ミリアムとアロン 民数記11章31節-12章4節 2023年7月23日礼拝説教

31 そして霊がヤハウェの共なるところから(杭を)引き抜いた。そしてそれがその海からうずらたち(を)もたらした。そして彼はその宿営の上に捨てた。日の道のりと同じだけ、そして日の道のりと同じだけ、その宿営の周囲に、そして二アンマその地の面の上に。 32 そしてその民は起きた、その日の全てとその夜の全てとその翌日の全て。そして彼らはそのうずらを集めた。その少なく集めた者は十ホメル集めた。そして彼らは彼らのために繰り返し広げた、その宿営の周囲に。 33 その肉は彼らの歯の間に依然それが(噛み)切られる前に、そしてヤハウェの鼻がその民に熱くなった。そしてヤハウェはその民を打った。打撃は非常に多かった。 34 そして彼はその場所の名前をキブロト・ハタアワ(と)呼んだ。なぜならそこに彼らは(自分のために)渇望し続ける民を葬った〔qbr〕からである。 35 キブロト〔qbrt〕・ハタアワからその民はハツェロト(へ杭を)引き抜いた。そして彼らはハツェロトの中に居た。

31-35節は11章の締めくくりの箇所です。11章全体は、「キブロト・ハタアワ」(34節)という地名がなぜそのように名づけられたのかということを説明する物語です。それによって神の民イスラエルは、この地を訪れたり思い出したりするたびに、自らを省みるようにと仕向けられます。

新共同訳が丸括弧書きで説明している通り、その地名の意味は「貪欲の墓」といったものです。以前紹介した4節の「渇望〔タアワ〕を渇望する〔アワー〕」と、34節の「(自分のために)渇望し続ける〔アワー〕」、そして「葬った〔qbr」を合成した語呂合わせがこの地名「キブロト・ハタアワ」です。

キブロトは動詞qbrに由来する名詞qbrhの複数形です。そしてハタアワは名詞タアワに冠詞「ハ」が冒頭に付いて意味を特定している形です。特定のこの物語が示すような類の、自分自身のためにほしがり続ける複数の生き方は、神の怒りに触れて(33節)複数の葬りに帰結すると、この地名が教えています。ちなみにアワーという動詞は申命記版十戒の第十戒後半の「隣人の家」以下を欲しがる行為にも用いられています。この物語は多種多様な、自分のためにほしがり続ける生き方への警告となっています。

ただしかし、神が民を殺したかどうかは曖昧です。神は肉を求める民に対してうずらの肉を与えています。うずらの肉の与え方は、おそらくうずらを「二アンマ」(約90cm)積もらせたのではなく、90cmの低さで飛ばせたというものでしょう(ラテン語訳の立場)。それを民は手で捕まえて集め、最小捕獲量の者でも「十ホメル」(約2300ℓ)となったという奇跡です。奇跡を起こしてまでも民を生かそうとする神。その同じ神が民を殺すというのは自己矛盾です。神は確かに怒っています。しかし、怒ることと殺すことは直結しません。神の憤りは民の自己中心的な貪欲・貪りに向けられていますが、民を殺してしまうとすれば民は一生その罪を直すことができません。むしろ神の教育の目標は、民を生かし、民の生き方を修正することで達成されます。そこで私訳のように「ヤハウェはその民を打った。打撃は非常に多かった。」と言うに留める解釈が有効です。実際、「渇望し続ける民」を葬ったのは神ではなく、「彼ら」(34節)民自身です。神に打たれた民自身が自身の胸を打ち、悔い改め、古い自分たちを葬り、自身のために渇望し続けない民へと生まれ変わったのでしょう。神と民との間には親子関係のような連帯感があります。

たとえばこれまでの物語も民が出立する時に「(杭を)引き抜く」という表現で語られていました。35節でも同じ単語が使われています。今回はとうとうヤハウェの「」(ルアッハ。25節他「霊」と同じ単語)がヤハウェのもとから「(杭を)引き抜いた」というのです(31節)。ここにも深い連帯感が示されています。神は民と共に旅をし、民に何事かが起こればどんなに遠くにいても駆けつけて旅を共にしてくれるのです。神もまた杭を引き抜いて天の宿営と地の宿営を行ったり来たりします。そうして神は、神の意志が天におけるように地においても実現するように汗をかいているのです。

 民は「貪欲の墓」に生きる者ではなく、「ハツェロト」に居るようになります(35節)。ハツェロトの意味は「(諸々の)居住地」。貪欲という死から生へと移し替えられたことを象徴しています。

