ファラオの夢 創世記41章15-24節 2020年1月19日礼拝説教

15 そしてファラオはヨセフに向かって言った。「私は夢を見た。そしてそれを解釈する者がいない。そして私自身があなたについて聞いた。曰く、あなたはそれを解釈するために夢を聞く、と」。 16 そしてヨセフはファラオに答えた。曰く、「私無しに、神はファラオの平和を答える。」 

 「夢解釈者」という行政官として任用され、その髪型・服装に整えられたヘブライ人奴隷ヨセフが、とうとうファラオの前に立ちます。この場面は、出エジプト記のモーセ・アロン兄弟がファラオと相対して、行政交渉をした場面を思い起こさせます。創世記ではファラオがヘブライ人を呼び、出エジプト記ではヘブライ人が面談を申し込んでいますが、ファラオがヘブライ人奴隷と直接対話をするという点で共通しています。つまりエジプト国家とヘブライ人は関係が深いのです。エジプトはヘブライ人を利用も迫害もします。その状況の中でしたたかに生き抜くことや、その状況から脱出することが、「救い」です。

 このような状況は、日本という国家の中で生きるキリスト者と似ています。宗教的少数者であるからです。おいそれと国外移住ができないほとんどの人は、しぶとくしたたかに生き抜くしかありません。ヨセフはその一例です。国家が自分を必要としているという場面で、最大限に国家に仕える。それによって新しい状況を引き起こすのです。ヨセフの人生を賭けた大博打が始まります。

 ファラオは、献酌官たちの長がヨセフを推薦したことを述べます。「私自身が聞いた」と強調しているのは、献酌官たちの長が自分の身に起こったことをファラオに直接言っているということです。誰かからの又聞きや噂のレベルではなく、最側近からの直接の情報です。かつてポティファル家の筆頭執事であったヘブライ人の若者が、今は「王の囚人」とされてはいるけれども、夢解釈に長けているというのです。

 ファラオの言葉から推測すると、献酌官たちの長は「それを解釈するために夢を聞く」人物と、ヨセフをみなしています。面白い人物評です。ヨセフという人は、他人の夢を聞こうとする時点で解釈をする気満々だというのです。解釈をするために他人の夢を聞く人物だからです。解釈は、神に属します(40章8節)。預言者が解釈した通りに、神が歴史を導きます。だから預言者には歴史を見渡す透明な目と分析力が必要です。それと同時に預言者には、愛と正義を歴史に実現しようとする神の情熱に共感する熱い心が必要となります。並外れた理性と、並外れた熱意。それが召された者が身にまとう独特の雰囲気です。エジプト人から見ると「やる気満々」に見えるのです。

 ヨセフは自分に対する人物評を補正します。彼は、歴史を導く神と預言者である自分との関係を補足説明しています。「私無しに、神はファラオの平和(シャローム)を答える」。ギリシャ語訳・サマリア五書・死海写本の一部(4QGenj)は、「神無しに、私はファラオの平和を答えることができない」です。同じ内容を裏側から言っています。神は預言者に操られる方ではありません。預言者による解釈もまた、その根源は神からの霊感によって与えられているのですし、預言者がいなくても神はファラオに分かる仕方で平和を与えることができます。神は石ころからでも預言者アブラハムを生じさせることができる方です。

 以上の大原則を述べながらも、ヨセフは最初の言葉で、自分の解釈の方向を指し示しています。ファラオの質問に対する回答である預言は始まっているのです。すなわち、「ファラオの平和」という福音は必ず神(預言者)から回答(答申)されることを、ヨセフは決めて公表しています。結論の先取りです。ここには自分自身の解放を心から願うヨセフの気持ちも加わっています。正義の神は冤罪を晴らすはず。愛の神は不条理の苦しみを負う義人を必ず救い出すはずという信仰的な価値判断も、後押ししています。

ファラオに福音を告げなければ、再び「王の囚人」に逆戻りさせられる危機感がヨセフにはあります。権力者は自分にとって不吉な言葉を聞いた時に、不機嫌になり突然に死刑を命ずることさえあります。来週取り上げるヨセフの言葉は、夢の解釈である災害の予告だけではなく、災害後の政策提案も含まれています。先に結論を言っているから、「ファラオの平和」をヨセフは語らなくてはならなかったのです。 

17そしてファラオはヨセフに語った。「私の夢の中で、見よ私は、かの運河の岸に接して立ち尽くしている。 18 そして見よ、かの運河から七頭の雌牛たちが上っている、肉の肥えて姿の美しいのが。そして彼女たちは草むらで草を食べた。 19 そして見よ、別の七頭の雌牛たちが彼女たちの後に上っている、弱くて姿の非常に貧弱かつ悪く、肉の貧弱なのが。私は見なかった、彼女たちのような悪に属するものをエジプトの地の全てで。 20 そして貧弱で悪い雌牛たちが、最初の太った雌牛たちを食べ、 21 彼女たちは彼女たちの内部に向かって入った。彼女たちが彼女たちの内部に向かって入ったということは知られなかった。そして、それらの外見は初めの時点と同様に悪い。そして私は目覚めた。 

福音が告げられることを予告されたファラオは安心して、ヨセフに自分の夢を説明します。その描写はかなり正確です。一言一句間違えないように伝えようとしていることが分かります。しかし、19節や21節に、ファラオの意見が付け加わっています。今日は、先週物語られた夢と異なる部分に注目します。ファラオによって語り直され言い換えられた部分に、ファラオによる「夢解釈」が垣間見えるからです。ファラオもまた漫然と過ごしていたのではなく、自分に起こることやエジプト国家に起こることを積極的に知ろうとして探る努力をしています。

