アンティオキアの会堂で 使徒言行録13章13-22節 2022年1月30日礼拝説教

13 さてパフォスから出航して、パウロの周辺の人々はパンフィリアのペルゲへと来た。さてヨハネは彼らから離れて、彼はエルサレムへと戻った。

 キプロスでの宣教活動はある意味で順調でした。土地の人バルナバ主導だったことで人々の信頼もありました。またローマ帝国の代官セルギオ・パウロの好意があるので、ナザレ派であるという理由だけでは迫害されません。バルナバとパウロとヨハネ・マルコの三人には次の行動について選択肢がありました。一つはキプロスでじっくりと教会形成をすることです。首都パフォスか、それとも港町サラミスか、バルナバの生まれ育った町か。比較的地道な宣教方策です。もう一つは、小アジア半島に行くことです。そこにもユダヤ人たちは多く住んでいます。それはパウロにとって生まれ故郷の近くに戻ることになります。

 三人は小アジア半島へと向かう道を選びます。キプロスでの成功体験が前へと進ませる原動力となったのでしょう。パフォスから対岸のペルゲという町に船で向かいます。おそらく、その船の中で、パウロとマルコが対立します。人格者バルナバは間に入っていたと思います。対立の理由はおそらく福音理解の違いでしょう。両者が一致しているのは十字架が悲惨な虐殺であるということです(青野太潮)。パウロは十字架を教理的に理屈っぽく説明します。「復活」「贖罪」「救済」「聖霊」「神」などの教理との関連を手紙で解いています。マルコは十字架を物語ります。ガリラヤでの活動の結果エルサレムで殺された経緯を福音書で記します。パウロにとって福音は「復活のキリストが聖霊となってあなたに宿っているという知らせ」です。マルコにとって福音は「ナザレのイエスの生き様があなたに迫っているという知らせ」です。神の子キリストか、人の子イエスか。二人は決裂し、ペルゲの港に着いてからマルコはエルサレムに戻ります。

 マルコは国際派アンティオキア教会で多くを学びました。しかしアンティオキアではなく、母マリアのいるエルサレム教会に戻ります。マルコの志向が伺えます。彼はナザレのイエスが殺された場所に戻り、そこからガリラヤへと取材をし、イエスの生き様を書こうとします。逆説的ですが、パウロという対極にいる人物の存在がマルコの著作動機の一つです。

14 さて彼らはペルゲから通過して、ピシディア・アンティオキアへと接近した。そして安息の日に会堂の中へと来て、彼らは座った。 15 さて律法と預言者たちの朗読の後、会堂長たちは彼らに向かって(人を)送った。曰く、「男性たちよ、兄弟たちよ、もしあなたたちの中に何か呼びかけの言葉が民に向かってあるのならば、あなたたちは言え。」 16 さてパウロは立って、また手で合図して、彼は言った。「男性たちよ、イスラエル人たちよ、そして神を畏れている人々よ、あなたたちは聞け。

 アンティオキアという名前の町はいくつもあります。バルナバとパウロが出発した属州シリアの首都アンティオキアは時に「オロンテス(川沿い)のアンティオキア」と呼ばれます(1節)。それとは別のピシディア地方に隣接するアンティオキアのことを、ルカは「ピシディア・アンティオキア」と呼んでいます(14節)。属州としてのピシディア州は存在しないので、「フリュギア地方/ガラテヤ地方のアンティオキア」の方が正確な呼び名です。アンティオキアの町は、小アジア半島内陸部の高原(標高1100m)にある中規模の町です。軍事的・商業的な重要地点であり、ユダヤ人社会がそこにはありました。またローマ帝国はこの町に自治権を与えていました。名前の一致というよりは、そこにユダヤ人社会があるということや、帝国から干渉されにくい自治があるということの方が伝道対象地を選ぶ時の基準だったと推測します。

