ナザレから何か良いものが ヨハネによる福音書1章43-51節 2013年5月19日礼拝説教

今日の話の要点は二つです。一つは偏見を持ってはいけないということ、もう一つは偏見を捨てる方法です。

今日は教会の暦によればペンテコステ(聖霊降臨祭)の日です。クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)に並ぶキリスト教三大祝祭日の一つです。ペンテコステの趣旨は、聖霊をいただいた弟子たちが教会をつくったことを記念してお祝いすることにあります。聖霊とは神の霊、イエスの霊です。がっかりしている人を力づける力です。罪を赦し罪人を解放する力です。ばらばらの人々をつなぎ合わせる力です。人の内に宿り、その人を自由にする力です。人を教会に集める力です。そして教会から人を派遣する力です。聖霊とは神そのものです。

弟子たちは聖霊をいただいて教会をつくろうと決意します。そして最初の教会はユダヤ教の中の「ナザレ派」と呼ばれました。ナザレのイエスを神の子・メシアと信じていたからです。ここには一種の侮蔑が込められています。「ナザレから何か良いもの(メシア/預言者/王/祭司)が出てくるだろうか」と、ユダヤ人たちは一般に思っていました。なぜかと言えば、旧約聖書の中に、ナザレという地名が登場しないからです。ユダヤ人は旧約聖書の解釈を基準にものごとの良し悪しを判断します。言葉そのものが無い事柄については解釈しようがありません。〔※ 逆の事例はベツレヘムです。ミカ書に登場し、しかもダビデ王の故郷です。ベツレヘムからメシアが出ることはユダヤ人にとって解釈しやすく分かりやすいものです。しかし、ナザレからはメシアは出るなどという考えは及びもつかないのです。〕

 

ナタナエルという人はナザレの人々に対して偏見を持っていました。それに対してフィリポという人は偏見を持っていません。今日はナタナエルの問題性を指摘して、フィリポのような人になることがどのようにしてできるのかを考えたいと思います。

本題の前に地名の説明をしておきましょう。「ガリラヤ」(43節)は広い地域の名前です。このガリラヤ地方の中に、「ベトサイダ」(44節)、「ナザレ」(45節)、「カナ」(2:1)という町があります。フィリポはベトサイダ出身、イエスはナザレ出身、ナタナエルはカナ出身(21:2)であり、全員ガリラヤ地方の人々です。そしてユダヤ地方(首都圏)の人々は、ガリラヤ全体に対して差別意識・偏見を持っていました。後からユダヤという国に組み入れられたことや(「混血」が進んでいたこと)、国際的な商売が盛んだったこと(非ユダヤ人との接触が多かったこと)がその原因です。

 

さてナタナエルとは「神が与えた」という意味の名前です。この名前はヘブライ語由来です。両親が他の民族への偏見を持っていた可能性があります。偏見というものは代々受け継がれやすいものです。すべてを家庭のせいにするのは良くないことですが、保護者の影響が強いのも事実です。親が外国人について否定的に言えば子どももそうなる可能性は高いのです。大人の責任は重いと言えます。偏見の原因は本人だけにあるのではないということを一つ押さえておきましょう。

その上で、ナタナエル本人の問題は何かを問いましょう。それは、聖書をどう読むかということであり、特に聖書に書いていないことについてどのように現実生活にあてはめるべきか、ということです。論理的な考え方が必要です。非論理的に文字面だけにこだわると、偏見が生まれてしまうのです。

大方のユダヤ人と同じように、ナタナエルの主張はこうです。「ナザレは旧約聖書(45節にある、「律法」および「預言者たち」のこと)に登場しない地名だ、だから、取るに足らない町・馬鹿にしてよい町なのだ」と。ここには論理の飛躍があります。そしてすべての偏見は、意地悪な論理の飛躍なのです。

具体的に言いましょう。聖書に書いてあることが大事であるということと、聖書に書いていないことは大事ではないということは、同じではありません。あなたの隣の人を愛しなさいと書いてあることは大事です。しかしナザレ人を愛しなさいと書いていない、だからナザレ人を愛さなくてよいと論を進めていくことは行きすぎでしょう。ナザレという地名がない、だからメシアはナザレから登場しない、だからナザレは馬鹿にしてよい町だと論を進めることも行き過ぎです。偏見とは論の行き過ぎであり飛躍です。

ナタナエルは初対面のイエスに、自分がいちじくの木の下にいることを言い当てられて、イエスをイスラエルの王・神の子と信仰の告白をします(49節)。イエスの能力を見て信じたのです。50-51節は、そのことについてのイエスの感想です。謎のような言葉ですが、否定的な言い方であることは分かります。「相手が能力を持っているということを見なくても、その相手を信じる人は幸いである」(20:29)ということが言外に言われていると思います。

偏見の正体がここに明らかにされます。それは、人を見ないまま/知らないまま/出会ってもいないまま、その人を信用しないということです。透視術のような奇跡的能力などを見せつけられなくても、まだ会ったことのない人を信頼しなさいということでしょう。

