シメオンとアンナ ルカによる福音書2章22-40節 2016年5月22日礼拝説教

マリアとヨセフは赤ん坊のイエスを連れて、エルサレム神殿に「お宮参り」をします。ベツレヘムの家畜小屋にずっと滞在していたのか、それとも、親戚のエリサベト・ザカリア夫妻のところにお世話になっていたのか、よく分かりません。「モーセ/主の律法」(22・23・24・27・39節)の一部であるレビ記12章2-4節には(旧約聖書179ページ)、男の子の場合に出産後33日間産婦は「汚れている」とみなされて宮詣でが禁止されています(女の子の場合は倍の66日とあるのは女性差別の一種。同5節)。

出産後一ヶ月以上経ってから、エルサレム神殿へとお参りをする理由は二つあります。一つは母親マリアの「清め」の儀式のためです。同6-8節に、雄羊一匹・鳩一羽を産婦は自分の清めのために祭司に捧げなくてはいけないとあります。なお、産婦が貧しい場合には二羽の鳩で構いません。

もう一つのお参りの理由は、長男が生まれた場合の儀式にあります。これまた律法の一部である出エジプト記13章2節には、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」とあります。長男を殺せという意味です。しかし家父長制のもと長男は重要です。そこで、民数記18章15-16節で、「人の初子は必ず贖わなければならない・・・初子は、生後一ヶ月を経た後、銀五シェケル(20デナリ)・・・の贖い金を支払う」という規定で補います。まとめると、長男が生まれたら、殺す代わりに神殿に20デナリの贖い金というものを支払わなくてはならないというルールです。

一家は、律法通りに生きるために、マリアのための二羽の鳩、イエスのための20デナリ(10万円から20万円ぐらいか)を神殿に捧げるためにお宮参りをします。ルカは二つの理由をごちゃまぜに記していますが、整理すれば、「マリアの清めの期間が過ぎ、マリアの清めの儀式と、イエスの贖いの儀式のためにエルサレム神殿に一家は行った」のです(ルカ2章22-24節)。

ユダヤ社会は神殿貴族を中心にしたピラミッド社会です。祭司は特権階級、利権の頂点にいます。宗教的に真面目に律法を守る者が、社会的にさまざまの税金を搾り取られる仕組みがありました。成人したイエスは、「宮清め」(同19章45-48節)を行い、神殿に群がる利権を批判しました。その時、権力者たちはイエスに殺意を燃やし、逆に民衆はイエスを支持します。その理由が、搾取の構造にあります。

ユダヤ人神殿貴族への捧げ物という名前の税金だけではありません。さらに、ローマ帝国への人頭税が取られ(1-2節)、通行税(5章27節、19章2節)が徴税人たちによって徴収されていました。植民地ユダヤは重税社会です。

わたしたちは税金の入口としてどこから多く取るべきなのか、また税金の出口として何に使われているのかについて敏感であるべきです。舛添都知事の問題は悪事ではありますが事柄として小さいものです。より大きな事柄もあります。消費税を全員からとることは貧しい人の生活を直撃します。その一方で大企業への法人税を下げることは果たして公正でしょうか。多くの犯罪の温床となっている米軍基地の負担を巨額の税金で「思いやる」必要があるでしょうか。むしろ、福祉・教育・民主主義固有のコスト(選挙・立法)に対して税金を多く用いるべきではないでしょうか。

ヨセフは律法を律儀に守るタイプの「正しい人」でした(マタイ1章19節)。真面目な人ほど損をするという社会の被害者です。

さてエルサレムに、ヨセフと同じタイプの「正しい人」がいました。シメオンという男性です(25節)。彼は、エリサベト・マリア・ザカリアと同じく、聖霊を宿し、聖霊からのお告げを受け、聖霊に導かれている人でした(26・27節)。シメオンは聖霊の神からの約束に希望をおいて生きていました。「主のキリスト(26節直訳)に会うまで決して死なない」という約束です。「主のキリスト」は、11節の「主キリスト」(直訳)という表現と対応しているので、「主であるキリスト」という意味でしょう。

見えない神によって与えられた約束は、神を見るという恵みです。ユダヤ人たちは神を見ると死ぬと考えていましたから、この約束は恵みです。また、見えるものは神ではないと考えていましたから、この約束は固定観念への挑戦です。シメオンは、神を見た瞬間死ぬことを覚悟していたかもしれません。

赤ん坊のイエスを見た瞬間シメオンは、主キリスト・救い主・神だと分かりました。神が約束を果たしてくれたことに、彼は感謝しました。それと同時に死なない自分がいることにも気づきました。その時、彼の固定観念が壊されます。おそらく律法を律儀に守るユダヤ人シメオンは、ごちごちの民族主義者でした。イエスに会う前、彼の希望は「イスラエルの慰め」(25節)に限られていました。イスラエルのみの救いという固定観念も崩されます。

シメオンの行動は、今までの律法通りの真面目な振る舞いを打ち破るものでした。彼は、両親から赤ん坊のイエスを取り上げ抱っこし(28節)、祭司に捧げられる前に、一家を祝福します(34節)。シメオンは祭司でもなんでもないのに、祭司になるのです。

シメオンの発言内容を見ると、今の彼が考えている主キリストが世界の救い主であることがわかります。「救い」は「万民のために整えてくださった救い」(31節)です。イスラエルの慰めではありません。32節の新共同訳は、非ユダヤ人とユダヤ人に差を設けていますが、原文は両者並列の扱いです。「光」(イエスのこと)は、異邦人を照らすための光でもあり、イスラエルの栄光のための光でもあります。ここにシメオンの信仰内容の成長をみます。彼は「イスラエルの多くの人」(34節)だけではなく、すべての人という意味の「多くの人」(35節)の救いを待ち望むようになりました。

