ティルスの教会 使徒行録21章1-7節 2023年7月30日礼拝説教

1 さて彼らから離れて私たちが出航するということが起こった時に、直行して、私たちはコス(島)の中へと来た。さて次の日にロドス(島)の中へと、そしてそこからパタラの中へと(来た)。 2 そしてフェニキアの中へと渡りつつある船を見つけたので、のぼって、私たちは出航した。 3 さてキプロス(島)の光を見て、そしてそれを左側に残して、私たちはシリアの中へと通り続けた。そして私たちはティルスの中へと到着した。というのもそこでその船がその荷物を降ろし続けていたからだ。

 新共同訳聖書巻末の地図「8 パウロの宣教旅行2,3」本日の旅行路が載っています。ミレトス>80Km>コス>100Km>ロドス>100Km>パタラ>550Km>ティルス>50km>プトレマイスという順路が点線で描かれています。パウロたち諸教会代表団(フィリピ教会代表の著者ルカを含む「私たち」1-3節)は、エフェソ教会の長老たちと別れて小アジア半島からフェニキアへと船を乗り継いで旅をします。エルサレム教会に募金を届けるためです。

著者ルカはこの船に乗っていたので詳しく記録しています(20章13-16節も同様に詳しい)。ルカは船の手配に慣れている人物でした(16章11節、20章6節)。この船旅もルカが手腕を発揮します。しかしフェニキアに直航して行く長旅は初めてです。特にキプロス島を横切る時にルカは感動し名残惜しさを表現しています。もしかすると、「あの島に噂に聞くバルナバとマルコがいる。あの町に教会がある」というような感慨があったかもしれません。

当時の船旅には危険が多くありました。現代のような旅客船はなく、すべては貨物船です。商業用荷物(商品群)に隙間があれば人間も乗客にさせてもらえるというものですから、全く乗船できない可能性すらあります。ルカは諸教会代表団9名(ソパトロ、アリスタルコ、セクンド、ガイオ、テモテ、ティキコ、トロフィモ、ルカ、パウロ)の団体を、ミレトスからパタラまでうまく三隻の船便で順調に運びます。ただしパタラで大きな船を見つけたのはルカだけではなく、小アジア半島デルベの出身者ガイオやテモテやパウロの協力もあったとも思います。「見つけた」(2節)の主語は複数形だからです。

貨物船なので船が人間に提供するのは水だけです。乗客は甲板で寝泊まりします。パウロはテントを持っていたかもしれませんが。乗客たちは交代でオールをこぐ場所で自炊をするのです。9名は多額の現金を所持していました。窃盗に遭わないように注意をしながら9名が交代で募金を見張りながら甲板(ほぼ屋外)で昼も夜も過ごしていたはずです。

パタラは当時繫栄していた港町です。彼らが乗った船は約550Km先のティルスで大量の荷物を降ろし続けるほどの貨物船だったようです(3節)。六日の航続距離があるということは、漕ぎ手の食料を六日分蓄えることができる船です。彼らはパタラで「弟子たち」(4節。ユダヤ教ナザレ派の信徒=クリスチャン)を見つけることはできませんでした。定住の支援者がいないため食料や金銭の支えがなかったので急いで船を見つける必要がありました。小さな船で沿岸の港町を伝う方法もありえましたが、行く先々の港町すべてに「弟子たち」が存在する保証がないので、その保証のある大都市ティルスに直行したのでしょう。ここには9名の協議と判断があったと思います。

こうして協力し合った大冒険の末9名の諸教会代表団は多額の募金を携えてフェニキア地域のティルスに着きます。ここからは土地勘がある者はパウロだけです。パウロは十年ほど前にアンティオキア教会とエルサレム教会を往復する旅でティルスに立ち寄ったことがあると思います。11章30節の往路ではバルナバと共に、12章25節の復路ではバルナバとマルコと共に。

4 さてその弟子たちを見つけたので、私たちはそこで七日滞在した。そしてその人たちはパウロにその霊を通してエルサレムの中へとのぼることのないように言い続けた。 5 さて私たちがその日々を終えるということが起こった時に、外に出て、行って、その町の外まで妻たちや子どもたちと共に全ての者たちが私たちを見送りながら、そしてその膝をその岸の上に置いて、祈って、 6 私たちは相互に挨拶した。そして私たちはその船の中へと上がった。さてそれらの人々は自分たち自身(の生活)の中へと戻った。 7 さて私たちはティルスからの航海を終えて、プトレマイスの中へと下った。そしてその兄弟たちに挨拶して、私たちは一日彼らの傍らに留まった。

 4節の記述からティルスという町にすでに教会が存在していたという事実は明らかです。一行のうち少なくともパウロは、ティルスの教会の存在を既に知っていました。当時は会堂という礼拝施設がない「家の教会」です。「誰それがクリスチャンである」という情報なしに「弟子たち」を見つけることは不可能です。では一体どのような経緯でここに教会が立てられたのでしょうか。大胆に推測してみましょう。古代のロマンです。

 マルコ福音書7章24節に、イエスがティルスに行った時の物語が載っています。エルサレムから来た律法学者たちとの論争に疲れたイエスが、ティルスでギリシャ語を話すフェニキア生まれのユダヤ人女性からユーモアという歓待を受けたという文脈。「食卓の下の子犬もパン屑を食べる権利がある」という女性の言葉が有名な物語です。マタイはこの愉快な物語を手直ししつつ自身の福音書に採用していますが、使徒言行録の著者でもあるルカは自身の福音書に採用しません。その一方でルカは使徒言行録にティルス教会を紹介します。つまり本日の物語はルカにとっては、マルコ7章の代替なのです。ここからティルスの教会の設立や福音書記者たちとの関係を推測します。

