マケドニアへ 使徒行録20章1-6節 2023年5月7日礼拝説教

1 さてその騒動が止むことの後にパウロはその弟子たちを招集し、また勧告し、挨拶して、彼はマケドニアの中へと歩くために出て行った。 2 さてこれらの諸地域を通過し、また彼らを多くの理で勧告して、彼はギリシャの中へと来た。 3 それから三か月(何ごとかを)なして、ユダヤ人たちによる彼への悪だくみが起こって、シリアの中へと出航しようとして、マケドニアを通って戻るという考えのものとなった。

 「パウロの第三回伝道旅行」の主要な目的は、「母なる」エルサレム教会(民族派)への募金を、「子なる」非ユダヤ人系教会(国際派)から集めることでした。18章22節でのエルサレム教会への第二回伝道旅行報告と23節での唐突な第三回伝道旅行の開始には、「エルサレム教会からの募金要請」という要素が推測されています。パウロやバルナバ、シラス、テモテといった放浪の伝道者たちが訪問した教会。そのギリシャ語圏教会間ネットワークを用いた募金活動を、ネットワークの真ん中に位置する大都会エフェソに二年以上滞在しながらパウロは行っていました。

 ところが「募金活動に協力したくない」という教会が現れました。ギリシャのアカイア地方にあるコリント教会です。ソステネ(使徒18章17節、一コリ1章1節)からコリント教会の言い分を聞き、パウロはコリント教会に手紙を書きます。そして募金協力を強く要請します(一コリ16章)。「マケドニア地方経由でコリントに行くから共にエルサレムに募金を運ぼう」と呼びかける手紙をソステネに託します。しかしコリント教会の態度はさらに硬くなり、「パウロは使徒面して威張っていてけしからん」「パウロは募金を着服しているのではないか」と批判され疑われるようになります。

そのような矢先にエフェソでのアルテミス騒動が起こります。心の安らぎがない中、そしてコリント教会の態度硬化を知らないまま、パウロは募金活動を完遂すべく、マケドニア地方の諸教会からの募金を集めて、コリント教会・アテネ教会へと向かいます。「歩くために出て行った」(1節)は冗長な表現で、「歩くために」が不要です。ベレア教会・テサロニケ教会・フィリピ教会を一軒一軒丁寧に歩いて訪問することが含まれているのでしょう。これらの「諸地域を通過」することは、「多くの理で勧告」しながらなされています。おそらくは、募金の意義について多くの説明と勧めがなされていたのでしょう。そして教会員たちは熱心に募金を捧げたと思われます(二コリ8章)。

マケドニア地方にいる最中、コリント教会のさらなる反発をパウロは知ります。パウロはどこかの時点でコリントを往復しているようです。そしてもう一つの手紙を書きます。コリントの信徒への手紙二です。複数の手紙の合本とする学説もありますが、ここでは深入りしません。この手紙をテモテに託して先にコリント教会に行ってもらった後で(二コリ1章1節)、「(パウロ)はギリシャの中へと来た」のです(2節)。具体的にはアテネ教会とコリント教会を訪れたということです。主にコリント教会で、パウロは「三か月(何ごとかを)なし」ます。

コリント教会で冬を越す滞在の予定については教会にすでに予告されていました(一コリ16章6節)。ティティオ・ユストの家か、ソステネの家か、フェベの家に泊まらせてもらったのでしょう。その三か月、パウロは何をなしたのでしょうか。大都会にある大きなコリント教会の相対多数の信徒たちとの「和解」のために対話がなされたと思います。そうでなくては募金金額の目標達成が望めないからです。コリントの手紙に「和解」という単語が多く現れるのは(6回中4回)、パウロに同意するコリント教会少数派と反対する多数派の間にある葛藤を背景にしています。

そして三か月間の対話の結果は思わしくなく、「和解」はなしとげられませんでした。パウロはいつものようにユダヤ教正統会堂での論争もしかけたのでしょうか。またもやユダヤ教正統から命を狙われることにもなりました(3節)。まさにそのような強硬な態度がコリント教会多数派から嫌がられたのかもしれません。手紙の中にも、非常に居丈高で、教条主義的で、権威主義的な言葉遣いがパウロには認められます。「和解」の重要性を語る二コリ5章の言い方もその一例です。皮肉なことにその言い方では「和解」は成立しません。

4節以下は、募金活動に協力した教会の代表者たちの一覧ですが、そこにアカイア地方の代表者、コリント教会の代表者はいません。パウロは、空手でギリシャから再びマケドニアに戻らなくてはなりませんでした。戻る理由の一つは目標額の達成です。大口献金を期待したコリント教会の不協力によって達成できなかったので、もう一度マケドニア地方の諸教会に募金を呼び掛けるためでしょう。そしてもう一つの理由は旅費の不足です。

シリアの中へと出航しようとして、マケドニアを通って戻るという考えのものとなった」(3節)。シリア(広い意味でエルサレムもそこにある)へと船で向かうためにマケドニアを通る必要はありません。パウロはエルサレムまでの旅費をコリント教会から「贈り物」としていただく約束をとりつけていたのだと推測できます(二コリ9章5節)。しかし「和解」に失敗したために、この旅費負担の約束も反故にされたのではないでしょうか。マケドニアに戻ることは、四方八方がふさがったゆえのやむをえない判断です。「戻るという考えのものとなった」という珍しい表現に、パウロのやむをやまれぬ心境がにじみ出ています。本来無かった考えに徐々に支配されたという心境です。人生はうまくいかないものです。恥を忍んでマケドニアの諸教会に旅費をも工面してもらう依頼をパウロはします。そしておそらくフィリピ教会のリディアとルカが旅費の世話と船便の調達をしたと思います。

