イエスの復活 コリントの信徒への手紙一 15章3-10節 2023年4月9日(復活祭)礼拝説教

3 というのも最初に私も受け取ったことを私はあなたたちに伝えたからだ。すなわちキリストが諸書物に従って私たちの諸々の罪のために死んだこと、 4 また彼が葬られたこと、また諸書物に従って三日目に彼がよみがえらされていること、 5 またケファに彼が見られたこと、それから十二人(に見られたこと)。 6 その後彼は五百人以上の兄弟に同時に見られた。そしてその者たちの中の大部分は今に至るまで留まっている一方で何人かは眠りについたのだが。 7 その後彼はヤコブに見られた。それから全ての使徒たちに(見られた)。 

 十字架で殺されたナザレのイエスが、三日目に神によってよみがえらされたというキリスト(救い主)であるという信仰が、キリスト教の中心です。このことをケリュグマ(「宣教の内容」の意)とも呼びます。本日の箇所は最古の、そして簡潔なケリュグマです。パウロという人がエフェソという町に滞在してイエス・キリストを宣教している時に、海の向こう側のコリントの町の教会に宛てた手紙の一部です。十字架と復活、そして教会の誕生から20年が過ぎています。6節によれば、復活のイエスを見た目撃者のうちすでに何人かは死んでいようです。20年というのはそのような長さです。直接の証言者が減っていく中、生前のイエスを知らないギリシャ語圏の人々がどのような宣教の内容を共有し、そして相互に確認していたのかが本日の箇所を通して伺い知れます。パウロは遠く離れていても同じ信仰内容を確認したくて手紙をしたためています。この聖句はイエスをキリストと信じるためのきっかけを三つの例で示しています。

 信仰のきっかけとなる一つ目の例は、「諸書物に従って」(3・4節)ということです。「諸書物」とは、旧約聖書の複数の箇所という意味です。初代キリスト者たちは、イザヤ書53章4・5・6・8・10・12節をイエスの十字架(3節)の預言であると理解しました。また、ホセア書6章2節とヨナ書2章1節をイエスの復活(4節)の預言であると理解しました。聖書を読むことが、イエスをキリストと信じるきっかけです。

 キリスト信仰を初めて与えられた紀元後30年の人々には旧約聖書しかありません。その旧約聖書の中に、自分たちが経験したイエス・キリストによる救いが予告されているか、類似の出来事が記載されているか、最初のクリスチャンたちは血眼で探しました。そして、実際に見つけたのです。謎の死を遂げた預言者イザヤの姿は十字架で殺されたイエスにそっくりです。またホセアが三日目によみがえらさえる神の救いを予告しています。そして三日三晩死ぬ思いを経験した預言者ヨナは復活のイエスに似ています。

 昔も今も、イエスをキリストと信じるきっかけは聖書なのだと思います。現在は新約聖書も旧約聖書の後ろにくっついていますから、初代教会の人々よりも楽な作業です。福音書を読めばイエスの言動を知ることができます。そして弟子たちの姿を見れば、どのようにして彼ら彼女たちがイエスをキリストと信じたのかが分かります。その登場人物たちに自分自身の人生を重ね合わせれば、イエスをキリストと信じることの幸いを追体験できます。聖書を読み、自分に似ている人物を探すことをお勧めいたします。

 イエスをキリストと信じるきっかけの第二の例は、復活のイエスを見ることです。復活のイエスは多くの人の前に現れました。多くの翻訳で「現れる」と訳される言葉の直訳は受身形の「見られる」です。神が現れる際に、ヘブライ語でもギリシャ語でも「誰それに見られる」と表現されます。キリストは見られる、つまり弟子たちが復活のキリストを見たのです。直訳は、わたしたちに積極的な行動を促しています。イエスの方からわたしたちに現れるまで待たなくてはいけないということではなく、わたしたちの方から復活のイエスを見ることができるということだからです。

 なぜなら「彼がよみがえらされている」(4節)からです。この動詞の時制は現在完了形です。現在完了は、過去の動作の効果が現在も続いていることを表現しています。そして英語よりもギリシャ語の方が継続の意味合いが強いと言われます。そこで私訳はあえて現在時制のようにいたしました。つまり紀元後30年にイエスをよみがえらせたという動作の効果は、パウロの手紙の現在にまで、さらにはわたしたちの生きている現在にまで続いています。イエスは今もよみがえらされたままなのです。主は今生きておられます。それだから、わたしたちは今も復活のイエスを見ようと思えば見ることができます。

 先ほどは聖書の登場人物に自分自身を重ね合わせることが信仰を得るきっかけとなると申し上げました。二つ目の例は、イエスに似た人物を自分の知っている人に重ね合わせることです。そしてその人の中に復活のイエスを見出そうとするとき、わたしたちに復活のイエスは見られるのです。

 福音書に記されているイエスはどのような方だったでしょうか。イエスは弱い人・小さい人の隣人になる人でした。触ると汚れるとされた人に触り、飢えている人にパンを配り、病気の人を癒し、どんな人とも食卓を囲み、どんな人の客にも友にもなれる人でした。イエスは言論の人でした。さまざまな譬え話をもって神がどのような方であるかを教え、法律上不利な立場に置かれている人を弁護し法解釈を変えました。イエスは明るい人でした。善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせる神さまを底抜けに明るく楽観的に信じ抜いていました。神は空の鳥のように、また野の花のように、わたしたち人間を養う方です。無邪気な子どもたちこそ、人間たちの中でもっとも空の鳥・野の花に近い存在です。神の国はそのような底抜けに明るい者たちのものです。

