パウロと千人隊長 使徒行録22章17-29節 2023年11月5日礼拝説教

17 さて以下のことはエルサレムの中へと戻った私のために起こった。すなわち、私がその神殿の中で祈っている時に、私が恍惚の中に成るということが(起こった)。 18 そして、「あなたは急げ。そしてあなたはすぐにエルサレムから出て行け。なぜなら彼らは私についてのあなたの証言を受け入れないであろうから」と私のために言い続けている彼を見るということが(起こった)。 19 そして私、私も言った。「主よ。彼ら、彼らこそ、あなたについて信じている人々を会堂ごとに私が投獄し続けまた鞭打ち続けていたということを、知悉しています。 20 そしてあなたの証人ステファノの血を彼らが流し続けた時に、私もまた側に立ち続け、また同意し続け、彼を殺しつつある者たちの上着を見張り続けていました。」 21 そして彼は私に向かって言った。「あなたは行け。なぜならば私、私が遠く諸民族の中へとあなたを送り出すであろうからだ。」

 1節から始まった長いパウロの演説は21節で終わります。16節はパウロがアナニアによってバプテスマを施されたところまでの振り返りでした。それに続く17-21節で、パウロはキリスト信徒になった後にエルサレムに行ったこと、エルサレム神殿の中でイエスに会ったことを思い出しています。この振り返りは使徒言行録9章26-30節の出来事のことを指しているのでしょう。ただし、エルサレム神殿でイエスに出会ったということは、9章では報じられていません。一人称で語られるパウロの振り返りにおいて、省くことができない出会いだったのだと思います。

一つの理由は、この場面、つまりパウロを殺そうとしている正統派ユダヤ教徒たちの前で語る場面で、彼らに伝えたい出来事だったということです。正統派ユダヤ教徒たちが神聖な場所としている神殿を、ナザレ派も尊重しているという弁明のために、自分も神殿の中で祈るし、イエスもまた幻の中ではあれ神殿の中に入ることができるという趣旨の弁明です。敵ではないという自己紹介は大切なことです。パウロは今回の私刑騒ぎも、「何かの誤解ではありませんか」と言いたいがために、エルサレム神殿での出会いを振り返ります。

もう一つの理由は、パウロはナザレ派になった時から今に至るまで正統派ユダヤ教徒たちにこそエルサレムで伝道したいという熱意を持っていることを、正統派ユダヤ教徒たちに伝えたかったからというものです。そのパウロの志はイエスの言葉によって修正させられたのだと言っています(18・21節)。「諸民族へと遣わす方に、エルサレム神殿で出会ったので自分はエルサレムから出て行って、アンティオキア住民にも、キプロス島住民にも、小アジア半島住民にも、ギリシャ半島住民にも、イエスが主であるという福音を伝えた。しかし、できればエルサレムで福音を伝えたかった。なぜなら、エルサレムのユダヤ教徒たちこそが、自分が正統派の一員としてナザレ派を迫害していたことをよく知っているからだ(19-20節)。その自分がナザレ派へと転向したという劇的回心を、このエルサレムでこそ伝え、イエスの恵みを伝え、後に続く人を掘り起こしたいと今でも思っているのだ。」

良い度胸です。信仰のゆえに殺そうとしている者たちを、その信仰へと改宗させようというのですから。横道ではありますが、このパウロの発言から、彼が諸民族の地域に建てられたユダヤ教正統の会堂にまず入って行って論争をしかけるという伝道方策の動機が分かります。「非ユダヤ人の使徒」は、実はユダヤ人への伝道に対する執着が最も強い人物でもあります。相反する執着の同居という不思議な事実は彼の手紙(特にローマ書)にも表れています。

22 さて彼らはこの言葉まで彼の(ことを)聞き続けていた。そして彼らは彼らの声を上げた。曰く「あなたは除け。その地から、このような者を。なぜなら彼が生きていることが適正でないままだったのだから。」 23 それから彼らが絶叫し続け、そして上着を投げ捨て続け、そして塵を空中の中へと投げ続けたので、 24 その千人隊長は軍営の中へと彼が連れ込まれるようにと命じた。このように彼らが何によって彼に叫び立て続けているかの理由を彼が認識するために、彼が鞭打ちで拷問されるようにと言って。 

 パウロの熱意は、かえって聴衆たちを苛立たせ激怒へと導きました。激怒した人々は、かなり正確にパウロの言いたいことを理解したのでしょう。「異端のくせに、正統を異端へと改宗させようとは。」この期に及んで自分たちを改宗しようとするパウロという人物に対して、怒りが増大しています。21章36節の時点では「あなたは彼を除け」でしたが、22章22節では「あなたは除け。その地から、このような者を。なぜなら彼が生きていることが適正でないままだったのだから。」と長くなり、内容にも憎悪が増し加わっていることが伺えます。人権という考え方が無い古代の世界とは言え、「生きていることが適正でないままだった(未完了過去)」は言い過ぎです。この発言によって、パウロの存在を消しているのですから。

 16-17世紀のヨーロッパで、アナバプテストやバプテストがカトリックにもプロテスタントにも「異端」とされ迫害された理由がうかがい知れる記事です。自覚的信仰告白と、回心を象徴する全身浸礼が、全ての人に必要なのではという主張は、他の教派には「改宗の強要」と捉えられ、それゆえに「異端」とされた面がありましょう。そして「異端のくせに生意気な」という憎悪の悪循環があったことと推測します。キリスト教系新宗教である旧統一協会へ宗教法人としての解散を請求したいという国策に対しても、私たちの「正統意識(「異端」への嫌悪)」が影響してはいけないと思います。法人が解散されても信仰の自由は残ります。むしろ女性差別的政策を牽引する宗教団体と政権との長期の癒着(政教分離原則より)と、任意の尻尾切りこそが問題です。

