ミディアン人ホバブ 民数記10章29-36節 2023年5月14日礼拝説教

イスラエルの指導者モーセはミディアン人羊飼いツィポラと結婚していました(出エジプト記2章16節以下)。ツィポラの父親は三つの名前で呼ばれています。一つ目は「レウエル」(同2章18節)、二つ目は「エトロ」(同3章1節、18章1節)、そして三つ目が「ホバブ」です(民数記10章29節、士師記4章11節)。本日の箇所も原文は「舅」であり「義兄」ではありません。文法的にも「舅」という単語は「レウエル」ではなく「ホバブ」にかかります。そこでレウエル/エトロ/ホバブという三つの名前は同一人物を指すと考えます。それによって、イスラエルというものがどのような共同体であったのかを探り、教会がどのような共同体であるべきかを考えます。

29 そしてモーセは、ホバブ・ミディアン人レウエルの息子・モーセの舅に言った。「わたしたちは、ヤハウェが『わたしは貴男らにそれを与える』と言ったその場所に向かって引き抜きつつあります。貴男はわたしたちと共に行ってください。そうすればわたしたちは貴男のために良くします。なぜならヤハウェはイスラエルについて良いことを語ったからです。」 30 そして彼は彼に向って言った。「わたしは行きません。むしろわたしの地に向かって、またわたしの故郷に向かって、わたしは行きます。」 31 そして彼は言った。「どうか、貴男はわたしたちを棄てないでください。なぜなら、まさにそれゆえに、貴男はその荒野でわたしたちの宿営を知っているからです。そして貴男はわたしたちのための目となるのです。 32 そして貴男がわたしたちと共に行くということが起こるならば、またヤハウェがわたしたちと共に良くする、その良いことが起こるならば、わたしたちは貴男に良くします。」

 ツィポラの父は出エジプトを果たしたイスラエルを訪問しています(出18章)。彼は娘ツィポラと二人の孫を連れて来ました。そしてモーセやアロン、イスラエルの長老たちと共同の礼拝を執り行い、モーセに共同体運営について助言をします。その後彼はミディアンに戻ります。「そして彼は彼のために彼の地に向かって行った」(出18章27節私訳)。この表現は30節と単語レベルで重なっています。同一人物の行動です。

 出エジプト記18章で別れたツィポラの父がいつの間にか民数記10章の時点でイスラエルの民に加わっています。出19章から民10章まで民はシナイ山のふもとにいます。ツィポラの父はもしかすると何回もミディアンとシナイを往復していたのかもしれません。そのような形でこの一族とイスラエルは交流をしていました。共に歩む実態があります。そこでモーセは本日の申し出を舅にします。「わたしたちと共に〔インマヌー〕約束の地へ行きましょう」。「わたしたちと共に」は三回も繰り返されている、この段落の鍵語です。

 この申し出は直前に紹介されている十二部族の配置や順序(10章1-28節)をゆるがせにするものです。そもそもイスラエル内部の十二部族という仕分けは、イスラエルの民ではないミディアン人を想定していません。ホバブは東西南北どの場所に宿営し、何番目に杭を引き抜き旅に出るのでしょうか。モーセは今までの重要な決め事をまるで無視して舅に申し出ています。どうしても一緒に来てほしかったからでしょう。ここにはモーセの捉える「イスラエル共同体像」があります。イスラエルは種々雑多な人々によって構成されるべきなのです(出12章38節)。モーセも種々雑多な人々の一人です。エジプト人として40年、ミディアン人として40年、ヘブライ人にはなったばかりのモーセです。誰でも神の民の一員になり、神の言った場所に旅立つことができるという福音。これこそ「ヤハウェはイスラエルについて良いことを語った」(29節)と言われる福音です。

 婿としては快諾されると思った申し出を舅はにべもなく断ります。「わたしは行きません。むしろわたしの地に向かって、またわたしの故郷に向かって、わたしは行きます。」(30節)。「わたしたちは貴男のために良くします」(29節)と言うモーセの「伝道」はやや上から目線です。「あなたのためになる良い話だから言うことを聞かないと損しますよ」という態度です。即座に断られてモーセはもう一度説得しようとします。上からではない言い方を選びます。「どうか、貴男はわたしたちを棄てないでください。なぜなら、まさにそれゆえに、貴男はその荒野でわたしたちの宿営を知っているからです。そして貴男はわたしたちのための目となるのです。」(32節)。モーセは思い切り下手に出て、「わたしたちにとってあなたがどうしても必要なのだ」と言い換えています。「まさにそれゆえに」という冗長な表現に、モーセの切羽詰まった心情があらわれています。ツィポラの父がいない旅はイスラエルにとって致命的な弱点となります。なぜなら彼が「」となり、荒野でイスラエルの「宿営」のための「休み場」(33節)を探すからです。モーセは懇願して、「あなたがわたしたちに良くしてください」と言っています。そして今度はより謙虚に、「またヤハウェがわたしたちと共に良くする、その良いことが起こるならば」(32節)という条件を付け加えています。自分たちが良くしてあげるという言い方ではなく、神が良いことを起こしてくださるならば、その神からの良いものの分配に共に与りましょうという言い方です。

 イスラエルにとって他者は必要不可欠なのです。ミディアン人なしに旅が続行できないほどに大切です。初代教会の周りに好意的な「神を畏れる人々」がいて、教会の針路に大きな影響を与えたことと似ています。わたしたちで言えば地域の方々と似ています。伝道の対象というだけではなく、地域の方々は教会が針路を定めようとする時に「わたしたちのための目」(31節)となってくださるでしょう。ちなみにギリシャ語訳では「目」ではなく「長老」という言葉です。共同祭儀の時にツィポラの父は「長老たち」と食事をしています。意思決定にも参与してほしいという願いも、ここに込められています。