 ナザレのイエスはティルスの一女性宅を訪れ、その娘から悪霊を追い出したことがあります(後29年ごろ)。その言い伝えはその町に残っていました。イエスが殺され復活させられ聖霊によってユダヤ教ナザレ派(キリスト教会)がエルサレムに立てられます(後30/31年)。ナザレ派はイエスを苦しめた神殿貴族・律法学者たちによって迫害され、ステファノの殺害をきっかけに「サマリアの地方」に散らされます(後33年ごろ。8章1節)。しかし散らされた信徒たちはサマリアだけではなく、「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」のでした(11章19節)。この範囲にティルスは含まれます。つまりティルスにもかなり早い時期にエルサレムから逃げたキリスト者がいたのです。その信徒たちは、ほんの4年前にナザレのイエスと出会ったことのある、あの女性一家と出会います。そして彼女たちに、あのイエスがよみがえらされた神の子・救い主であるという信仰が聖霊によって与えられ、その家がティルスの教会となります。そこには犬も住んでいたのでしょうか。晩餐卓の下にいる犬と共なる礼拝が繰り広げられていたのかもしれません。

一方ティルスの南80Km(船で一日、陸で二日の距離)にある大都市カイサリアの状況はどうだったのでしょうか。あの七人の一人である宣教者フィリポはカイサリアに行っています(8章40節)。パウロはカイサリア経由でタルソに逃げています(9章30節)。ペトロはカイサリアでローマ人コルネリオらにバプテスマを命じています(10章48節)。かなり早い時期からカイサリアには教会がありました。そうであればティルスにも教会が古くから存在していたと想定したほうが自然です。ティルスの教会は、ステファノやフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身のニコラオという七人の国際派指導者たち(6章5節)の流れを汲む、匿名の信徒たちによる教会です。反エルサレムの文化があります。反エルサレム・親ガリラヤである「ナザレのイエス」を知る女性指導者が中心にいます。

パウロはバルナバと共にアンティオキアからエルサレムに飢饉の際の「奉仕」(募金か)のために行っています(後46年ごろ。11章30節)。その時ティルスの教会に立ち寄っている可能性があります。国際派バルナバの弁護で信用してもらったのでしょう。帰りにはマルコも同伴してティルス教会に立ち寄ります。マルコはティルス教会で先ほどの「子犬とパン屑の物語」を聞いたのだと思います。あれから十年、バルナバとマルコの二人とは袂を分かって(15章39節)、パウロは今回、前回と同じような趣旨で違うメンバーと共にエルサレム教会に行こうとし、ティルス教会に立ち寄ります(後56年)。

後49年から書かれたパウロの諸手紙の写しがティルスの教会にまで渡っていたかは不明です。しかしもしかすると、パウロの諸手紙に対する対抗心からマルコが書いた「マルコによる福音書」はティルスの教会にあったかもしれません。取材協力の感謝として教会に寄贈され、それが主日礼拝に用いられていた可能性があります。そうであれば福音書による礼拝は、パウロの手紙を礼拝に用いていたルカや諸教会代表団を大いに触発したことでしょう。

十年ぶりにパウロに会ったティルス教会の人たちは、空腹の9名をもてなした上で、一行のエルサレム行きを引き留めようとします。「エルサレムに行ったらイエスのようにステファノのように殺される。エルサレム教会にもそこまで義理を果たす必要がない」。マルコ福音書を読みながらルカは、「いや、食卓の下の子犬(エルサレム教会)でさえもパン屑を食べる権利はありますよ」と笑って言ったかもしれません。マルコとは別の仕方でティルスの教会を紹介することが、パウロと共にエルサレムに行ったルカの密かな使命となります。

七日間かけた全身全霊による引き留めの説得もむなしく、ティルス教会員たちはしぶしぶプトレマイスの教会を紹介します(7節の「兄弟たち」を「見つけた」とは言われていない)。教会員たちはパウロたち一行を見送ります。5節にはティルスの全教会員老若男女が町の外にある港まで見送った様子が描かれています。七日間ということは一回の主日礼拝があったということです。その一回で初対面の人ともここまで親密になれるところにキリスト者の交わりがあります。その一方で、一行と別れた信徒たちは淡々と「自分たち自身(の生活)の中へと戻った」(6節)とも言われています。ここにも教会の交わりの特徴が示されます。共依存のようにお互いがだめになるような寄りかかり方はしないのです。海路で一日プトレマイスに行き船旅を終え、そこで家の教会に泊まらせてもらい、ここから一行は陸路でエルサレムを目指して行きます。

今日の小さな生き方の提案は、ティルスの教会に倣うことです。逃げてきたイエスを鮮明に覚えていた母娘は、逃げてきた信徒たちの内側にイエスの霊が生きていることを見抜きました。彼女たちは家を開放し教会に用い、エルサレム・アンティオキア間をつなぐ教会となりました。さらに自らフィリポ系列の諸教会でありながら、バルナバ・マルコ系列の諸教会とパウロ系列の諸教会とをつなぐ教会ともなりました。テモテからパウロの手紙の写しを提供してもらい、ティルスの教会はそれをも自分たちの礼拝に用います。懐の深い教会間交流が正典づくりを促進し、それが諸教会の礼拝を豊かにしていきます。逃げてきた者たちを基とする教会。それが教会と教会とを結ぶのかもしれません。文化の交差点・大都市ティルスの教会は一つの模範です。