エフライムとマナセ 創世記48章17-22節 2020年7月5日礼拝説教

17 そしてヨセフは彼の父が彼の右の手をエフライムの頭の上に置くのを見、それは彼の目に悪く、彼は彼の父の手を掴んだ、それをどかすために、エフライムの頭の上からマナセの頭の上に。 18 そしてヨセフは彼の父に向かって言った。「そうではない、私の父よ。というのもこの男性がかの長男だからだ。あなたはあなたの右(手)を彼の頭の上に置け」。

 ヨセフはヤコブよりも常識的な人間です。長男が次男よりも豊かに祝福されるべきだと考えています。ヨセフ自身二人兄弟の兄であることが関係するかもしれません。弟を兄と対等に扱ったり、逆に弟を兄より優遇することなど、ヨセフの発想にはありません。常識人ヨセフは祝福の祈りの途中で父ヤコブの右手を掴み、右手をマナセの上に置かせようとします。かなり強引です。必死だったのでしょう。伯父エサウの例もあります。一子相伝の祝福は一つしかないと思い込んでいる人にとって、族長の右手は極めて重要なものです。祈りが終わってしまったらマナセに不利益が生じます。他人のお祈りを無理やり邪魔しているヨセフの姿は滑稽でさえあります。言葉にも、慌てぶりが現れています。敬語表現はなく、「そうではない」「あなたは置け」など、結構ぞんざいです。

19 そして彼の父は拒絶し、言った。「私は知った。私の息子よ。私は知った。彼もまた民になり、彼自身もまた大きくなる。しかしながら彼の小さな弟は彼よりも大きくなる。そして国々の満ちる者になる」。 20 そして彼は彼らをその日祝福した。曰く「あなたでもってイスラエルは祝福する。曰く『神はエフライムのようにまたマナセのようにあなたを置く』」。そして彼はエフライムをマナセの面前に置いた。 

 ヤコブは目をつむりながら断固として拒絶します。右手を動かそうとしません。「拒絶する」という動詞には強意談話態が使われていますから、きっぱりと断ったのです。その態度は「私は知った」という強い言葉(完了形)が二回も立て続けに使われていることからもわかります。ヘブライ語には時制がありません。主観的に動作が完了したと考えられるなら完了形、そうでなければ未完了形を用います。ヤコブは預言者として神の啓示により、エフライムがマナセよりも大きくなることを「知った」のです。それはヤコブの中では完了した出来事、揺ぎのない事実です。預言者の確信です。

 ヤコブの預言は的中します。エフライム部族は「北の十部族」の中で最重要の部族となります。モーセの後継者ヨシュアは、エフライム部族出身です。士師/預言者デボラもエフライム出身。サウル王とダビデ王を擁立した祭司/士師/預言者サムエルもそうです。北イスラエル王国の初代王ヤロブアム一世はエフライム出身。以来北王国の王朝創始者の多くはエフライム部族出身者です。オムリ王朝が建てた首都サマリアは、エフライムの中にありました。北王国出身の預言者ホセアは、自分の国を「エフライム」と呼んでいます(ホセア書5章)。確かにエフライムはマナセよりも大いなる部族になり、部族名が国名に格上げされました。「国々」(19節、ゴイム)の要件を満たしたのは次男エフライムです。部族名と国名が共通するのはユダとエフライムしかありません。

 中心であるエフライム部族に対して、わずかに劣るとは言えマナセ部族の勢力も拮抗しています。領土的にはマナセの方が大きい部族です(巻末地図3)。両者は前後の列をなしているのではなく、「面前に」(20節)向き合っています。約束の地において、マナセ部族はエフライム部族の北隣に置かれました。以前、「右」が「南」も意味することを述べました。ヤコブの右手が置かれたエフライムは、マナセの南に位置します。このことも右手は示唆しています。