 キプロスと同じように二人は安息日のユダヤ人会堂に赴きます(5節)。共に礼拝を捧げ、その礼拝の中で旧約聖書を軸にイエス・キリストについて論じ合うためです。ユダヤ人街と、その中心にある会堂が、ユダヤ教ナザレ派の伝道の苗床です。では、会堂でなされる礼拝とはどのようなものだったのでしょうか。紀元前5世紀にエズラが打ち立てた正典宗教の礼拝様式は、五百年後にどのような発展を遂げているのでしょうか。

 まず集まる人々です。「イスラエル人(ユダヤ人)たち」と「神を畏れる人々」がそこにはいました(16節)。神を畏れる人々は、ユダヤ教に改宗していないけれどもユダヤ教やユダヤ人に好意を持っている非ユダヤ人のことを指します(10章2・35節)。いわゆる「求道者」です。ユダヤ教は、特にパレスチナ以外の土地にあっては「伝道的宗教」となっています。改宗者を獲得しユダヤ教徒(ユダヤ人)を増やす努力をしているのです。そこで礼拝は、神を畏れる人々(興味を持つ新来者から、定期的に通う求道者まで)を含んでいました。エルサレムで非ユダヤ人を排斥していったエズラ・ネヘミヤとは異なる視点です。

 次に指導者です。「会堂長たち」(15節)と複数の指導者が並び立っていたと書かれています。パレスチナ地域では会堂長は一人だったそうです(ルカ8章40節)。ギリシャ語圏の自治が許されている町アンティオキアでは、ギリシャ風民主政治が会堂の自治を支えていたのではないでしょうか。会堂の運営がギリシャ風でなければ人々に受けいれられません。複数の指導者が居て良いのです。そして、新来者を歓迎する雰囲気があったのです。この人々は合議をした後に、パウロに大事なその週の説教を委ねます(15節)。複数の説教があったのかもしれません。初代バプテスト教会のように。

 さらに使用聖書です。ギリシャ語圏において会堂によってはギリシャ語訳旧約聖書を用いていた可能性すらあります。ヘブライ語のみを正典とするという厳しい規制は紀元後70-90年に打ち建てられた方針だからです。後40年代半ば、まだユダヤ教はゆるやかな姿勢でした。ギリシャ語話者のみの会堂では現在のわたしたちのように翻訳聖書も礼拝に使用している可能性があります。ヘブライ語聖書を朗読していたとしても、少なくとも、会衆の理解のためにギリシャ語に「翻訳」interpretationする「説教/解釈」interpretationが必要です。エズラが読んだ正典を、翻訳者/説教者たちが同時にアラム語に翻訳していた伝統にも即しています(ネヘミヤ記8章)。

 「律法と預言者たち」(15節)は、当時正典と認められていた旧約聖書の部分です。創世記から申命記の五書が「律法(トーラー)」、ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記・三大預言書(イザヤ・エレミヤ・エゼキエル)・十二小預言書が「預言者たち」です。礼拝では、まず律法が朗読され、それに関連する預言者たちの一部が朗読されたのでしょう。この方式は、現在の安息日礼拝と同じです。少し図式化すると、①「聞け、イスラエルよ」(申命記6章4節他)の信仰告白、②十八祈祷文(詩編51編17他からなる祈り)、③正典朗読(律法と預言者たち)、④説教という四部構成の骨組みが会堂礼拝の順序と推測されています。ここに詩編を歌う会衆賛美も適宜加わったと思います。

 会堂長たちは、バルナバとパウロにギリシャ語での説教/翻訳/解釈を依頼しました。バルナバは名説教家です(11章23-24節)。おそらく人格者でありリーダーであるバルナバが、パウロに説教の奉仕を譲ったのでしょう。パウロの説教は家の教会においては退屈で長話かもしれませんが(20章9節)、初対面の会衆を前にした会堂では冴えます。旧約聖書を軸にして、論争的に語ることができるからです。パウロは非ユダヤ人の会衆を視野に入れながら、つまり「新しいイスラエル」の萌芽がすでに芽生えていることを確認しながら、「聞け、イスラエルよ」とイスラエルの歴史を振り返ります(16節)。

