イサクへの祝福 創世記26章1-6節 2019年2月10日礼拝説教

 イサクはアブラハム・サラ・ハガルの物語において脇役でした(1225章)。少年時代の彼は殺されかけるほど儚い存在ですし(22章)、自らの結婚においても何ら主導権を握っていません(24章)。40歳であったにもかかわらず。そして、ヤコブ・エサウの物語においても脇役です(25章以下)。息子のヤコブに騙されるという極めて不本意な役回りをイサクは演じます。

 そのような脇役であるイサクが、この26章においてのみ主人公です。イサクという人がどのような族長であるのかを知るためには、26章を読まないといけません。ただし全体の傾向があるので、アブラハムとヤコブという二人の主人公との関係のもとでイサクについては常に考える必要があります。

このような意味で本日の箇所も、過去になされた神とアブラハムのやりとりを思い出さなくてはいけません。繰り返しや、約束の実現がここに認められるからです。それは「祝福」というものがどういうものであるかを考えることにもなります。聖書が語る祝福は何か。そのことを教会がどのような形で実現できるのか。あるいは逆に聖書が語る祝福が、現代社会でそのまま適用できるのか。ここも批判的に問い直す必要もあります。模範となる内容は何か、そして反面教師である内容は何か。この両面を考えていきたいと思います。

アブラハムという人は、合計3回神から祝福を受けています。1217節が最初であり、二回目は1517節、三回目は1718節です。大まかに言えば、神の祝福の内容は、①子孫が増えることと、パレスチナ地域の土地が与えられることです。この二つの内容は、アブラハム・サラ夫妻にとっては信じにくいものでした。なぜなら17章の時点で夫妻に子どもがいなかったからですし、一家は半定住・半遊牧の生活をしており土地を所有していなかったからです。しかし神はそのような絶望状況にある人に、希望として祝福を約束なさいました。祝福は希望の約束です。「神が希望の約束を与える時がいつか」ということについては、現代に至るまで共通した法則があります。

すなわち、どん底にある時に希望の約束が与えられるという法則です。ここに聖書の祝福の大きな意味があります。神は一人一人の絶望の叫び声を聞いてくださる方です。そして低いところまで降って行って、わたしたちの人生のどん底まで降りてくださる方です。イエスの十字架はそのようなどん底のしるしです。そしてキリストの復活は祝福の実現です。絶望からの解放です。この世のどん底から解放しない神は、聖書の示す神ではありえません。永遠の命を持つ方は、わたしたちを抱え上げ、神の右にまで連れて行ってくださいます。希望の確証のためにキリストはよみがえらされたのです。祝福が希望の約束であるという大枠をおさえた上で、祝福の二つの内容について吟味してみましょう。

①子孫が増えることは、古代人としては重要な関心事でした。家を継いでいくという考え方が強かったからです。また出産時の死亡事故や、幼少期の病死等が非常に多かったからです。このため、女性には結婚や出産が義務付けられていました。非婚の女性、子を生まない/生めない女性は価値が低いものと考えられていたのです。そこに宗教的な考え方もかぶせられます。「神に呪われた女性は子どもを生めない」という観念です。

「子どもを産まなかった方が問題だ」という誤解のしようのない差別発言をした閣僚がいます。その人を選挙で選び続けているわたしたちがいます。古代人のことを笑えない現実です。祝福の内容として、単純に子どもが増えることと考えることは、危ない解釈の方向です。

むしろ、サラやリベカの苦労に目を向けるべきです。彼女たちは中々子宝を授からないことで、不名誉な汚名を着せられながら毎日を過ごしていました。「神に呪われた女性だ」というわけです。子どもを産むことは、彼女たちの名誉の回復に役立ちました。子孫の繁栄は、サラとリベカの名誉の回復がこの地上で行われていき、広められていくことがらです。

名誉の回復というものが永遠の命と関係します。なぜならわたしたちの救いは、「永遠の命の書に名前が記される」ことに喩えられているからです。誰からも無視されても、神は覚え続けています。すべての人に軽視されても、神は尊重してくださいます。それによって、わたしたちは人間の尊厳を回復します。それが祝福の第一の内容です。

祝福の第二の内容に移ります。②パレスチナ地域の土地が与えられることについては、現代社会において危険な解釈が現に横行しています。現代イスラエル国家は1948年の建国以来、パレスチナ人の土地を軍事力によって不法に占領し奪い続け、先住民たちを狭い地域に押し込めています。そして正にその際に、イスラエル国家は旧約聖書という宗教的権威を悪用しているのです。アブラハム・イサク・ヤコブに約束された土地(カナンの地)の真の所有者・相続者は自分たち現代のユダヤ人であると言って、政府の蛮行を宗教が擁護しています。政治に利用された宗教というものは、聖書宗教であれ神道であれ、ある意味で「堕落」しています。211日という旧紀元節を、日本のキリスト者が「信教の自由を守る日」としていることは大切な伝統です。

