エジプトへ帰ろう 民数記14章1-10節 2023年10月15日礼拝説教

 戦争と戦争の噂を聞く時私たちには三点ほど気を付けなくてはいけないことがあります。一つは、聖書が悪用されて戦争遂行の道具とされることがないようにということ。二つ目は、その戦争によって一体誰が得をするのかということ。三つ目は、争い合う者同士の「力の非対称」(A>B)です。民数記をイスラエル国家の軍事占領の道具としてはいけません。死の商人たちが今巨万の富を得ています。あたかも対等の戦争が「お互い様の論理」でなされているのではありません。これらを注意しながら、字義通りというよりはむしろ霊的に解釈をして、聖書を読んでいきましょう。

1 そしてその会衆の全ては上げた。そして彼らは彼らの声を与えた。そしてその民はその夜において泣いた。 2 そしてイスラエルの息子たちの全てはモーセについてまたアロンについて互いにつぶやいた。そしてその会衆の全ては彼らに向かって言った。「もしエジプトの地で私たちが死んだだけならばいいが、あるいはもしこの荒野で私たちが死んだだけならばいいが、 3 なぜヤハウェは私たちをこの地へとその剣に落ちるために連れてきたのか。私たちの妻たちと私たちの乳児たちは戦利品となるだろう。私たちにとってエジプトへと戻ることが良くはないか。」 4 そして各男性は彼の兄弟に向かって言った。「私たちは頭(を)与えよう。そして私たちはエジプトへと戻ろう。」

 報告総会において多数派が全会衆を説得しました。約束の地(カナンの地)に入るべきではないという意見が勝ったのです。1節「上げた」は何を上げたのかが書かれていません。報告が取り上げられ、総会で承認されたというような意味でしょう。

 もしかすると「彼らの声を与えた」という表現も、総会で承認されたという意味なのかもしれません。感情的な悲鳴の声を上げたとも解せますが、探ってきた人々の多数派の声が、全会衆の総意として神の前に捧げられたという意味なのかもしれません。いずれにせよ、「与える(ナタン)」という動詞は、1-10節で3回使われている鍵語です。物語の縦糸として考えたいと思います。決議がなされたという重い事柄が、モーセとアロンにのしかかります。

 神の約束を今まで信じてきた民は、神に裏切られ、指導者たちに裏切られたと感じて一晩泣きました。泣きながら、「モーセについてまたアロンについて互いにつぶやいた」のです(2節)。ここにはミリアムが加わっていません。彼女も批判の対象だったのかもしれませんし、彼女は病気を理由に中立的だったのかもしれませんし、彼女も兄弟を批判する側だったのかもしれません。読者の想像の自由です。ともかく、「つぶやいた」までを、その夜の人々同士の相互行為ととり、その後の「言った」からを翌朝のモーセとアロンに対する公式の発言ととります。

 一夜明けて「会衆の全て」は公式にモーセとアロンに対する批判をいたします。5節「集会」という単語があるので、臨時総会が開催されたのだと思います。ほぼ全員の者が「約束が違うではないか」と指導者たちを責め立てます。エジプトの奴隷として過酷な労働によって短命死することや、荒野の旅の中で「野垂れ死に」することの方が、ましだというのです。つまり、最も忌み嫌うべき死に方は、戦闘における戦死、軍隊に殺されることであると。戦闘に敗れた者たちの妻や乳児たちは勝者の「戦利品」(3節)となり、人間扱いされないということは古代西アジア世界の常識です。カナンの地の中に侵略したイスラエル男性たちへの報復が、どこまでも妻や子どもたちに対して続くという暗い予感がここに言い表されています。

 「私たちにとってエジプトへと戻ることが良くはないか」(3節)。民は一歩進んだ新たな提案をします。カナンに入らないことと、エジプトへ帰ることは同じではありません。エジプトに帰ることは、ファラオの奴隷に戻って、ファラオを礼拝し、ファラオのために働くことを意味します。荒野で自由にヤハウェを礼拝する生活とは異なります。この提案は臨時総会の流れを作ります。 

「私たちは頭(を)与えよう。そして私たちはエジプトへと戻ろう」(4節)。二回目の「与える」は民の発言です。日本語と同じく「頭」は肉体の一部である頭脳という意味も、指導者・頭領という意味もあります。この箇所も、「頭を使って冷静に考えよう」「気を確かに持とう」という訳も、「指導者を立てよう」という訳もありえます。特に「を」が無いので曖昧です。一回目の「与える」をカナンに入らないことと決議承認ととると、二回目の「与える」をエジプトに帰ることの新規提案と考えることができます。頭を使って、次の決議をしようというわけです。

いずれにせよ、この提案は現在の指導者モーセ、アロン、ミリアムに対する不信任決議案という意味合いをも持ちます。原文は、「頭を使って」と「指導者を」の両方を同時に言い表していると考えます。

 5 そしてモーセとアロンは彼らの顔をイスラエルの息子たちの会衆の集会の全ての面前に落とした。 6 そしてその地を探求する者たちの一員、ヌンの息子ヨシュアとエフネの息子カレブは彼らの服(を)裂いた。 7 そして彼らはイスラエルの息子たちの会衆の全てに向かって言った。曰く、「私たちがその中でそれを探るために渡ったその地は極めて極めて良い地。 8 もしもヤハウェが私たちを喜ぶのならば、彼は私たちをこの地に向かって連れて行く(はずだ)。そして彼は私たちのためにそれを与える(はずだ)。それは乳と蜜(を)流し続ける地。 9 ただヤハウェには貴男らは叛くな。そして貴男らこそはその地の民を恐れるな。なぜならば彼らは私たちのパンだから。彼らの陰は彼らの上から去った。そしてヤハウェが私たちと共に。貴男らは彼らを恐れるな。」 10 その会衆の全ては彼らを諸々の石で石打にするために言った。そしてヤハウェの栄光が、会見の天幕においてイスラエルの息子たちの全てに向かって、見られた。