 婿舅の対話は突然終わり、舅が婿の熱心な申し出を受け入れたかどうかは不明です。しかし後の物語を読むとツィポラの父が一族郎党を引き連れてイスラエルに合流したことが分かります。士師記1章16節によると、ツィポラの父の一族はユダ部族と共に約束の地に定住しました。本日の箇所では舅のみが紹介されていますが、彼にはツィポラの他に六人の娘がおり(出2章16節)、彼女たちの子どもたちをイスラエルに合流させたようです。この対話の後に呼び寄せたのでしょう。それが「ケニ人」です(士1章16節)。ユダ部族と共にいたということは、彼ら彼女たちは旅の先頭を歩いていたということになります(民10章13節)。宿営のための「目」の役割が期待されているからです。神の民イスラエルの旅はケニ人を先頭に押し立てケニ人の意見を尊重する宿営(杭の抜き差しの連続)です。

33 そして彼らはヤハウェの山から引き抜いた、三つの日々の道。そしてヤハウェの契約の箱が彼らの面前で引き抜き続ける、三つの日々の道、彼らのために休み場を探すために。 35 その箱が引き抜く時にモーセが次のように言うということが起こった。「貴男は起きてください、ヤハウェよ。そうすれば貴男の敵どもは散るでしょう。そして貴男を憎む者たちは貴男の面前から逃げるでしょう。」 36 そして彼女が休む時に彼は言う。「貴男は戻ってください、イスラエルの幾千幾万ヤハウェよ。」 34 ヤハウェの雲は彼らの上に昼間(あった)、その宿営から彼らが引き抜く時に。

三つの日々の道」はエジプト脱出の理由を説明するために用いられる常套句でした(出3章18節ほか)。ヤハウェを礼拝するためにはエジプトから三日の道のりを離れる必要があるとモーセとアロンはファラオに主張しました。だから「三つの日々の道」は荒野の旅を象徴しています。教会の歩みを象徴しています。イスラエルは「ヤハウェの契約の箱」「ヤハウェの箱」を先頭にする民です。箱は神がそこにおられるということを象徴しています。神が先頭におられるということです。32節までの対話と連結して考えれば、イスラエルの先頭にはヤハウェの箱とケニ人がいます。33節の奇妙な一文は、この二つを連結させることを促しています。「そしてヤハウェの契約の箱が彼らの面前で引き抜き続ける、三つの日々の道、彼らのために休み場を探すために」。休み場を探す主語は、ヤハウェの契約の箱です。箱、あるいは箱におられる神が、ケニ人と共に目となり宿営場所を探すのです。

舅がヤハウェを讃える讃美歌を歌う祭司であったことと(出18章10-11節)、礼拝の大切な要素であるヤハウェの箱の周辺にいることとは関係しています。ケニ人は宿営場所探しだけではなくイスラエルの礼拝にも積極的に参与していたと推測します。「ヤハウェの箱の歌」(35・36節)は、舅が作詞作曲し婿モーセに教えた讃美歌だったかもしれません。モーセがヤハウェの箱の歌を歌い、レビ人たちが杭を引き抜き、その箱を担ぎ出発する時、ケニ人たちも同じ讃美歌を歌ったことでしょう。「起きてください、ヤハウェよ」。この歌が賛美されると、「ヤハウェの雲」が上り、荒野の旅を導くという図が思い描けます。雲も神がそこにおられるという象徴です。ギリシャ語訳のように34節を36節の後ろに置く時に、この賛美と雲の動きが連動します。賛美の上に坐したもうヤハウェ神は、賛美と共に救いの業を始められます。信徒以外の方々とも共に賛美する教会をヤハウェの雲が導きます。ツィポラとミリアムの賛美の声が小太鼓と共にヤハウェの箱の周りから聞こえてきます。

一日の旅が終わり、休み場を無事に見つけて夕方杭を打つ時に、モーセとケニ人たちは歌います。「戻ってください、イスラエルの幾千幾万ヤハウェよ。」イスラエルの人数ではなく、ケニ人を含む多種多様な人々の創り主である神への賛美と捉えられるように、「イスラエルに幾千幾万種類の人々を含ませたヤハウェよ」と解釈します。「彼女〔箱〕が休む時に彼〔モーセ〕は言う」(36節)とあるように、ヤハウェの箱は先頭となって杭を引き抜き、休み場を探し、杭を打って休みます。箱の擬人化は、ヤハウェという神が働くだけではなく休む方でもあるということを教えています。働き方改革とは休み方改革です。「働くために休む」という考えではなく、「休むために働く」という発想の逆転が必要です。休み場を探すという働きをし、そこに実際に休む神は、わたしたちの模範です。

今日の小さな生き方の提案は、教会の前面に押し立てるべき存在を確認することです。それは三日目によみがえらされたイエス・キリストの神であり、そしてケニ人にたとえられる教会周辺の人々です。復活のイエスは、義人の苦難を悼み嘆く声によりよみがえり、復活を賛美する声により雲に乗って天に上げられ、自分の霊を個々人に授けました。毎日賛美しましょう。そうしてわたしたちと共におられるキリストを体感しましょう。その時、導きを実感できます。この賛美の輪を教会に好意的な方々と共に形づくりたいと願います。ここに泉教会があって良かったと思ってもらえる働きとは何か。教会内部の議論だけでは到達できません。「神を畏れる人々」に教会がなすべき働きについて、地域にとっての憩いについて教えてもらいましょう。