本日の箇所には「ペリシテ人」が登場します。パレスチナPalestineという地名は、ヘブライ語perishtim(英語Philistine)に由来します。ペリシテ人の土地という意味です。ペリシテ人は、族長たちの時代(学説は紀元前19世紀から14世紀までと幅広い)には、カナンの地に居ませんでした。考古学が明らかにした学問的事実です。ペリシテ人は、イスラエルがカナンの地に入るのと同時期である紀元前13世紀にパレスチナに来ました。地中海を渡って来た「海の民」の一種です。聖書にはこの類の時代錯誤な記事が散見されます。それを咎めたり冷笑を浴びせたり、あるいは逆に擁護したりする必要はありません。聖書は古代についての歴史書ではないからです。昔の客観事実ではなく、今を生きるわたしたちの主観に働きかける本(正典)だからです。この時代錯誤にも今の読者であるわたしたちには意味があります。わたしたちに「パレスチナ問題」を意識づけ、その課題への意思表明をさせるという意義です。「ゲラル」(16節)はガザの南に当たります。戦災に遭いガザ地区に閉じ込められ仮住まいを余儀なくされている人々に、飢饉という天災から逃げたイサク一家の姿を重ね合わせるべきでしょう。聖書を根拠に虐殺を正当化してはいけません。

土地は誰のものなのでしょうか。答えは明確です。地球上のすべての土地は創り主である神のものです。そこからもう一つの答えも導かれます。土地は寄留者のものです。神はイサクに、「あなたは滞在しなさい」(2節)、「寄留しなさい」(3節)と命じています。「そうすれば、わたしはあなたと共に(いる)。またわたしはあなたを祝福する」。

これは逆説(皮肉な真理)です。土地を持った途端寄留者は寄留者でなくなるからです。占有者(土地は自分のものと思って定住する人)がいることの裏返しとして、寄留者(その土地を持たないまま滞在する人)という存在がありえます。にもかかわらず、土地は、常に仮住まいの人・滞在する人・旅人・定住者を頼る放浪者・難民のものと考えなくてはいけない。なぜか、わたしたちは必ず土地バブルを引き起こす者たちだからです。より多くの土地を自分のものにしたがり、その土地を高く人に売りつけようとしたりしがちです。これらの行為が周期的な恐慌(土地バブル)の原因となっています。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このようにいう人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに言い表しているのです」(ヘブライ人への手紙1113-14節)。地上では旅人です。旅空を歩んだイエスのように、あえて定住しない族長たちのように、「所有/占有意識」を強調しないことで得られるものがあります。

教会のあり方や、キリスト者の生き方についての示唆がここにあります。すべての者は預かり物です。そして願うものすべてが生きている間に与えられるとは限りません。祝福に満ちた生き方とは、自分の持ち物ではないことを知ることです。それによりわたしたちは互いに持ち寄るという生き方に導かれます。

35節の神の言葉は、22章と対応しています。アブラハムが神からの試験に合格した時に、神が天使を通してアブラハムに誓った内容です(221718節)。22章と26章は、子孫が天の星のように増える点と、地上のすべての民が子孫によって祝福を得るという点が共通しています。22章は土地について語りません。むしろすべての民の祝福が強調点です。だから26章の解釈においても、土地よりもすべての民の祝福に重きを置くべきです。実際、もしアブラハム・イサクへの祝福が、すべての民に及んだらどうなるのでしょう。土地は誰のものになるのでしょうか。4節は内部で矛盾しています。祝福の内容が土地の贈与だとしたら、神は土地を誰に与えようとしているのでしょうか。

だから、すべての民もまた、「寄留者としての祝福」の道に導かれていると考えざるを得ません。誰も自分の土地だと主張すべきではない。ここには現在の領土問題への示唆があります。イスラエル・パレスチナ両政府は、「二政府・一領土」という共存ができるかもしれません。南北朝鮮や中台にも別の知恵がありえます。魚釣島等/尖閣諸島や、独島/竹島、北方四島にも共同統治のような仕方もあるように思えます。お互いに、自分のものと主張しないことを基盤に外交という話し合いを続ける必要があります。

「あなたの子孫によって祝福を得る」(4節)の直訳は、「地の国のすべては、あなたの子孫において、互いに祝福し合う」です(関根正雄訳・岩波訳参照)。ここには相互的動作であるヒトパエル談話態が用いられています(2218節も)。イスラエルも含めてお互い様です。しかし、イスラエルがまず率先して、寄留者として模範を示さなくてはいけません。自分の土地であると主張しないことにおいて、祝福が与えられるということを、身を持って示す。その倫理の中へとみんなが入っていく。そうしてお互いを祝福し合う世界が形作られていきます。「柔和な者は幸いだ、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイによる福音書55節)。教会もまたその倫理に生きるものです。自分の教会のことのみを追求する時に、教会は寄留者の祝福を失い、倫理的に堕落します。

イサクという人物は、この点で非常に優れています。15節以下の物語で、柔和な特長が生かされます。彼が何の努力もなしに、ふさわしくないままにすべての恵みとして与えられているからでしょう。わたしたちの土地と最初の会堂は南部バプテスト連盟からただで与えられています。自分たちのものではないという謙虚さが必要です。それこそが東京北教会に対する共感の源です。

今日の小さな生き方の提案は、お互いを神の像として尊重するというものです。その上で持たない/持ちすぎない/誰かに譲るという生き方を、月曜日から実践することです。教会では名誉の回復が互いになされなくてはいけません。そうして、わたしたちは寄留者として世界に派遣されます。寄留者たちに共感し、必要なものを共有する「神の民」となりましょう。