「人の子」とは、人類一般という意味の言葉です。すべての人に天に登る階段は用意されているということが、ここで言われているのでしょう。イスラエルだけが神の子なのではありません。すべての人の子が神の子なのです。47節のイエスの言葉は、ナタナエルが持っている民族主義への皮肉でしょう。同じガリラヤ地方に住みながら、ナザレという町に偏見を持つあなたは何者か、イスラエルの中にはナザレも入っているだろう、人の子の中にはナザレ人も入っているだろうということが、イエスの言いたいことなのでしょう。

ナタナエルの持っている偏見は、現代のわたしたちも持っている罪です。橋下徹大阪市長が人権侵害の差別発言をしました。「男性は性欲をコントロールできない、だから慰安所が必要だ」という非論理的かつ許されざる発言です。かつての日本軍の罪を容認し、現在の沖縄でそれを行なってよいとする発言や、他の国もしていたのだから良いという発言も、まったく説得的ではありません。女性を同じ人の子と見ていない、偏見と差別が底辺にあることが大いに問題です。日本バプテスト連盟の性差別問題特別委員会は5月17日付で抗議声明を提出しました。東京地方連合社会委員会も本日付で抗議声明を出します。

 

それではどうやってわたしたちは偏見に打ち勝つことができるのでしょうか。ナタナエルをイエスに紹介したフィリポに倣いたいと思います。イエスはフィリポを見出して(43節「出会って」の直訳)、面と向かって「わたしに従ってきなさい」と言っています。どうやってイエスはフィリポを見出したのでしょうか。同郷のペトロがイエスにフィリポを紹介したのでしょう。さかのぼって、ペトロは弟のアンデレにイエスを紹介されているからです(41節)。さらにさかのぼって、アンデレ(と匿名の弟子)はバプテスマのヨハネから、イエスを紹介されています(37節)。このように、一人が一人をイエスに紹介し、直接の出会いをしているのです。出会いの具体は様々ですが、来て見た者はみなナザレのイエスがメシア・神の子であると信じていきます。

ナザレの人に偏見を持つ人は、実際のナザレの人に出会えば良いでしょう。「来なさい。そうすれば分かる(見える)」(39節)、「来て、見なさい」(46節)、そうすればナザレの人であれカナの人であれベトサイダの人であれ、ガリラヤ地方の人であれユダヤ地方の人であれ、イスラエルの人であれギリシャ人であれ、同じ人の子であることが分かります。旧約聖書に無いことも出会いを論理的に延ばせば分かります。その偏見を脱ぎ捨てたなら、その後にナザレのイエスが旧約聖書も示すメシア・神の子であることが分かるのです(45節)。

フィリポに導かれてナタナエルはイエスと直接に出会って、すべての人が人の子であること、イエスが神の子であることを信じることができました。本当は聞いただけで信じられれば良いのですが、しかし人間というものは弱いものです。良い噂というものは信じにくく、悪い噂ほど早く広まり信じられる傾向があります。わたしたちは偏見を持ちやすい罪人です。常に出会いが必要です。

橋下徹大阪市長も、実際に「慰安婦」とされた人に出会えばすぐに分かります。わたしもソウルで一回だけ「水曜デモ」に参加し、元「慰安婦」の女性に会いました。その人の前で、彼のような発言ができるでしょうか。または沖縄の米兵による性暴力被害に遭った女性の前で、彼のような発言ができるでしょうか。偏見・差別というものは具体的な出会いによって打ち砕かれるものです。

韓国に修学旅行に行った人たちは、韓国の人たちが同じ人の子であることをすぐに分かったと思います。だから偏見を持たなくなり、だからこそあらゆる偏見を批判する論理の足がかりを得るのです。

ここで重要なのは具体的な出会いを論理にまで高めていくことです。そうでなければ「偏見・差別を容認する出会い」に打ち勝てなくなります。また相手の論の飛躍を見抜けなくなります。論理とは、①「すべての人は大切にされるべき」→ ②「韓国人/女性も人である」→ ③「だから韓国人/女性も大切にされるべき」、簡単な三段論法です。偏見によって、わたしたちは①を持ちにくい体質を持っています。そこで具体的に他者に出会うことによって、わたしたちは②を実感すべきなのです。②によって偏見を克服し、①を肯定し(=見ないで信じる)、③へと向かうことができるようになります。フィリポに導かれてナタナエルが経験したことも、②→①→③の流れです。

すると何が起こるのでしょうか。あらゆる人権侵害について反射神経が良くなります。偏見を克服する出会いと論理は、すべての人と友人になるための道具です。すべての人と、敵ではない関係を保つ知恵を得ます。お互いを貶めないで共に生きることができるようになるのです。

51節に「あなたがたは見ることになる」と未来で書かれているとおり、現在の現実の世界では天と地はつながっていません。天の神の御心は地では行われていません。人の子扱いされていない人々が大勢います。神の子として尊重されていない人々がたくさんいます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と偏見にさらされている人がいます。このような世にあってキリスト教会の使命は大きいのです。

見ないで信じ合う「信」の共同体をつくりましょう。そのために小さくされている人との出会いを経験し・良い出会いを紹介し、その出会いを論理にまで高め合いましょう。そして自分を自由にし、隣人をつなぎ合わせる聖霊を受けて、横暴な人々の非寛容な言動に「否」を言い、寛容な世界をつくり出す一人となりましょう。教会をそのような場とし、人々を招き入れ、世界がそのような場となるように、人々を派遣していきましょう。