 パウロの演説と、群衆たちの絶叫はすべてアラム語でなされていますから、ローマ占領軍の千人隊長には内容が分かりません。その一方で、パウロがギリシャ語を話すタルソス人であることを彼は知っています(21章39節)。そこで、共通の言語を用いてパウロから、「なぜあなたは彼らを苛立たせているのか。何が彼らの憎悪の対象なのか」理由を認識するために、調べることにしました。尋問の手段は拷問です(24節)。実に野蛮な方法であり警察行政に対して日本国憲法が絶対的に禁じているものです(憲法36条)。明治憲法下での特高警察による思想弾圧と拷問に対する反省から盛り込まれた条文です。

25 さて彼らが革紐を彼の前に伸ばした時、パウロは立ち尽くす百人隊長に向かって言った。「人間を、ローマ人を、そして有罪とされていない者を、鞭打つことはあなたたちにとって適法であるかどうか。」 26 さてその百人隊長は聞いた後、その千人隊長に向かって行った後、彼は報告した。曰く、「あなたは何をしようとしているか。というのもこの人間はローマ人であるからだ。」 27 さて向かって来た後、その千人隊長は彼に言った。「あなたは私に言え。あなたはローマ人であるのか。」さて彼は言い続けた。「そうだ」。 28 さてその千人隊長は答えた。「私、私は多くの資本金によってこの市民権を入手した。」さてパウロは言い続けた。「さて私、私(はローマ人として)も生まれた。」 29 そういうわけですぐに彼を拷問しようとしている者たちは彼から離れた。他方、その千人隊長も恐れた、彼がローマ人であるということ、また彼が彼を縛ってしまったということを認識したので。

 以前にも紹介した通りローマ人はポルキウス法という法律で、鞭打たれない権利を保障されていました。「ポルキウス法は見るところ、市民の背を保護するために制定され、ローマ市民を鞭打ったり、あるいは殺害した者は誰であれ重刑に処せられることを規定した唯一の立法である」(リヴィウス)。フィリピの牢獄では鞭打たれた後に、パウロは行政官の違法な処分を咎めました。今回は鞭打たれる前に差し止めます。

 現代の眼から見れば、ポルキウス法は日本国憲法のように、ローマ人だけではなくすべての人間の生命・身体についての保障となるべきでしょう。あえて「人間を、ローマ人を」と私訳した理由です。刑罰としての鞭打ちが認められるとしても、公開の裁判による判決が先に必要です。そして「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」(憲法32条)のです。千人隊長がややお茶目な形で白状している通り、ローマにおいてはこの権利は金持ちが金で購入する特権の類のものであって(28節)、すべての住民に保障される権利ではありません。パウロのマウントをとる発言(28節)に垣間見える特権意識は批判されるべきでもありましょう。

 ただしかし人権保障において不十分な法体系の下、また占領軍統治下という不利な条件に置かれているので、パウロに同情もします。この時パウロは必死に自分の持っている権利を主張せずにはいられません。二回も使われている「言い続けた」(27・28節)に、彼の必死さが表れています。「自分はローマ人であるので、裁判を受ける権利があり、鞭打たれない権利がある。適法な処分を求める」と言い募りました。フィリピの時より必死です。孤独や加齢のせいでしょうか。権利とは主張しなければ勝ち取れないからです。

 「適法であるかどうか」(25節)は、ローマ人にとっては心に刺さる言い方です。法律による公正な社会実現に価値を置いているからです。真理とは何かを法によって認識することはローマ社会の美徳です。パウロはローマ人の前でローマ人のようになっています。彼はユダヤ人でもあり、タルソス人でもあり、またローマ人でもあるのです(28節)。おそらくは両親の代か、祖父母の代のローマ軍への功績が認められて(軍用テント作りでしょうか)、パウロは生まれた時にローマ人でもありその効果はこの時点でも有効だったのです(完了形)。千人隊長も百人隊長も兵卒も全員ポルキウス法を知っています。ローマ人を鞭打てば自分たちが重刑で罰せられます。法律は人の感情にも作用します。百人隊長はためらって決裁を上長(千人隊長)に仰ぎ、兵卒はパウロから離れて誤解を招く行動を避け、千人隊長は自らの違法性を帯びた処分を認識し恐怖します。法律がパウロの生命と身体を守ったのです。パウロは法律を用いて自分のされたくないことを食い止め、自分のしたいことを行いました。

 今日の小さな生き方の提案は、やせ我慢を止めて、自分の生命を大切に過ごすことです。イエスは神殿でパウロの生命の危機を案じてエルサレムを出よと命じます。「ユダヤ人の改宗というこだわりによって死ぬな」と。確かにパウロはこれまでの物語の中でも生命の危機を逃げて回避しています。「あなたを諸民族に遣わすから」などというきれいな理由はイエスが後でつけてくれるものです。非ユダヤ人の使徒パウロは、法律を用いて生命・身体を守ります。「正直痛そうだから、今回は鞭打たれたくない」と。たとえ全世界を得ても自分の生命を失ったら意味はありません。法律であれ制度であれ、使えるものは何でも使って、私たちは「やせ我慢の文化」から脱出するべきです。神は誰の死をも喜ばれません。すべての人間が神の似姿であり、すべての人間・生命を神がおつくりになったからです。「やせ我慢」から「我儘」へ。生きてて良かったと言える、自分自身を取り戻す時と場を日常生活で削り出しましょう。