 5節のモーセとアロンの反応は意外です。「顔を・・・面前に落とした」という行動は礼拝行為を通例意味します。そこで新共同訳も「ひれ伏していた」と訳しています。土下座の姿勢が礼拝の姿勢なのです。二人は民を礼拝するかのように、総会決議と新規提案を尊重しています。当然失望も口惜しさもあるとは思います。指導者たちにとって思い通りにならないことが話し合いには起こりえるものです。それでも「私たちにとって」(3節)の最善が大切です。砂を噛む思いで、二人の兄弟は「集会」(5節)という最高意思決定機関でなされる話し合いを最大限尊重しています。

 この二人の態度はバプテストの教会において、また民主社会において示唆深いと思います。権威を振りかざすでもなく、力を濫用するでもなく、二人は仕える姿勢を貫いています。「全体の奉仕者」(日本国憲法)なのです。

 しかしこの二人の柔弱な態度に業を煮やした者たちもいました。ヨシュアとカレブです。二人はわざと大げさな仕草で自分たちの衣服をびりびりと破ります。これは悲しみ嘆く時の仕草です。悲憤です。「エジプトへ帰るなど冗談ではない」と、二人は臨時総会で発言をします。おそらくかわるがわるに、概略7-9節の内容を述べたのでしょう。この二人の発言の中に三回目の「与える」が登場します(8節)。「彼〔ヤハウェ〕は私たちのためにそれを与える」。この発言は、前日なされた報告総会の決議のやり直しを求めるものです。二人はエジプトに帰るか帰らないかを論じていません。エジプトという単語は一切用いられません。新規提案に乗っかるのではなく、昨日の決議がおかしかったのではないかと問うているのです。だからモーセもアロンも土下座する必要はないのだと主張したいのです。

 昨日論じられていなかった点があります。それはヤハウェの神についてです。土地について、果実について、住民について、傭兵については報告されました。しかしイスラエルの民が信じているヤハウェ神がどのような方であるのかは論じられていません(13章25-33節)。おそらくはカレブの前回総会での反省から、今回はヨシュアが演説の前面に立っていると思います。ヨシュアは切々と、「ヤハウェ」という神の名前を三回登場させながら神について語ります。もしもヤハウェが私たちを喜ぶならば、もしも私たちがヤハウェに背かないならば、もしもヤハウェが私たちと共に居られるならば、恐れることは何も無い。目に見えるものを恐れるな、むしろ神のみを畏れよ。

 ヨシュアとカレブは、モーセとアロンを批判もしています。若者たちから見て、老指導者たちは目に見える民を恐れすぎなのです。「礼拝の対象はただヤハウェだけではないか、なぜ民にひれ伏すのか」と。神の民イスラエルの話し合いは、神ヤハウェについての考察なしに決議されないと、彼らは話し合いを蒸し返します。「共なるヤハウェが喜ぶことを決め、ヤハウェに叛くことをしてはならない。ヤハウェは私たちの陰として常におられ、ヤハウェが乳と蜜の流れ続ける地を与える。その地の住民は私たちのパンだ。」

 全会衆は、話し合いを冒涜したかどで、またヤハウェの名前をみだりに唱えたかどで、ヨシュアとカレブを石打の刑に処そうと言いました。確かにヨシュアとカレブは、戦争に宗教的お墨付きを与え、隣人を貪ることを肯定していますから、冒頭に申し上げた通り批判されるべきです。とはいえ死刑が正しい結論でしょうか。ステファノが石打の刑に処された時とまったく同じ情景。言論を封殺するのではなく、あくまでも民は、ヤハウェについて論じていなかった点を悔い改めて、審議のやり直しをするべきだったのだと思います。

 すると意外な展開ですが、「ヤハウェの栄光(尊重)」が現れ、ヤハウェが介入します。「栄光(カボード)」は、「重んじる」(カベード)から派生した名詞です。「ヤハウェの栄光」とは、神がそこに臨在しているということを婉曲に言い表す表現です。話し合いの中にずっと神はおられます。モーセとアロンが土下座をして尊重しているのは、民に対してというだけではなく、話し合いを導く神でもあるのです。「見られた」時に初めて神がその場に登場したのではなく、民全員が神の臨在を明確に自覚したことを、「ヤハウェの栄光が・・・見られた」と表現しているのでしょう。

 今日の小さな生き方の提案は、民主社会/教会の話し合いが真に機能するコツです。それは尊重です。神がその見えざる手をもって話し合いを導いていることを重んじることです。また、神がどのような方であるかということを論点から外さない/省かない、むしろ真ん中に置くことです。それによって神に喜ばれる結論、神に叛かない結論が得られます。神はイエス・キリストによって示された愛の神です。悲憤の方、隣人に対する不条理の苦難を憤る方、自分に対する不条理の苦難を隣人のために用いる方です。この方を話の真ん中に据えて、教会も民主社会も何回も話し合いのやり直しをすることができます。「自分は神の意志を代弁している」と思い込んで、聖句をみだりに用いて隣人を傷つけることは、イエス・キリストの道とは反対です。神を中心にしようとして、逆に神に叛く皮肉が起こり得ます。この点に注意を払いつつも、基本はイエスならばどうするかを話し合いの際に肝に銘じることです。