イエスが全ての人にもたらす救いとは何でしょうか。イエスが神に棄てられエルサレムで神殿貴族たち・ローマ帝国軍に殺されること、そのイエスを神がよみがえらせること、そのイエスと神が聖霊をすべての人に与えること、この一連のことがらが救いです。

この出来事は多くの人の心を刺し貫き多くの人を倒しました(34節)。見棄てた弟子たち・見守った弟子たち(マリアも含む。35節参照)の恐怖と失望、ローマ総督の後悔、ローマ兵の懺悔を含む信仰告白、ユダヤ神殿貴族ヨセフの埋葬など、多くの人がイエスの死を悼みました。一方で、すべての人に「自分もイエス殺しと同じ罪を持っている」ということが示されました。他方で、「このような不正義が横行してはいけない」という、すべての人の良心が明らかにされました。十字架でイエスのからだが刺し貫かれた時、すべての人の良心が刺し貫かれ、わたしたちは「この不条理な世界でどのように生きるべきか」という問いの前に倒れ伏すのです(使徒言行録2章37節)。義人が「反対を受けるしるしとして定められている」(34節)世の中とは何なのでしょうか。

十字架の神を見るとき、自分が死なずにイエスが死ぬことの意味をすべての人は問い直します。それは沖縄の人々が暴力に日々晒されている時に明らかにされるわたしたちの罪と良心です。

そしてこの出来事は多くの人たちを立ち上がらせもしました(ルカ2章34節)。復活と聖霊の働きです。悔い改めという生き方の転換が、十字架に続く復活と聖霊を受けることによってなされます。

シメオンはその具体例です。狭い考え方が、赤ん坊イエスを見るときに打ち砕かれ、より広い救いへと目を開かれるのです。彼は死を覚悟したけれども生かされ(一旦倒れ、すぐさま立ち上がり)、その命を別の生き方に用いました。エルサレム神殿の境内で、祭司を差し置いて、律法違反の罪を被っている一家を祝福したのです。シメオンは清める権限もないのに、汚れている人を清めてしまいました。清める権限を持つ者による清めの儀式の前に。神が清いと言っているのに汚れていると決めつける狭い生き方から解放されたからです(使徒言行録10章15節参照。なおペトロはシメオンとも呼ばれる。同15章14節)。

バプテスマを受けてキリスト者となるということは、狭い固定観念を毎日広げる生き方を選ぶということです。聖霊に導かれる人生は、自由を広げる人生です(同2章38節以下)。わたしたちは不条理の横行する世界の中で、神から自由を与えられ、自分の自由を広げていく生き方を地道に続けるべきなのです。

シメオンとイエス・マリア・ヨセフの四人に、84歳の女性が近づいてきます。アンナという預言者です。「アシェル族のファヌエルの娘」(36節)という紹介は、読者の目をガリラヤ地方から非ユダヤ人の住んでいるフェニキア地域へと向かわせます(39節)。アシェル部族はその当時すでに存在しません。アシェル部族の住んでいた海岸沿いの地域は、ユダヤ人が住んでいない場所となっていました。ファヌエルは「神の顔」という意味の名前です。ガリラヤからさらに異邦人の地で神に出会えるという暗示・預言があります。

イエスを中心とする三人にさらにもう一人の女性が加わり五人が神殿の境内に集まります。赤ん坊、若い夫婦(伝説によると年の差婚)、高齢男性、さらに高齢の女性という多様性がここにあります。赤ん坊のキリスト、祭司、預言者という多様性もあります。ガリラヤの人とエルサレムの人という多様性もあります。

生後八日目に名付けられた赤ん坊のイエスのもとに集まる四名。ここに教会の原型があります。彼・彼女たちは、祝福をし、預言をし、断食をし、祈り、賛美をし、救いを待ち望んでいる人々に幼子のことを話していました(37-38節)。この人たちは、神殿貴族を頂点とする政教一致の支配体制とは別に、「自由教会」(任意団体)をその場で結成し、その場で解散しています。神殿を離れなかったアンナとは異なり、シメオンは別に毎日神殿に来ていたわけではないのですから。

イエスと四人の人々は、エルサレムに生まれる最初の教会の原型です(使徒言行録2章43節以下)。最初の教会にはさまざまな言語を使うさまざまな地域の人々がいました。そしてその中で女性の預言者たちが活躍していたことは、コリントの信徒への手紙一14章26節以下からも推測されています。また教会の中に「やもめ」という職分があったという学説もあります(テモテへの手紙一5章3-16節)。アンナはその先駆けなのです。

現代の教会の原型もここにあります。バプテスト教会が万人祭司と言う場合には、シメオンのように誰もが祭司のように祝福できるということを重んじるべきでしょう。「預言(説教にあたる)を女性たちが担うのも当たり前」とすべきでしょう。教会は「神に仕える」(37節)ために、その都度結成され解散される交わりです。そこには多様性をもつすべての人々が招かれています。そこでは、お互いの祝福・共同の賛美・祈り・宣教がなされるものです。

今日の小さな生き方の提案は、「自由に集まる一回一回の礼拝に集中する」ということです。それが教会そのものだからです。聖霊に導かれた多様な人々による礼拝は、狭い考えを毎週打ち砕き、より広い生き方へと導きます。