元前42年からローマの退役軍人が住む植民市になります。カルラエの戦いを経験した元兵士たちもフィリピに住んでいたことでしょう。ルカが暮らしていた紀元後30年頃は直接の戦闘行為は少なかったようですが、敵国である状態に変わりはありません。フィリピは反パルティアの雰囲気を持つ町です。ルカもパルティア人差別を持っていたことでしょう。自分の患者がパルティア軍によって負傷させられた人であったり、戦死させられた人の子孫であったらどうでしょうか。ルカ自身が、ローマ兵の血を引いていた可能性すらあります。

 ルカやリディアが創設したキリスト教会は、後にパウロ系の教会となります。ルカはパウロを呼び込みパウロの影響を受けます(16章)。ルカが気に入ったパウロの思想は、「教会ではギリシャ人もユダヤ人もない」です(ガラテヤ3章28節)。ルカは自らが持つパルティア人差別を悔い改めます。同じようにパルティア人もなくローマ人もない。だから、パルティアが先(9節)、ローマが後(10節)に記されているのでしょう。だからユダヤ人も諸民族の筆頭ではなく「多くの民の中の一つ」でしかありません(11節)。

 ギリシャ人ルカがあえてギリシャ地方を省いている理由は、自分の町フィリピで初めてパウロ系教会がギリシャに創設されたことを劇的にするための演出だと推測します。「最初の三千人にギリシャ人はいなかった」という主張は、フィリピ教会の価値を、ある種高める効果を持っています。ここにもフィリピ教会員であるルカの視点が強く盛り込まれています。言い換えれば、ルカは歴史を「一人称」で書いているのです。ここに大きな意義があります。彼はパウロの教理や、由緒正しいエルサレム教会の言い伝えを鵜呑みにしていません。自分のことに置き換えています。歴史を平板な時系列の記憶(受験勉強)にしません。著者および読者にとって意味のあるものに変換しています。「わたしはこう書くが、あなたならどう書く」と問うているのです。

12 さて全ての者たちは驚き続けまた戸惑い続けた。お互いに向かって曰く「これは何であることを意図しているのか」。 13 一方他の者たちはからかいながら以下のように言い続けた。「彼らは新酒によって満ちている者たちだ」。

 「これは何であることを意図しているのか」を読者よ悟れ。「わたしが描く教会史は偏っているよ」とルカは自分の意図を白状しています。「最初の教会はローマ帝国支配下にない東側の外国人が多かった。帝国内では小アジア半島出身者が多かった。アフリカ人も最初からいた。ユダヤ人も地域的にはガリラヤ地方出身ばかりで少数だった。ギリシャ地方については自分が参与しているので後でたっぷりとページを割く。今は書かない」。使徒言行録の意図です。

 わたしたちはルカの態度をからかうことができるでしょうか。酩酊状態の筆致だとか、偏り過ぎだとか、パウロを誤解しているとか(学者たちがよく言う)、地理をよく理解していないとか。こういった冷笑主義は歴史を作りません。むしろ、ルカのように自分の参与した歴史を自分の視点で堂々と掲げる、名も無き一人ひとりが歴史をつくっていくのです。使徒言行録は礼拝で用いられ続け、その後の教会の歴史をつくっていきました。ルカ以外の信徒は、内外の圧力(キリスト教正統派やローマ帝国)が怖くて書けなかったのかもしれません。

 今日の小さな生き方の提案は、一人称で語るということです。「わたしは」という主語を用いることです。わたしたちはしばしば「あの人が言っていることだから」とからかったり逆に鵜呑みにしたりします。発言者によって自動的に序列をつけているわけです。どちらも思考停止であり責任回避です。内容を吟味せずに自分ならどう考えるかを放棄しています。自分の頭で考え自分の母語で語り、「わたしはこう考える」と主張するべきです。それを互いに交わす。多様性・異見を大切にする文化の一歩は「わたしは」という主語です。まず教会の中に「朝鮮人も日本人もない」という対抗文化をつくりましょう。日本語を使う限りこの文化構築は困難です。しかし子どもたちのことを考えるならば、平和をつくるために早急にとりくまなくてはいけません。#KoreanLivesMatter