マナセ部族も重要な人物を輩出します。女性族長姉妹マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ(民数記27章)は、女性たちの土地相続権を獲得しました。おそらく末の妹ティルツァを創立者とする町ティルツァが、北イスラエル王国の最初の首都にもなります(列王記14章17節)。首都の順番にマナセとエフライムの出生順が対応しています。士師ギデオンやエフタも、預言者エリヤもマナセ部族出身の人です。自由な人々が多いという傾向が見えます。

 20節は「あなたでもってイスラエルは祝福される」と受身にした本文の方が意味が通ります(ギリシャ語訳、シリア語訳)。ヤコブは神からアブラハムに対してなされた祝福の言葉(12章3節)をもじっているのでしょう。だから、「あなたたちでもって」ではなく、「あなたでもって」という呼びかけをしていると推測します。「アブラハムを通して全世界が祝福されるのと同じ仕方で、エフライムとマナセを通して全イスラエルが祝福される。十二部族の中で、そのような位置に、神がエフライムとマナセを置くだろう。わたしはそれを知った。」百四十七歳のヤコブが、両手に力を込めて預言をし、祝福をしています。

 旧約聖書を読む際の大切な注意をヤコブは喚起しています。つまり素直に読むと南ユダ部族出身のダビデ王朝びいきになりがちになってしまうという注意です。北のエフライムとマナセ(複数)こそ、真にイスラエルの中心です。イスラエルがヨセフをひいきし、エフライムとマナセを養子にしたからです。ヤコブと同じようにナザレのイエスは、「メシアはダビデの子だろうか」という疑問を呈しました。ダビデ王朝を復興させローマ帝国を武力で打倒するメシア待望が強かったころに、イエスは旧約聖書の読み方に注意を指摘しています。現在の旧約聖書には北の十部族や北イスラエル王国に対する誹謗中傷が多く残され(列王記)、その逆に南ユダ王国やダビデ王朝に対する賛美が多く残されています(歴代誌)。無批判に読むならば、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1章46節)となるように仕組まれているのです。

 わたしたちは旧約聖書を読むとき、意識して周辺の人々を真ん中に置いて読むべきです。右手と左手を逆さまにして、南のダビデ王朝を左側に持って行って、北の人々を右側に寄せて読むべきです。そうしてやっとバランスが取れます。実は北の方がイスラエルの古い伝統に忠実であり(一代限りのカリスマ指導者、募兵制、複数の神殿、対等な複数部族間の自治)、南のダビデ王朝(世襲の王朝、徴兵制と常備軍、唯一の神殿、ユダ部族一強中央集権)の方がカナンの風習に倣っているのです。旧約聖書自体の常識も疑ってめくり返して読み直す必要があります。なぜならナザレのイエスがそのような方だからです。

21 そしてイスラエルはヨセフに向かって言った。「見よ、私は死につつある。そして神はあなたたちと共に居り、あなたたちをあなたたちの先祖たちの地へと戻す。 22 そして私こそがあなたのためにあなたの兄弟たちに関する、一つのシケムを与えた。(それを)私はアモリ人の手より私の剣と私の弓でもって取った(のだが)」。

養子縁組の儀式は終わりました。ヤコブはヨセフを見たり(22節)、二人の孫を見たりしながら(21節)、この場を締めくくります。ヤコブにとって困るのは、ヨセフの子孫が誰も約束の地に帰らないことです。十分ありうることです。エジプトの総理大臣の家族は、エジプトに住み続ける方が自然です。エフライムとマナセの母親はエジプト人神官貴族なのですから。

21節の孫たちへの言葉は、「族長に格上げしたからには、二つの部族をあげてイスラエルの一部として(六分の一の多数派)約束の地に帰るように」という念押しです。「わたしと常に共にいた神が、あなたたち二人とも常に一緒にいる。神は一人の族長にだけ共にいるのではない。同時に二人とも、あるいは十二人とも、民の全員とも共におられる神だ。神はあなたたちも民の一員として約束の地に帰す。エジプトに土着化し同化してはいけない。」

