パウロの弁明 使徒行録24章10-21節 2024年3月10日礼拝説教

10 それから、総督が彼に頷いた後に、パウロは答えた。曰く「多くの年々以来、その民族のためにあなたが裁判官であり続けているということについて知っているので、喜んで私自身についての事々をわたしは弁明する。 11 わたしがエルサレムの中へと礼拝するために上ってから12日以上わたしにはないのだということを、あなたは認識することが可能であり続けるので、 12 またその神殿においても、その諸会堂においても、その町のもとでも、誰かに対して論難しているわたしを、あるいは群衆の殺到を作る(わたしを)彼らが見つけたわけでもなく、 13 彼らが今私を告発していることについても、彼らはあなたに立証することもできない。

 カイサリアに常駐するローマ総督フェリクスを裁判官とする裁判の続きです。原告(訴える側である)大祭司の告発は終わりました(2-9節)。10節から被告(訴えられている側)パウロの弁明が始まり、21節まで続きます。裁判ですから争いのあるところが大切です。両者の主張のぶつかるところが何か、そしてどちらが説得的か、それが裁判官の心証や判決に影響を与えます。

 原告の主張は、パウロが①「世界中のユダヤ人全てにとって立場を揺さぶり続ける者」であるということ、②「ナザレ人たちの分派の首領」であるということ、③「神殿をも踏みにじろうとした」ことの3点です(5-6節)。そして大祭司たちは8節で次のように言っています。「その男性からあなた自身がこれら全てのことについて尋問するならば、私たち、私たちこそが彼を告発していることの(理由を)認識することができるだろう。」彼らは、もっぱら自白のみに頼る証拠調べをフェリクス総督に丸投げしています。

 被告パウロは原告の主張の論拠の弱いところを衝いていきます。①「世界中のユダヤ人全てにとって立場を揺さぶり続ける者」であると主張するためには、エルサレムでもパウロがさまざまな場面でユダヤ人の立場を揺さぶる活動をしていたことを論証しなくてはなりません。しかし、パウロのエルサレム行きの理由は「礼拝するため」(11節)です。おそらくペンテコステをエルサレムで祝うためです(20章16節)。突然の逮捕もあり、滞在期間は12日以内という短いものとなりました。その短い期間で、全ユダヤ人たちの立場を揺さぶる活動がなされたのでしょうか。サドカイ派、ファリサイ派(ヒレル派やシャンマイ派が内部にあった)、ゼロタイ派(「熱心党」)、エッセネ派(バプテスマのヨハネの教団もその亜流)など、全ての立場を揺さぶる活動はとてもできないでしょう。

仮にパウロがそのような揺さぶる活動をできたとしても、それを立証するためには証拠文書や目撃証人が必要です。「その神殿においても、その諸会堂においても、その町のもとでも、誰かに対して論難しているわたしを、あるいは群衆の殺到を作る(わたしを)彼らが見つけたわけでもなく」(12節)とあるように、誰も見ていません。特にパウロが「神殿においても」何もしていない、またはパウロが通常の神殿参拝だけをしているのならば、③「神殿をも踏みにじろうとした」という主張は成立しません。「彼らが今私を告発していることについても、彼らはあなたに立証することもできない」(13節)。原告側に被告パウロの違法行為を立証する責任があるのにもかかわらず、総督に丸投げして大祭司たちは目撃証人も立てていません。そういうわけで大祭司たちの訴えには、理由がないように見えます。 

14 さてわたしはあなたにこのことを告白する。すなわち、彼らが分派と言っている道に従って、そのようにわたしは父祖の神に礼拝をしている。律法に従った、また預言者たちにおいて書かれた全ての事々を信じながら、 15 彼ら自身も待っている神への希望を持ちながら、正しい者たちにも正しくない者たちにもあろうとしている復活(という希望)を(持ちながら)。 16 この点においてわたし自身も咎められない良識を神と人間たちに向かって全てを通して持つように鍛えている。 

 次にパウロは、原告側の訴えのうち「争わない部分」を「告白」(14節)します。裁判の場面では「自白」と訳した方が良いでしょうけれども、教会では信仰告白をするという場面で使う単語です。「同じことを言う」という原意です。教会では最低限共通の信仰の内容を、「同じことを言う」行為として重視しています。たとえば「イエスは主」「イエス・キリスト、神の子、救い主」などの言葉です。

パウロは自白の体裁を採って、②「ナザレ人たちの分派の首領」であることを一部認めながら、自分自身の信仰の告白をします。つまり、パウロは「彼らが分派と言っている道に従って」(14節)いるナザレ派の一員であるということを認めています。そしてナザレ派の信仰に基づく宗教行為は、ユダヤ人を救い出した神を礼拝することです(「父祖の神に礼拝をする」)。さらに、「律法」と「預言者たち」(≒当時の旧約聖書)に書かれた内容が、時空を超えてあてはまるということを信じることです。最後に「正しい者たちにも正しくない者たち」にも復活があるという希望を持つことです(15節)。

わたしたちバプテストのキリスト者が信仰告白をする場面はバプテスマの時です。自分の言葉で自覚的に作成することを重んじています。その一方で泉バプテスト教会の信仰告白というものもあります。さらに日本バプテスト連盟の信仰宣言というものもあります。バプテストの場合は、個人の信仰告白が最上位にあり、次いで教会の信仰告白、最後に連盟の信仰宣言があります。だから連盟や教会の信仰告白はなるべく緩やかな内容が望ましいのです。そして個人の信仰告白はすべての要素を「信条」のように網羅している必要はありません。人には力点があります。どれか一つでも重なっていれば良いぐらいの大らかさで教会は個人の信仰告白を尊重すべきです。