4 さて(以下の)彼らが彼に同行し続けた。ピロの(息子)ソパトロ、べレア人。さてテサロニケ人の中からアリスタルコとセクンド。そしてガイオ、デルベ人。そしてテモテ。さてアシア人ティキコとトロフィモ。 5 さてこれらの人々は先に来て、彼らはトロアスでわたしたちを待ち続けた。 6 さてわたしたち、わたしたちこそは種入れぬパンの日々の後にフィリピから漕ぎ出した。そしてわたしたちは彼らに向かってトロアスの中へと五日以内で来た。そしてそこでわたしたちは七日滞在した。

 パウロと一緒に募金を携えてエルサレム教会に向かったのは、4節によればベレア教会の代表ソパトロ、テサロニケ教会の代表アリスタルコとセクンド、デルベ教会の代表ガイオ、常にパウロに随行していたテモテ(リストラまたはデルベ出身)、エフェソ教会の代表ティキコとトロフィモ(21章29節も参照)の七人です。デルベ教会は第一回伝道旅行で始まったリカオニア地方の教会です(14章20節以降)。テサロニケ教会・ベレア教会は第二回伝道旅行の成果であるマケドニア地方の教会(17章)。そしてアシア地方の首都エフェソ教会は第三回伝道旅行の中心拠点です(19章)。

 この人々は単なる同行者ではありません。パウロ系列の諸教会の代表者たちです。二つの主要な教会が抜けています。コリント教会とフィリピ教会です。コリント教会は先ほど述べた事情から、募金運動に協力しないことを選びました。フィリピ教会は代表者を派遣しなかったのでしょうか。5・6節「わたしたち」に注目すべきです。つまりこの時点からフィリピ教会員である使徒言行録の著者ルカが同行しています。ルカは自分の名前を記載せず控えめに、自分がフィリピ教会の代表者であったことを証言しています。ひどく落胆してコリント教会から戻ってきたパウロの姿を見て、ルカはフィリピ教会でさらなる募金を集め、得意な船便を調達し船賃を提供して、そして教会代表としてまたパウロの主治医として彼に同行したのでしょう。

 ちなみに「わたしたち」という単語が使徒言行録に登場し、著者ルカが合流・再合流を明示する時は必ず船旅が伴います(16章10-11節、20章5-6節、27章1節)。この事実からルカが船を調達することに慣れていたことや、船賃を支弁してパウロたちの旅を支えていたことがうかがえます。七人の教会代表たちはトロアスという港町でパウロとルカを待ちます。トロアスはルカが初めてパウロと出会った場所です。その時ルカは自分の町フィリピにパウロとシラスとテモテを招いたのでした(16章8-9節)。パウロたちが去った後トロアスにも教会が立ち上がっていました(7節以下)。ミシア地方のトロアス教会も募金運動に参与していたのでしょう。

トロアス教会の信徒たちから歓迎されながら、七人の教会代表団はルカとパウロを待ち続けます。ミシア地方トロアス教会を含めれば、5教会(ベレア・テサロニケ・デルベ・エフェソ・トロアス)・4地方(マケドニア・リカオニア・アシア・ミシア)の代表が一堂に会しています。地方連合総会や、連盟総会のような雰囲気です。各教会代表は持参した募金額を報告し合算していきます。「イエスは主」と賛美をささげ、旅の安全の祈りを合わせます。そしてフィリピ教会代表のルカと、募金運動の旗振り役パウロが到着し合流します。ここで募金額総計が確定します。パウロが願っていた目標金額に到達したのだと思います。一同は感謝をささげたことでしょう。

トロアス教会での「総会」において、パウロにはいろいろな感情がうずまいていたと思います。まず第一回伝道旅行で訪れたキプロス島の教会代表がいないこと、使徒バルナバとマルコの両者と喧嘩別れしたことが思い出されます。第二回伝道旅行をすべて共にしたエルサレム教会のシラスもいません(理由不詳)。第三回伝道旅行で一所懸命に手紙を書いた、アカイア地方のコリント教会代表もいません。コリント不協力の理由はもっぱらパウロの自己主張の強さ、頑固で粘着質な気質にあります。この募金運動の結果にパウロの持つ長所と短所が同時に表れています。彼は重大なとりこぼしをしながらも、立てた計画を完遂する人です。謙虚さは希薄ですが意思が強い人です。教会間はゆるやかなネットワークですから、エルサレム教会の募金要請を断る自由がコリント教会にありました。パウロ個人が受けた募金要請を、パウロ系列の教会全てが引き受ける義務はありません。エルサレム教会との上下関係や、パウロの権威主義を拒否したコリント教会の言い分にも理解を示すべきです。

今日の小さな生き方の提案は、隣人とゆるやかに繋がることです。人間関係が近過ぎる時、また逆に遠過ぎる時、わたしたちは苦しみます。適切な距離を保ちながらつながり続けることが大切です。憎むこともなければ無理矢理好きになることも「和解」する必要もありません。威張ることも卑下する必要もありません。パウロの持つ強烈で派手なカリスマによらず、地道な助け合いと支え合いによって教会は続いてきたことがルカのあり様から分かります。時々登場し、自分のできる範囲で喜んで支える医者ルカ。自らの名前を隠し「わたしたち」としか言わない著者ルカ。エルサレム教会もコリント教会も非難しないルカ。喧嘩の火種になるパウロの神学主張をほとんど紹介しないルカ。同時にパウロのあくの強い性格を批評しないルカ。この立ち居振る舞いにゆるやかな繋がりの模範例があります。淡々と泉教会の歴史を歩み綴っていきましょう。