ナザレ人の分派 使徒行録24章1-9節 2024年2月25日礼拝説教

今年の復活祭Easterは3月31日です。教会の暦では、すでに受難節/四旬節Lent(イースター前の40日。ただし日曜日を除いて計算)に入っています。本日の箇所も、ナザレのイエスの受難、つまり主が十字架刑死という苦難を受けたということとの重なり合いを重視して読み解いてまいります。「ナザレ人たちの分派の首領である」(5節)パウロに対する裁判は、ナザレのイエスに対する裁判と響き合っています。なお、今までの説教中しばしばキリスト教のことを「ユダヤ教ナザレ派」と呼び変えていたのは、この5節に根拠があります。

1 さて五日の後、大祭司アナニアは何人かの長老たちと、とある代弁者テルティロと共に下った。その彼らは総督にパウロに反対する弁論をした。 

 千人隊長リシアの命令によって、ローマ軍は夜陰に乗じて一日でパウロをエルサレムから100Km先のカイサリアまで護送しました。海抜800mのエルサレムから、一気に海抜0mの港湾都市カイサリアまでを駆け下りたのです。大祭司アナニアは、リシアからパウロの裁判管轄はカイサリアの総督フェリクスにあることを伝えられています(23章30節)。アナニアと長老たちは、パウロを暗殺する陰謀を後押ししていました(同14節以下)。リシアによってパウロ暗殺計画が失敗したことを知り、アナニアは「何人かの長老たちと」カイサリアまで赴き、パウロを告発します。「五日の後」は、陰謀失敗を知った時にすぐさまカイサリア行きを決めたことを示しています。彼は、他の仕事を放っておいてでもパウロを殺したかったのです。何としてでも相手を殺す意思が、イエスの裁判とパウロの裁判の原告に共通しています。どちらもサドカイ派の大祭司、最高法院議長です。

 アナニアはローマ流の裁判のために「代弁者テルティロ」という人物を同行させています。ここにしか登場しないのでどのような人なのかはよく分かりません。名前がラテン語由来なので、ラテン語にもギリシャ語にも通じた人だったのでしょう。9節にテルティロの発言の後「ユダヤ人たちも…加勢した」とあるので、彼自身は非ユダヤ人だったのかもしれません。はっきり分かっているのは、ギリシャ語やラテン語があまり得意ではない大祭司アナニアの意図と目標(パウロに対する死刑判決の獲得)をよく知っていて、その意図をローマ総督指揮下の裁判で発揮できる人物だったということです。「弁護士」(新共同訳)と「通訳」(田川訳)の間ぐらいの存在でしょうか。大谷翔平に対する水原一平の存在に近いでしょうか。

2 さて彼が召喚された後、テルティロは告発し始めた。曰く、「あなたによって多くの平和を獲得しているので、またあなたの先見によってその民族に諸法改正が起こっているので、 3 あらゆる仕方でまたあらゆる場所で、私たちは歓迎している。フェリクス閣下、全ての感謝と共に。 4 さてこれ以上あなたを煩わさないように、私はあなたが私たちの手短に(言うことを)あなたの(もつ)寛容でもって聞くことを勧める。 

 ローマ総督フェリクスは、原告である大祭司アナニアの到着を待っていました(23章35節)。フェリクスは被告である「」パウロを召喚します(2節)。こうして裁判官フェリクス、原告アナニア、被告パウロという三者がそろって、ローマ流の裁判が始まります。パウロがローマ市民であるからです。「弁論」(1節)、「召喚」「告発」(2節)は裁判用語。そして、A【聞き手への賛辞(2-4節)】→B【事案の陳述(5節)】→C【確証(6節)】→D【結語(8節)】という手順で進む弁論の内容は、ローマの裁判の様子をかなり正確になぞっていることが、聖書以外の文献からも裏付けられています。それは、ナザレ人イエスをローマ総督ピラトが裁いた裁判と大きく異なる点です(ルカ23章)。イエスがローマ市民ではなかったからです。

 フェリクスはユダヤ人たちから嫌われる過酷な統治をしたと言われます。だから2-3節の「多くの平和を獲得」「諸法改正が起こっている」「私たちは歓迎している」といった事態が、事実だったのかは疑われています。しかし、A【聞き手への賛辞】は手続きに必要な言葉だったというだけで、事実その通りであったかどうかを詮索しても意味はないでしょう。代弁者テルティロが、この手続きに慣れているということが重要な点です。手続きが適正でないならば、その時点でフェリクスは原告にふさわしくないという理由で訴えを却下するであろうからです。いわゆる門前払い判決にならないために、冗長な社交辞令の美辞麗句が必要だったのです。

5 というのもこの男が、疫病であるということを、また世界中のユダヤ人全てにとって立場を揺さぶり続ける者であるということを、さらにナザレ人たちの分派の首領であるということを確認したので 6 ――その男性は神殿をも踏みにじろうした、その男性をわたしたちも捕まえた――、 

 テルティロを通して大祭司アナニアが原告側弁論で最も主張したいことは、5-6節にあります。B【事案の陳述(5節)】と、C【確証(6節)】の部分が中核です。アナニアは、パウロを「疫病」(5節)と認識しています。この強い非難の言葉は、パンデミックに苦しむ現代にも多くの示唆を与えています。「疫病」は比喩に留まらず「感染症罹患者/他人に感染させる人」も意味しえます。このような人物は社会の外に当然追放されるべきだという主張を、アナニアは持っています。当時の人々にとって自然な考え方だったのでしょう。