17 このイスラエルの民の神はわたしたちの「父たちを選んだ。そして彼はエジプトにおける寄留における民を高めた。そして高く上げた腕でもって彼はそこから彼らを導き出した。 18 そしておよそ四十年の期間、彼は荒野の中で彼らを養った。 19 そしてカナンにおける七つの民族を滅ぼして、彼は彼らの地を相続させた、 20 およそ四百五十年。そしてこれらの後、彼は預言者サムエルまで士師を与えた。 21 それから彼らは王を求めた。そして神は彼らのためにキシュの息子サウルを与えた、ベニヤミン部族からの男性、四十年。 22 そして彼を退けて、彼はダビデを彼らのために王へと立てた。そして彼は彼のために証言して言った。『わたしはエッサイの息子のダビデという男性を見出した、わたしの心の下にある(者)。その彼はわたしの全ての意思を行うだろう』。」

 パウロの説教のうち、旧約聖書の部分が本日の聖句です。出エジプトからダビデの選びまで、イスラエルの救済史の要約です。この説教の特徴は、ギリシャ語訳聖書の用語を使っていることです。パウロはギリシャ語訳旧約聖書を用いています。また要約の仕方も特徴的です。アブラハムやモーセ、エリヤ、エレミヤ等を省き、サムエル・サウル・ダビデの三人だけ名前を挙げて紹介しています。この三人はサムエル記の三大登場人物です。さらに、最大の特徴は、17節以降の主語はすべて「神」だということです。イスラエルの歴史は、神の民の歴史です。神がイスラエルを救う歴史(救済史)なのです。

なぜパウロはサムエル記を重んじたのでしょうか。最大の理由は、サムエル記に描かれる人物たちの必死さにあると思います。サムエルもサウルもダビデも、神に選ばれた人物ですが、それぞれに大きな欠点をもっていること報告されています。彼らは神の意思を完璧に行った人物ではありません(22節に反して)。にもかかわらず三人はそれぞれの仕方で時代の過渡期(部族制から王制へ)にあたって最善を尽くそうとした指導者でした。神は変動期に、不安定であっても必死に最善を尽くす奇才を、反抗する民の預言者・士師・王として召されます。そして結局ダビデという、先住民カナン人を始めとする非イスラエル人を大いに用いた妥協的指導者が、多民族国家イスラエルを治めるのです。

パウロはピシディア・アンティオキアに住む礼拝共同体の歴史と、サムエル記を重ねています。神殿はなく、会堂礼拝一本に移行しています。ユダヤ人のみではなく非ユダヤ人も会衆にいます。ヘブライ語だけではなくギリシャ語も併用しています。代々の会堂長たちは時代に適応した礼拝を常に模索し最善を尽くそうとしていたことでしょう。その信頼に値する誠実さが評価されるべきなのです。その態度のゆえに、ナザレ派にも説教機会が与えられたからです。パウロという気の短くけんか腰の、必死かつ不安定な人物にも活躍の場が与えられることこそ、教会で起こる恵みです。

今日の小さな生き方の提案は、神が導く歴史を信じるということです。もしあの場でマルコとパウロが対立しなければ福音書という文学は存在しないかもしれません。もしバルナバがパウロに説教機会を譲らなければパウロの手紙は存在しないかもしれません。もし離散ユダヤ人が時代に適合する礼拝を模索していなければナザレ派は急速に増えなかったかもしれません。わたしたちが「不安定」と呼ぶ状態こそ、神がわたしたちを導くのにふさわしい状態です。形なくむなしい混沌状況の只中にこそ、光が差し込むからです。欠けの多いわたしたちに求められているのは光を見出す必死な態度です。それが信実です。