わたしの民・あなたたちの神 出エジプト記6章2-13節 2015年4月19日礼拝説教

今日の箇所からP集団の筆になります(祭司Priestに由来)。いわゆる「P版モーセの召命物語」です。JEDPという四つの集団がモーセ五書を編纂したという仮説の根拠ともなっている箇所なので、まずそれを説明いたします。3節の神の言葉が鍵となります。「わたしは、アブラハム・・・に・・・主(ヤハウェ)という名を知らせなかった」という部分です。創世記から読み進めている読者にとってこの言葉は奇妙です。なぜなら、アブラムが創世記12章8節というところで、「主(ヤハウェ)の名を呼んだ=礼拝した」とあるからです(創4:26も参照)。この矛盾から学者たちは「五書には複数の著者がいる」と推論しました。それがJEDPです。「資料仮説」とも言います。6章の召命記事が、3-5章のJE版召命記事・交渉・分断に重複していることも裏付けとなります。

仮説に基づいてP集団に仕分けされた部分の神の名は、原初史(創1-11章)の部分では「神(エロヒーム)」のみに限られ、族長時代(創12-50章)の部分では「全能の神(エル・シャダイ)」が加わります(創17:1など)。そして出エジプト記6章から「主(ヤハウェ)」をも用いるようになります。P部分だけを拾い読みするならば2節の神の発言は問題になりません。

ここで重要なことは、P集団が神の名の用い方によって時代区分をしているということです。初めにエロヒームが天地を創造した、次にエル・シャダイがアブラムをアブラハムと改名し契約を結んだ、その次にヤハウェがモーセを派遣して出エジプトを達成させたという時代区分です。4節「契約を立て」は、創世記17章2節「契約を立て」と対応したP好みの慣用句です。時代区分を意識して対応させていることが分かります。

時の徴を見分けなさいと今日の箇所は読者に訴えています。しかも、J(3:15-6:1の主著者)とP(6:2-7:7の主著者)が交互に織り交ざった現在の文脈では、先週までの葛藤を引き受けて時の徴を見分けることが求められています。人々の間で分断の現実があり、ファラオの分断策が勝利しているように見える現実の中で、神の時代区分が今ここで行われようとしているというように希望を持つべきだと、聖書は励ましています。わたしたちが最も苦しい時に・悪が勝利しているように思える時に、正にその時にこそ神の計画が進んでいます。これこそ十字架と復活を、一つの出来事として信じる信仰であり希望です。

この希望を、聖書を読む際の視点に据えて今日の箇所を読んでいきたいと思います。特にPに特徴的な言葉に注目していきます。物語のあらすじは重複しているので重視しません。むしろPの思想が旧約聖書の中でどのような位置にあるのか意識しながら特徴を掘り下げていきます。

第一に「わたしは主(ヤハウェ)」(2節・6節・7節)、第二に「わたしの民・あなたたちの神」(7節)、第三に「贖う」という言葉です(6節)。これらはPが好んで使う言葉・表現であり、相互に関連しています。そして紀元前6世紀の文書でしばしば用いられる「時代の言葉」でもあります。

日本語訳の「わたしは主である」を読むと違和感があります。なんと傲慢な神かとも思えます。己が絶対的主人であることを誇示しているように見えるからです。ここには翻訳の問題もあります。直訳は「わたしはヤハウェ」。ヘブライ語にBe動詞はありません。そして「主」は固有名詞ヤハウェです。この言い方は、署名捺印のようなものだと考えれば良いでしょう。自分自身の発言であることを自分自身で証明するような言い方です。イエスが「アーメン、わたしは言う」と発言するのと似ています。

「わたしはヤハウェ」が最も頻繁に登場するのはレビ記18-19章の法文です。たとえば有名な「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)の直後に「わたしはヤハウェ」が付されています。この法文が神ご自身の命令であることを強調しているのです。レビ記は丸ごとPの筆によります。

この「わたしはヤハウェ」という言い方の原型は、預言者エゼキエルの口癖にあります。「そのとき、お前たちはわたしがヤハウェであることを知るようになる」(エゼ6:7他)。今日の箇所の7節後半とよく似た表現であることが分かります。エゼキエルは、バビロン捕囚がヤハウェの起こした出来事だと言うために、「わたしはヤハウェ」という言葉を織り交ぜました。そこで捕囚下の指導者エゼキエルの影響下にあるPは、「わたしはヤハウェ」という部分を署名捺印として用いたのです。このことは捕囚民にとって希望となりました。

彼ら彼女らは「自分たちが誰であるのか」ということに悩みを持っていました。今までイスラエルは、ダビデ王朝・エルサレム神殿の祭儀・約束の土地などを特質と捉えていました。バビロン捕囚ですべて失いました。ユダヤ人と呼ばれる今、何がユダヤ人たらしめる特質なのでしょうか。神は答えます。あなたたちが何者であるかは関係ない。「わたしはヤハウェ」、これで十分。わたしだけが自分の名前に恥じないことをする、「彼は起こす」という名前に従って、捕囚・奴隷の民を救い出す出来事を起こす、これで十分。以上。署名捺印。この上から垂直に降りる言い方こそ、混沌の中に差し込む希望の光です。

7節前半の「わたしの民・あなたたちの神」という言い方に移ります。この部分の直訳は、「そしてわたしはあなたたちをわたしに属する民に取る。そしてわたしはあなたたちに属する神に成る」です。ここには相互に所属し合う対等の関係が言われています。神と神の民との深い親密な関係が言い表されており、正にイスラエルは神の子だということです。