 ところでナザレのイエスはどうだったのでしょうか。あえてイエスはハンセン病の人に触ることで、感染される危険を冒しながら罹患者を癒し、罹患者への共感を示して罹患者に対する差別に抵抗し、追放型社会を包含型社会へと革めていったのでした。「ユダヤ人全てにとって立場を揺さぶり続ける者」とは、当時の常識を揺るがせた「ナザレ人」イエスに良くあてはまる評価です。イエスは、サドカイ派もファリサイ派も、ヘロデ党も熱心党も、エッセネ派も、およそユダヤ人社会の分派全ての立場を揺さぶり続ける人物でした。ここでイエスとパウロは共通した評価を与えられています。

 さて新型コロナウイルス感染症において、罹患者が増えないようにする措置や、医療従事者が罹患しないようにする措置は重要です。ただしかし、罹患者があたかも疫病そのものであるかのような蔑視は避けなければなりません。感染症に対するイエスの態度、そしてイエスとパウロの苦難から学ぶことです。

ナザレ人たちの分派の首領」(5節)には二重の意味が込められています。一つは、「パウロが全キリスト教会(=ナザレ人たちの分派)の指導者である」という意味です。大げさに表現することでパウロを殺す可能性を高めようというアナニアの意図を汲む解釈です。もう一つは、「パウロがキリスト教会(=ナザレ人たち)の中の国際派(=分派)の指導者である」という意味です。アラム語を話し神殿にお参りもし続けるエルサレム教会に対しては、大祭司アナニアは何の弾圧もしていません。ナザレ派の中にも、弾圧する必要のないグループもいるということを、アナニアは意識しているという解釈です。

6節「その男性は神殿をも踏みにじろうした、その男性をわたしたちも捕まえた」という【確証】部分を考えると、アナニアの真意は「ナザレ派の中の危険分子(神殿と選民思想を揺るがせにする人々)の排除」にあったと思います。この点で、イエスとステファノ(6-7章)が、一直線に並びます。イエスの処刑理由は神殿に対する冒涜でした。大祭司に殺されかけたフィリポやパウロはその延長線上の人です。また同時にこの点で、エルサレム教会の最高指導者であるイエスの実弟「ヤコブ」(21章18節)が、大祭司に殺されなかった理由があぶり出されます。ヤコブが神殿と選民思想を温存していたからです。ペトロやゼベダイの子ヤコブ(12章で処刑される)・ヨハネ兄弟といった三人の高弟は、両者の間ぐらいの立ち位置なのでしょう。

このように考えると、本日の箇所はユダヤ人民族主義を批判しています。その射程は現代のパレスチナ問題にまで及びます。エルサレム神殿が宗教的に聖なる場所であることを信じる信仰や、ユダヤ人が神から選ばれた特別な民であると信じる信仰は、現代イスラエル国家のパレスチナ人に対する虐殺を正当化しません。なぜならば、イエスもまたパウロも、そのような偏狭な思想によって虐殺されたからです。受難節にあってわたしたちキリスト者は、苦しむ者と共に苦しむ霊性を養いたいと願います。

8 その男性からあなた自身がこれら全てのことについて尋問するならば、私たち、私たちこそが彼を告発していることの(理由を)認識することができるだろう。」 9 さてユダヤ人たちも、「諸事実はその通りである」と述べながら加勢した。

 D【結語(8節)】は、総督自身の尋問に期待する言葉です。ところで、新共同訳聖書の使徒言行録末尾に、6節後半・7節・8節前半のある、別の写本の本文が載っています。それによると、8節「その男性から」は、「千人隊長リシアから」となります。節番号を振った時には別の写本が「正統」的だったので7節の欠番という現象が起こります。パウロに弁論を許さないという、大祭司の悪意がうかがえる、面白い異読です。

 テルティロの弁論の直後に、「ユダヤ人たち」(9節)、すなわち大祭司アナニアと何人かの長老たちも、加勢します。事実その通りであると言い立てるのです。アラム語か片言のギリシャ語で述べられる言葉を、さらにテルティロがフェリクス総督のためにギリシャ語/ラテン語に通訳をしたのでしょう。本題とはずれますが、政治的弱者や言語的少数者のためには、裁判における通訳の保障は非常に重要です。冤罪が起こりやすいからです。現代日本においては難民にも、また日本手話を第一言語とする人にも、必要な人権保障です。原告か被告かを問わず、何人も正当な裁判を受ける権利があります。

 ローマ総督ピラトはおそらくギリシャ語のみで被告イエスを裁きました。アラム語を話すイエスにとってギリシャ語は第二言語です。この点でパウロの裁判と異なります。原告・被告の優劣が言語的にねじれます。イエスはガリラヤ地方のナザレ人であり、離散ユダヤ人でもローマ市民でもありません。政治的にも言語的にも苦しい立場に立たされながら、イエスは冤罪で殺されていったのです。この義人の血が、全ての人の立ち位置を揺さぶり続けています。

 今日の小さな生き方の提案は、ナザレ人イエスの十字架に思いをいたすことです。滅茶苦茶な裁判手続きにより第二言語で死刑判決を受け、「私の神が、どうして私を棄てたのか」という叫びを第一言語で叫んで殺された方が、私たちの救い主であるという信仰を受け取ることです。私たちの日常には不条理な苦難が転がっています。私たちは八方ふさがりであり、誰かや何かに腰を屈まさせられています。誰もそばにいないという孤独にさいなまれています。立ち上がれず、呻きあえいでいます。しかし十字架のイエスだけは必ずあなたの苦難の現場にいます。神への冒涜すら、共に叫んでくれます。インマヌエル、ナザレ人イエスの名前を通して祈り叫びましょう。そうすれば軽くなります。