パウロは正典である旧約聖書を信じています。イスラエルの神を、イエス・キリストと同一視して信じ礼拝しています。そして世界の終わりに、全ての人がよみがえるということを信じています。神の言葉・神の救いの歴史・歴史を完成させる神、これが信仰告白の内容です。ここには天地創造の神も、イエス・キリストの十字架の贖罪も、聖霊による教会形成も語られていません。網羅していなくても良いのです。

そしてパウロは自分の信仰は、ナザレ派だけではなく多くのユダヤ人たちと同じ信仰なのだと言います。サドカイ派は復活も終末も否定しますが、ファリサイ派等はそれらを信じているからです。「彼ら自身も待っている神への希望」(15節)を自分も持っていると言って、パウロも他人の信仰告白を広く受け入れる構えを持っています。内心の自由を保障する構えが、神にも人にも「咎められない良識」というものでしょう(16節)。

17 さて多くの年を経てわたしの民族への慈善と捧げ物をなすために、わたしは到着した。 18 彼らがわたしを見つけた間に神殿において清められたので、民衆と共にでもなく、騒乱と共にでもない。さてアシアからの何人かのユダヤ人たちは、 19 もし彼らが私に対して何かを持っているのならば、その人たち自身あなたに接して現れまた告発すべきであり続けていた。 20 あるいは彼ら自身が今答弁すべきだ。最高法院に接してわたしが立った時点で、彼らはどのような不正義を見つけたのか。 21 あるいは、わたしが彼らの中で立ちながら、わたしが叫んだ『死者たちの復活について私、私こそはこの日あなたたちに接して裁かれている』という、この一つの声について(答弁すべきだ)。」

 17節でパウロは自分が①揺さぶる活動のために、また、③神殿を冒涜するためにエルサレムに来たのではないことを補強します。「慈善と捧げ物をなすために」、ユダヤ人のみで成るエルサレム教会への献金と、エルサレム神殿への奉献(礼拝行為)のためにパウロは来ました。パウロは旧約聖書の規定通りに誓願のための儀式を神殿で行っています。エルサレム教会のヤコブに勧められ、非ユダヤ人キリスト者を残して一人で神殿に行ったのです(18節。21章23節以下参照)。「民衆と共にでもなく、騒乱と共にでもない」単独の宗教行為です。「アシアからの何人かのユダヤ人たち」が、騒乱を起こし、パウロを私刑にしようとしたのでした(21章27節以下)。

パウロは手続きも問題にします。すなわちパウロを訴えることができる原告は、大祭司たちではなくこの「アシアからの何人かのユダヤ人たち」なのではないかという疑念です(19節)。さらに踏み込んでいえば、パウロではなく彼らこそが被告としてふさわしいのです。騒乱を引き起こしたからです。これは冤罪事件です。

また最高法院が一枚岩ではなく、その時点で議長の大祭司は死刑判決を下すことができなかったこともパウロは指摘しています(23章)。大祭司たちは最高法院の議決/判決を後ろ盾に持っていません。ファリサイ派議員/判事は(全体の3分の1)は、パウロに「不正義を見つけ」ておらず混乱の中で裁判は途中で終わっているからです(20節。23章9節)。「わたしが叫んだ『死者たちの復活について私、私こそはこの日あなたたちに接して裁かれている』という、この一つの声について(答弁すべきだ)」(21節)。この件は解決しているのか。サドカイ派のあなたたちはファリサイ派という相当数の議員の反対を振り切ってまでローマ総督に訴えることができるのか。あの日未解決のままにした「この一つの声について」、今どのように考えるのか。

 原告被告の口頭弁論を通じて解明できたことは、パウロがナザレ派の一人(キリスト者)であるということだけです。ここにだけ両者に争いが無いからです。その他の訴えについては証拠が不十分です。パウロはナザレ派の首領なのか、彼がエルサレムに来た理由、彼は神殿で何をしていたのか、双方の主張が対立しどちらも決め手を欠いています。そのようなグレーゾーンならば有罪としないということが良識にかないます。

また最高法院席上の様子を告げるパウロの証言は(21節)、パウロの信仰告白とあいまって(15節)、両者の争いが宗教上の教理をめぐるものであって、ローマ市民を裁く裁判になじまないことをフェリクス総督に強く印象付けています。死者たちの復活に対する希望をめぐってユダヤ人たちの中に争いがあるからといって、ローマ市民パウロを処刑できるのでしょうか。

 今日の小さな生き方の提案は、他人と共通するところを探すことです。一つでも似ていれば仲間と考えるという構えを持つことです。一つでも異なるから排除するという構えの裏返しです。ナザレ派も、バプテストも、正統から見て「異端」のレッテルを張られた群れです。固定化された「信条」の枠組みからずれることがあるからです。大きく構えて、同じキリスト教、共通部分をもつ正典宗教、同じような敬虔、同じ人間の集まりです。同じ職場、学校、地域の人です。近視眼的に自分の「べき」を押し付けずに、隣人のありようを遠目にそのまま認める寛容をもち、「良識」を鍛えていきたいと願います。