この思想の根っこには預言者エレミヤおよびその影響を受けたエゼキエルがいます。エレミヤ書30章22節などに「そしてあなたたちはわたしに属する民に成る。そしてわたし自身はあなたたちに属する神に成る」とあります。この考えをエレミヤより若いエゼキエルは踏襲します。まったく同じ単語をエゼキエル書11章20節などで引用しているからです。エゼキエルの影響下にあるPは継承しながら若干の修正を加えています。レビ記26章12節は「そしてわたしはあなたたちに属する神に成る。そしてあなたたち自身はわたしに属する民になる」です。エレミヤと語順を変えて、神と民の相互行為が交換可能の関係であることを明らかにしています。(なおエレ24:7も参照。)

この信仰上の思想・神学が捕囚の民を再生させました。捕囚により見える希望は崩れ去りました。ダビデ王朝・エルサレム神殿・約束の土地はありません。しかし、霊である神が民の交わりの間におられます。二三人が集まって礼拝をするときに、神は民の只中を自由に歩き回り共に居られるのです。族長たちの旅に常に伴った神エル・シャダイが、まったく同じ仕方で捕囚民ユダヤ人の間におられます。その方は遡って考えれば、荒野を旅する解放奴隷イスラエル人の間におられた方なのです。これがユダヤ教徒の信仰です。またその方は、ガリラヤの民と共に旅をしたナザレのイエスと同じ方、地上を旅する教会と共に居られる聖霊の神と同じ方なのです。これがキリスト教徒の信仰です。

「わたしはヤハウェ」と上から垂直に語る方は、上から目線の神ではありません。「わたしはあなたたちの神、ヤハウェ」(7節後半。20:2も参照)、つまりインマヌエルの神です。奴隷のうめき声を聞き、共にうめく聖霊の神です(5節)。厳しい重労働をさせられている奴隷と共に同じ軛を担い、同じように腕を伸ばしてれんがをつくる神です。さらに、奴隷たちと共にエジプトから逃げ出し、約束の土地を目指して共に旅をする神です(4節・8節)。ヤハウェがイスラエルに属するし、イスラエルがヤハウェに属するからです。ここには水平の相互従属関係・相互浸透があります。

こうして自分は何者なのかという悩みが、先ほどとは別の仕方で解決されます。先ほどは問いそのものを止めるという解決でしたが、今回は問いがあるままに悩みが軽くなっていくという解決です。神がわたしたちの内におり、わたしたちが神の内にいる、その信仰が人生の重荷を軽くするのです。9節「意欲を失って」の直訳は、「霊が短くなることにより」です。ため息をつきすぎて息が切れている状況です。聖霊が伴うと、わたしたちの息や霊がつられて長くなるものです。その状態が永遠のいのちを生きるということです。

第三の鍵語「贖う(ガアル)」について説明をいたします(6節)。この動詞はバビロン捕囚後の文書にしかほとんど出てきません(ただしエレ31:11)。頻度の高い文書はレビ記・イザヤ書の40章以降・ルツ記・詩編などです。Pが重要な神学用語として広め、ついにはキリスト教教理の「贖罪という救い」に到達したのです。Dは、エジプトの奴隷イスラエルがヤハウェによって導き出されたことを強調しますが、そのことを「贖う」とは言いません。もっぱらPが奴隷解放=贖いと言います。新共同訳ではしばしば「買い戻す」と訳されています(レビ記25章・27章など)。

買い戻すという行為は、「現在他人所有のものであるけれども元々自己所有であったものを、改めて代価を支払って自己所有に戻すこと」です。また親戚は「贖う人(ゴエル)」と呼ばれ、奴隷の身になった親戚を買い戻す権利を持ちます。さらにその買い戻し権を拡張させて、50年に一度債務を帳消しにする制度が「ヨベルの年」というものです(レビ25:10)。

Pはレビ記を五書に組み込みながら、「バビロン捕囚からの帰還とは神の贖い・買い戻し・債務の帳消しである」と主張しました。それがイザヤ書後半に影響を与えたのです(イザ40:2、43:1他)。そして出メソポタミアは、出エジプトと同じだと主張しました。「導き出す」という表現だけでは足りない、ヤハウェという神はイスラエルの最も近い親戚として、奴隷となったイスラエルを贖い・買い戻し・自分のものとしたのだと主張したのです。

ここには再び垂直な言い方が登場します。相互従属・相互浸透ということをもう少し厳密に言わなくてはいけません。聖霊がうちに宿っているとしても、それはわたしたちが聖霊の神を所有しているのではなく、ただ神がわたしたちに「手付金」として唾を付けているに過ぎません(Ⅱコリ1:22)。最後の日に完全に贖うための保証です。つまりどちらが所有者であるかといえば、明確にわたしたちは神に所有されているということです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(イザ43:1)。

自分は何者であるのかという問いに対する答えは、「自分は神に買い戻された神に所有されているものである」というものです。旧約において代価は捕囚民の苦役・奴隷の重労働です。新約において代価は神ご自身です。ここには深化があります。イエス・キリストによって神は民の犠牲なしに民を贖い買い戻しご自分の所有とされました。この贖い主への信仰がわたしたちを救います。

今日の小さな生き方の提案は、巷で言うところの「自分探しの旅」なんぞというものを止めるということです。その問い立ては幸せに役立ちません。今ある自分の外に理想の自分は存在しないからです。自分が何者かということではなく、聖書の神がどのような方であるのかに目を向けるべきです。聖なるインサイダー取引によって、わたしたちの知らない間に贖いを完了させた神を仰ぐべきです。わたしたちの気づかない間に救いの手付金である聖霊を内に宿らせ、そのような形で所有し、そのような形で共に苦労を担い軽くしてくださっている神を知るべきです。神への探求こそ、わたしたちのなすべき生き方です。