22節のヨセフに対する言葉が本日の「解釈の十字架」(理解困難な箇所)です。ヤコブがヨセフに与えた「一つのシケム」とは何でしょうか。名詞「シェケム」には「肩(斜面)」「分け前」「シケムという町」「シケムという男性」といった複数の意味があります。どれを採ってもすかっとしません。というのもヤコブがアモリ人から何か/誰かを武力で取ったという記事が、聖書に記録されていないからです。どう考えるべきでしょうか。

結論から言えば、名詞「シェケム」は、ヤコブがシケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買った土地のことです。この土地はシケムという町の近くにありました。この土地を、ヤコブはヨセフの埋葬場所として買ったと言っているのです。だから、「あなたの骨も約束の地に埋葬しなさい」とヤコブは念を押しています。「約束の地に入れ」との孫たちへの言葉ともつながります。

創世記33章19節に、ベニヤミンが生まれる前、ヨセフが末っ子だった時にヤコブがこの土地をハモルの息子たちから買った出来事が記されています。33章で詳細が記されていませんが、この土地購入は暴力によってなされたと、本日の箇所でヤコブが言っています。「アモリ人」は、カナン人の一種です(10章15-16節)。ヤコブはシケムに住むハモルたちをカナン人の中のアモリ人と理解しています。その人々に、ヤコブ自らが剣や弓を手段にして土地の購入を迫ったというのです。レビやシメオンの虐殺行為を(34章)、ヤコブが厳しく戒めなかった理由がやっと分かります。同じ穴のむじなだったからです。

創世記33章19節の話は、ヨシュア記24章32節にも記録されています。約束の地に入ったイスラエルの人々が、エジプトから携えてきたヨセフの骨を、ヤコブが百ケシタで買い取ったシケムの野の一画に埋葬したという記事です。シケムという町はマナセ部族とエフライム部族の境ぐらいにあります。ヤコブがヨセフの墓をシケムに買ったという事実は、ヨセフの子孫たちに代々言い伝えられ、そして実際そこに、エフライム・マナセ両部族代表を喪主として、ヨセフの骨は埋葬されました。ヨセフだけヤコブの代に格上げされています。

こういったことから「一つのシケム」に様々な意味を込めながら、ヤコブは死ぬ前に自分の埋葬と(47章29-30節)、ヨセフの埋葬が約束の地でなされることを確約したかったのだと推測します。「シケムといえば、娘ディナがシケムという男性から性暴力被害に遭い、シメオンとレビが報復の虐殺をした町だ。その意味であなたの兄弟に関する。しかしそれだけではない。もう一つの意味がある。シケムの城壁の外にある土地の一角は、あなたの墓のために自分が買ったのだ。だから時々兄たちを管理に行かせていた(37章13節)。私と同様、あなたも約束の地に葬られるべきだ。エジプトの土になってはいけない」。

今日の小さな生き方の提案は、周辺とされている物事に目を向けることです。特に首都圏に住んでいる人々は、中央と周辺を逆さまにして考える必要があります。沖縄を真ん中に置いた地図を見たらどうなのか。台湾・フィリピンの近さに驚きます。南半球を上にして地図を見たらどうなるのか。支配/被支配関係が揺さぶられます。「日本すごい」ということと、「中国・韓国・朝鮮はすごくない/劣っている」「だから差別して良い」ということが直結しがちな世相を憂えています。「夜の街」とは何か。昼の街があるのか。私たちは自分が昼の街・中央にいると思い込んで、勝手に周縁と位置づけている「夜の街」の人を差別して良いのでしょうか。周辺から見る時、自分の原罪に気づきます。贖い主イエスが、周辺のガリラヤから徴税人・娼婦・ハンセン病患者を仲間として世界を変えたことを覚えましょう。日々の罪を悔い改めましょう。