 わたしたちの身の回りにも、一部重なる人がいると思います。キリスト者であるかないかは関係なく、「優しい」「切れ味がある」「明るい」「寛容」「子ども好き」「公平」などなどの特長を持つ人はいるはずです。その人々の中に、復活のイエスを見ることは、わたしたちがイエスをキリストと信じるきっかけとなりえます。

8 さて全ての最後に、死産児のような私にも彼は見られた。 9 というのも私、私などは使徒と呼ばれることが相応しくない、使徒たちの中の最小のものであるからだ。なぜなら私は神の教会を迫害したからだ。 10 さて神の恵みでもって、私は私であるという者である。そして私の中への彼の恵みは無駄にならなかった。むしろ、彼らの全てよりもずっと私は勤勉だった。さて私がではなくむしろ私と共にある神の恵みが(勤勉だった)。

 「死産児」(8節)としました。「早産児」としても古代人パウロの言い方の差別性は薄まりません。むしろ「死ぬべき者が生かされている恵み」という趣旨に捉え直します。パウロという人には、「罪人にして義人」という極端表現もあります。「死者にして生者」という心境なのでしょう。

 イエスをキリストと信じるきっかけの第三の例は、「神の恵み」(10節、3回)に気づくことです。言い換えると、自分の人生を振り返り、もしかすると自分の人生の節目に神が関与し参与し良い方向に導いてくれたのではないかと思うことです。

 3節「最初に」と8節「最後に」の対比からも分かるように、8節以降は言い伝えられ固定化された宣教内容ではありません。パウロ個人の人生に対する振り返りです。聖書の中に書かれているイエスを知り自分自身に似ている人物を探すこと。そして今も隣人の中に働いている復活のイエス(の一部分)を見ること。これらに並んで、あるいはそれと同時に、わたしたちは自分の人生に関わる神を、後を振り返ってパウロのように尋ね求めたいと思います。

 右翼青年だったパウロは教会を迫害していました(9節)。ユダヤ教正統の一員、律法学者ガマリエルの弟子・秘書として、ナザレ派(キリスト教)の信徒たちを日曜日の夕方でしょうか礼拝中家から引きずり出し、拷問し、死に至らしめていました(使徒言行録8章3節)。パウロという人は暴力的な権威主義者であり、実際に力を濫用し他人に危害を加える人物だったのです。その暴力的なパウロに神が関与し生き方の方向転換をさせます。白昼夢の中、イエスがパウロに語りかけ、「暴力を止めよ。復活の神がその中に住むキリスト者を殺すな」と語りかけたのです(使徒9章)。

 「神の恵み」と呼ばれる神の関与は、さまざまなキリスト者を通してパウロの人生を導きます。アナニヤは迫害者パウロを受け容れバプテスマを施してダマスコ教会員とします。さらに使徒バルナバは親切にもパウロをエルサレム教会の指導者・使徒たち(「十二人」「ケファ」「ヤコブ」)に紹介します。その後パウロは一旦教会を離れ故郷キリキアに暮らしますが、そこにバルナバが彼を訪ねアンティオキア教会の指導者に引き上げます(使徒11章)。そしてバルナバはパウロの長所を引き出し、ギリシャ語圏の諸都市にアンティオキア教会系列の教会を増やす仕事を与えます(使徒13章以下)。

 アナニヤとダマスコ教会、バルナバとエルサレム教会・アンティオキア教会、これらの出会いがパウロの人生を変えました。小アジア半島からバルカン半島、ペロポネソス半島の大都市にある諸教会と交わりを持つ人物にパウロはなりました。これらの諸教会の人々(リディア、ルカ、テモテ、プリスキラ、アキラ等)もパウロを大いに用いて彼の人生を変えました。彼は自分の人生を振り返ります。「彼ら(他の使徒たち)の全てよりもずっと私は勤勉だった」けれども「わたしがではなくむしろ・・・神の恵みが勤勉だった」と言います。人生に対する神の関与という「神の恵みでもって、私は私であるという者である」とパウロは半生を総括しています。彼は力みを棄てました。

 救いは「わたし自身になる」ということです。「わたしはある」という境地を与えられることです。穏やかで堂々とした人となる、あのイエスが自分の中によみがえらされて生きるということです。自分の人生を振り返り、自力ではなく引き上げられ・引き出され・引き立てられ、紆余曲折の上で自分自身が確立したことを思い出す時に、わたしたちは神の恵みに気づきます。その時わたしたちは「キリスト教って良いな」「すでに救われていたのかも」「イエスをキリストと信じようか」「教会に加わりたい」と思い始めるのです。

 今日の小さな生き方の提案は、聖書を読むことです。その中の登場人物と身の回りの人々とを照らし合わせることです。聖書に登場するどのような人物と自分は似ているでしょうか。身の回りに居るどのような人々とナザレのイエスは似ているでしょうか。古代の書物である聖書を身近なものにしていきましょう。その時復活のイエスがわたしたちの傍らに立ち現れます。

それと同時に自分の人生を振り返り、節目・画期を点検することです。そこに神の恵みがあるはずです。酸っぱいレモンが美味しいレモネードになった経験、方向転換の経験、どん底から脱出した経験。自力だけではなく、神の恵みの方が勤勉だったと気付く時、わたしたちは復活の主と共に歩いています。その時自分本来の輝きが与えられます。それが復活の主を信じる信仰です。