イエスの処刑 使徒言行録13章23-29節 2022年2月6日礼拝説教

23 神はこの男性の種から約束によってイスラエルのために救い主イエスをもたらした。 

 パウロの会堂での説教の続きです。先週まではイスラエルの歴史を神が導いた歴史(主語はすべて「神」)としてパウロは紹介しました。23節は「この男性」という言い方でダビデを紹介していることからも先週までの旧約聖書の物語の締めくくりです(主語が「神」)。それと同時に「救い主イエス」を紹介していることから、キリスト信仰の中心を導入もしています。橋渡しの箇所です。まず主語の問題を切り口にして全体を見渡しましょう。

23節を例外として24-29節までは主語が神ではありません。バプテスマの「ヨハネ」(24・25節)もしくは「エルサレムの中に住んでいる者たちと彼らの支配者たち」(27節)、つまり人間です。説教者パウロが意識してこの部分の主語を転換させていることに気づかなくてはいけません。人間はイエスを救い主と告白することもできれば(ヨハネ)、人間はイエスを殺すこともできる(エルサレム住民、支配者層)のです。人間は謙虚に「自分はただの人間に過ぎない」と告白することもできれば(ヨハネ)、人間は人に許されていない行為、すなわち人を殺すことすらできます(エルサレム住民、支配者層)。人間は隣人に「神に立ち帰れ」と呼びかけることもできれば(ヨハネ)、人間は自分が神の権威をかぶって神の子を殺すこともできます(エルサレム住民、支配者層)。

イエスの十字架をめぐって、人間とは何か、人間らしい生き方とは何かが鋭く問われています。

24 彼の来る面前にヨハネが全イスラエルのために立ち帰りのバプテスマを宣教して、 25 さてヨハネが走りを満たし続けた時に、彼は言い続けた。「あなたたちはわたしを誰であるべきと思っているのか。わたしではない。むしろ見よ、彼はわたしの後に来ている。わたしは足の草履を解く価値が全くない。」

 バプテスマのヨハネはここでイエスを救い主キリストと告白できる人の模範例として挙げられています。ルカ福音書は「イエスがヨハネからバプテスマを受けていない」と主張する唯一の福音書です(ルカ3章20節と21節参照)。著者ルカは明確に、ヨハネをイエスよりも一段下に評価しています。格下のヨハネが格上のイエスにバプテスマを施すことはできないという判断が福音書の記述から伺われます。またルカだけはヨハネがイエスの親戚だったとします。しかしわずか半年しか年長ではないとも言います(ルカ1章)。イエスとヨハネに競合関係はないということと、両者には上下関係のみがあるということを、ルカは伝えます。つまりキリスト信徒になりうる人は、イエスと自分が近いと感じている人で、しかも、イエスを師と仰ぐ人なのです。

 福音書のイエスの言動を読み、「凄い人だ」と感動し近しさを感じる人。そして「この人には敵わない」と脱帽する人。キリスト信徒は、言わばイエスのファンです。ファンとアイドル(崇拝の対象)の関係に似た要素が無い信徒はいないと思います。信仰とは単純なものです。

 それを前提にして、「わたしではない」(ウーク・エイミ・エゴー)という謙虚さが与えられます(25節)。この表現は、「わたしはある」(エゴー・エイミ)の裏返しです(出エジプト記3章14節、ヨハネ福音書8章58節ほか)。「わたしはある」は神の名前であり、イエスの別名です。だから「わたしではない」には、「『わたしはある』ではない」という強引な翻訳も可能です。救い主イエスのように神と人を愛することは到底なりえない、謙虚なあり方が信徒の生き方の模範です。実は自らを小さいと認めることの方が、「あなたはこうあるべき」のような周囲からの同調圧力に勝つ力となります。わたしの後ろに来る方こそが、わたしのあるべき姿を定めてくれる救い主であると、わたしたちは信じているからです。

 ヨハネは「先駆者」、文字通りイエスの先を走っている人です。「走りを満たし続けた」(25節)という珍しい表現は示唆に富みます。「走り」は人生のことを指します。「満たし続けた」の時制は未完了過去、過去の一定時期に継続していた行為を表す表現です。「言い続けた」も同じです。こう考えると、ヨハネの晩年だけが問題にはなっていません。ヨハネは人生すべてにわたって、言い続けたのでしょう。「彼はわたしの後ろに来ている(現在形)。この方がわたしの救い主である」。

26 男性たちよ、兄弟たちよ、アブラハムの種族の息子たちよ、そしてあなたたちの中で神を畏れている人々よ、わたしたちのためにこの救いの理が送られた。 

 「あなたたちの中で神を畏れている人々よ」という表現はいささか奇妙です(26節)。神を畏れている人々が非ユダヤ人であるからです。この人々は「アブラハムの種族の息子たち」ではないので、形容矛盾が起こっています。この会堂に集うユダヤ人男性は、パウロに挑戦されたと思ったことでしょう。彼らは今まで神を畏れている人々を、ユダヤ人と同等には扱っていなかったからです。自分たちの中に非ユダヤ人がいるという認識はなく、自分たちの外側に非ユダヤ人がいると思っていたのです。それで良いのかとパウロは挑戦しています。もはやギリシャ人もユダヤ人もないのではないか。その一方、この会堂に集う非ユダヤ人たちはパウロの呼びかけに慰めを得ます。自分たちは神の民の一員なのだと定義されたからです。そしてパウロはまとめます。