19節「私は見なかった、彼女たちのような悪に属するものをエジプトの地の全てで。」という部分はファラオの感想です。後から登場した、やせ細った七頭の雌牛たちの姿や本質を、ファラオは「悪」と評価しています。不幸なことが起こることの前触れではないかと、ファラオは夢を理解しつつあります。しかもそれはエジプト全土で起こる、かつて見たことがない惨事かもしれません。エジプト中をくまなく知り統治しているファラオ自身が、「こんな悪をエジプト中で今まで見たことがない」と言っているからです。「悪(ラア)」は、「災い」とも訳せます。解釈したとたんに、夢は出来事となります。ファラオは薄々感づいているのです。それゆえに、その出来事は徐々に起こりつつあります。

21節「内部(ケレブ)」は、内蔵全般を表す言葉です。ヤコブ物語の中では25章22節に用いられています。エサウとヤコブの双子が、リベカの胎内(ケレブ)で争っていたという記事です。ケレブは文脈しだいで色々な内蔵を指します。今日の箇所では消化器官です。「彼女たち(太った雌牛たち)は彼女たち(痩せた雌牛たち)の内部に向かって入った」という言い方は、まるで太った雌牛の方が進んで痩せた雌牛の体内に入っていったかのようです。小さい方の体内に、大きい方が入る不自然さも、「体内」という言葉で強調されています。

しかも、食べたあとも痩せた雌牛の体型は変わらなかったというのです。これは新しい情報です。その驚きを言うために、具体的な「体内」という言葉が用いられているのでしょう。蛇が卵を飲み込んだ時でさえ、蛇の体型は大きく変わります。そのような当然の変化が、この雌牛たちに限って起こらないということが驚きです。

そしてファラオは、再び評価を下します。「それらの外見は初めの時点と同様に悪い」。痩せた雌牛の体型が変わらないということは、悪/災いが残ったということを示しています。そして、太った雌牛が知らないうちに消えたということをも示しています。最終的に良いものは消え、悪いものが残っています。

「太った雌牛が入った」という表現や、「体内」という言葉と「体型の不変化」という情報の付け加えに、ファラオの解釈が含まれています。この出来事は不可避的に必ず起こるのではないか。そしてこの出来事はエジプトに起こる長期間の災害なのではないか。すでにファラオは予感しています。

22 そして私は私の夢の中で見た。そして見よ、満ちて良い一本の茎の中で七本の穂が上っている。 23 そして見よ、東風で焼かれて乾いた貧弱な七本の穂がそれらの後に上っている。 24 そして貧弱な穂が良い七本の穂を飲み込んだ。そして私は魔術師たちに言い、私のために告げる者はいなかった。

 七つの穂の夢には、ほとんど付け加えや修正がありません。ファラオの解釈はもっぱら雌牛たちに集中しています。雌牛の印象が強かったからなのか、麦の穂の夢が短かったからなのか、ファラオでないと分かりません。もしかすると、ファラオは二つの夢が一つのことを指していることに感づいているのかもしれません。この二つは、収穫と庶民の食卓に直結しているからです。雌牛は、牛乳やヨーグルトやチーズなどを産みます。麦はパンやビールを産みます。災害は飢饉ではないか。ファラオは何となく察しています。

 しかし、ファラオから召集された魔術師(夢解釈者)たちは、口を拭って不吉なことを言いません。みな恐らく、ファラオと同様に、この夢は否定的な内容を指し示していると感づいています。ヨセフの夢を聞いた兄弟姉妹も父ヤコブも、夢の指し示していることがらを正しく推測できました。雌牛と麦の穂に何かが起こるのですから、多分飢饉でしょう。

しかし正直にそのようなことを言った後に、一体何が起こるのか。最高権力者であり、神でもあるファラオの逆鱗に触れて、ポティファルに連行されて王の囚人とされ、さらには処刑されてしまうかもしれません。調理官たちの長の処刑を、王宮の者たちはみな記憶しています。さらには実際の災害が起こったときに、「お前のせいだ」と難癖をつけられ、冤罪をかぶせられるかもしれません。勇気ある一言を発する者は誰もいない。誰かが口を開くのをみなが待っている状況です。その言葉に対するファラオの対応しだいで、自分の身の処し方を決めようとしているのでしょう。

 「私のために告げる者はいなかった」というファラオの言葉に、独裁者・現人神の、ある種の悲哀が漂っています。ファラオに対する恐怖が、エジプト国家全体を危機に陥れています。君主政よりも共和政の方が政治制度として優れているのは、明らかです。一人の人の顔色を伺うと、全体にとって良いことが見失われてしまいます。権力は分散されるべきです。個人ファラオのせいというわけではなく、仕組みそのものの粗悪さです。小選挙区制度が一人の人に権力を集中させているのならば、その改善が必要となります。

 今日の小さな生き方の提案は、いったん引き戻せない決断をしたら後ろのことを振り捨てて、自らの決断に責任を負って前にのみ進むということです。ヨセフは「ファラオの平和」という答申を出すことを先に宣言しています。どんな内容の夢でも、福音にしなくてはいけません。その覚悟で、ヨセフはファラオと向き合ったのです。ファラオ・ヨセフ・エジプトを救うことが神の意思であると、ヨセフは確信しています。毎日は小さな決断の積み重ねです。時に結論をあえて先に出して、自らの解釈通りに生きましょう。