 「この会堂の客人であるナザレ派の自分たちも、離散ユダヤ人たちも、熱心に集う非ユダヤ人たちも含めて、わたしたちのために、この救いの理(ロゴス)イエスが送られた」。この言い方は、「今日ダビデの町にあなたたちのために救い主が生まれた」という福音と呼応しています。

27 というのもエルサレムの中に住んでいる者たちと彼らの支配者たちはこの男性を認めず、全ての安息日で朗読され続けている預言者たちの声を、判断しつつ彼らは満たしたのだから。 28 そして死の理由を見出さず、彼らはピラトに彼を取り上げるようにと願った(のだから)。 29 さて彼について書かれた事々を全て彼らは完成した時に、(彼らは)木から下ろして、彼らは墓の中へと置いた。

27節冒頭の「というのも」とあるので、「救いの理」イエスが非ユダヤ人にも送られた理由が27・28節に記されていると理解できます。つまり、エルサレムに住む人々や、ユダヤ自治政府のサドカイ派の神殿貴族やファリサイ派の律法学者・議員たちが、ローマの代官ピラトを用いてイエスを処刑したことが、送られた理由です。ローマ帝国とユダヤ自治政府とガリラヤの領主が人の子イエスを処刑するからこそ、神の子イエスは来たのです。その結果、非ユダヤ人へも救いの翼が広がるという効果が生じました。

27節の文は曖昧です。「支配者たちは・・・預言者たちの声を・・・満たした」が文の骨格です。「預言者たちの声」は、旧約聖書のいくつかの「メシア預言」のことでしょう。その中心はイザヤ書53章です(8章32-33節)。ナザレ派は、ここにナザレのイエスの処刑を読み込みます。メシアが権力者に虐殺されるというイザヤの預言は、ナザレのイエスにおいて満たされたのです。

問題は、「判断しつつ」という現在分詞が浮いていることです。動詞「クリノー」は「裁く」「判断する」どちらにも翻訳できます。「①裁きながら/②判断しながら」ととるか、「③裁いたので/④判断したので」ととるか四通りありえます。「裁く」の場合は「イエスを裁く」と理解する他ないでしょう。「判断する」の場合は「預言を判断する」と理解することが自然です。現在分詞の目的語が無いことが曖昧さの原因です。

ここでは、「判断しながら」をとります。同じ旧約聖書を読みながら判断において、正統とナザレ派が異なっているとパウロは言いたいと思います。最終的なピラトによる裁判と死刑判決のことは、冤罪であることを含めて28節で言われています。そこで27節はサドカイ派とファリサイ派の聖書の読み方を批判しているととります。「イエスについてイザヤ書53章をあてはめない」と正統は判断しています。この預言を無視する態度が皮肉なことに、イエスを処刑させ預言を実現させてしまったとパウロは批判します。彼ら自身が預言書に書かれた事々を完成させたのだ、と(29節)。

なお、パウロはエルサレム自治政府の権力者を批判していますが、この説教の場所がピシディア・アンティオキアの会堂であって、エルサレム神殿の境内ではないことも重要です。この批判について離散ユダヤ人たちは、エルサレムのユダヤ人ほど感情的にならないはずです。また、ローマの代官ピラトを名指しで批判しても、ピシディア・アンティオキアに自治権が保障されているのである程度安全です。つまりここでパウロは、エルサレム教会のペトロたちよりも自由にイエスの処刑を説教することができたのです。

この説教でパウロは十字架という言葉を避け、代わりに「木」を用いています(29節)。彼は十字架を「木」とも呼びます(ガラテヤ3章13節)。トーラーの中の一節がイエスの十字架に当てはまると考えているからです。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21章22-23節)。現在安息日の会堂で申命記21章10節-25章19節が読まれる時には、イザヤ書54章1-10節も必ず読まれます。イザヤ書53章「苦難の僕」の直後の箇所です。この伝統が紀元後1世紀の離散ユダヤ人会堂において確立していたかは不明ですが、その可能性はあります。「注意深く聖書を朗読するならば一年に一度は少なくとも、申命記21章とイザヤ書53章の関連を連想すべきではないのか」とパウロは言っています。もしかすると、バルナバとパウロが訪れたその週の聖句が、申命記21章10節-25章19節だったかもしれません。

ともかくイエスの処刑を何だと意味付けするのかが、ナザレ派にとって死活問題です。パウロはここで「木」が救うとか、十字架の身代わりが罪を贖うなどとは言いません。この説教の中心は次に続く復活にあります。復活によって事態は逆転し、罪の赦しが与えられ、信じる者が義とされるのです(38-39節)。差し当たって本日までは、義人イエスの不条理な虐殺までを確認いたします。それはわたしたち信徒が抱える構造的な不条理の苦悩を示します。神が目の前にいて導いているのか信仰の薄いわたしたちに実感はありません。神なき世界に放り出されているわたしたち。十字架の救い主は、どん底のわたしたちを背後からがっちりと抱きかかえるキリストです。わたしたちの苦しみを後ろから負って連帯する方を信じることは、わたしたちの人生の荷を軽くします。

今日の小さな生き方の提案は、イエスを知ることです。救い主イエスとして、認めることです。聖書が示す十字架の救いには二重の道があります。読者はよく判断すべきです。個人の罪を悔い改め謙虚になっていくという救いもあり、同時に社会構造の悪・不正義から解放するという救いもあります。イエスの十字架は二重の道を達成する神の力です。この福音(救いの理)を信じ、イエス・キリストとの人格的交わりに入りましょう。