1 そしてミリアムとアロンは語った、モーセの中で/モーセを交えて、彼が取ったクシュ人の女性の原因について。なぜならクシュ人の女性(を)彼が取ったからだ。 2 そして彼らは言った。「本当にヤハウェはモーセの中でだけ語ったのか。私たちの中でも彼は語らなかったか。――そしてヤハウェは聞いた。―― 3 そしてその男性(よ)、モーセ(よ)、非常に貧しい者(よ)、その地の面の上にいる人間の全てよりも。」そしてヤハウェは突然モーセに向かってまたアロンに向かってまたミリアムに向かって言った。貴男ら三人は会見の天幕に向かって出て行け。そして彼ら三人は出て行った。

12章で物語は急展開しているように見えますが、11章26-30節と関連して「預言」という主題を引き受けています。11章から12章は、「民の貪欲」「仕事の分担」「預言者の資格」などの主題が鎖状につながっています。誰が預言者としてふさわしいかという主題については次回以降に深掘りしていきます。今回は主にモーセという人物を結婚という視点から考えたいと思います。

ここでモーセの姉ミリアムが大きな役割を果たしています。後世のユダヤ人ラビたちの解釈には、ミリアムはモーセのミディアン人妻ツィポラに味方しているというものがあります。ツィポラはホバブ/レウエル/エトロという三つの名前を持つ男性の娘です(10章29節。出エジプト記2章16節以下、4章23節以下、18章1節以下)。

男性〔イーシュ〕」(2節)が「女性〔イッシャー〕」(1節)を「取った」(1節)という言葉は、結婚するという意味の表現。日本語「娶る」と類似の表現です。男女の上下関係を前提にした、今日的には批判されるべき表現です。女性は常に男性によって取られる対象とされ、男性の所有物(「モノにする」という恥ずべき表現もある)とみなされていることが問題です。そして、取られ所有されるだけではなく、女性が男性によって「観られる対象」であることも大きな問題です。男性の視点によって美しいかどうかを観賞される対象、男性の審美眼が女性の価値を決めることが問題です。表現の自由があるのですから、誰もがどのような容姿・格好であっても構わないはずです。

正統ユダヤ教徒によるアラム語敷衍訳(タルグム)は、1節をかなり異なる文章にしています。「そしてミリアムとアロンは、モーセを交えて彼が取った美しい女性の原因について、語った。なぜなら追い払われた美しい女性を彼は取ったからだ。」アラム語訳は、モーセをある程度弁護しています。追い払われた女性だったから、親切・保護が原因でモーセはその女性と結婚したのだと言っているからです。しかしその一方でアラム語訳はモーセを批判しています。その女性が美しいからモーセは結婚したのだと言っているからです。

クシュ人」(1節)はアフリカ系黒人種です。ギリシャ語訳が「エチオピア人」としている通りです。黒くつややかな肌は滑らかで美しいとされていました(イザヤ書18章1-3節)。ミリアムは現代の黒人差別をしているわけでもなく、またクシュ人女性を批判しているわけでもありません。そうではなく、この出来事の「原因」(1節)を探り、モーセの中にある「男らしさ」を批判しているのです。男性たちの間で「美しい」と評価されうる女性を妻とし、自分の所有物として他者にひけらかすことが男性の地位や評価を上げるという考え方が、モーセにある。それが原因で、彼の姉である自分とも長い付き合いともなっている義妹ツィポラが悲しむということ、これはモーセが惹き起こした不正だ。ここにミリアムの憤りがあります。

この場面で弟アロンは姉ミリアムに従属的です。「…は語った」(1節)の動詞の主語は「彼女」です。女性であるミリアムが動作の主役であり、男性であるアロンはそれに付随している存在であることを、動詞が明示しています。ミリアムは弟アロンを連れて、末弟モーセの天幕へと入って「モーセの中で/モーセを交えて」膝詰めで批判したのでしょう(1節)。姉は末弟を直接批判しようと思っており、キブロト・ハタアワでの大きな出来事が一段落し、ハツェロトに落ち着いた頃合いで実際に踏み込んだのです。

このミリアムの批判に対してモーセはどのように応答したのでしょうか。「その地の面の上に」(3節)は、31節にも登場する表現です。地上90cmを飛ぶ低空飛行の小鳥うずらのように、縮み上がったモーセは低姿勢となり小さくなったのだと思います。「貧しい者」(3節)という名詞が本文に書かれています。しかし正統ユダヤ教徒は一文字変えて「へりくだっている」という形容詞と解釈し、シナゴーグでそのように読み直しています。「謙遜」(新共同訳)は「へりくだっている」という形容詞を採っています。形容詞であっても悪い意味の「心根の貧困な」という意味もあり得ると思います。

ヘブライ語本文には台詞を示す鍵括弧はありません。3節前半を、「その男性(よ)、モーセ(よ)、非常に貧しい者(よ)、その地の面の上にいる人間の全てよりも」というミリアムの激しい批判と採りました。「男らしさまみれの男め、モーセよ、地上の誰よりもひどく貧しい者になりさがったものだ。こんなことになるなら水から引き上げ〔マーシャー〕なければ良かった。ツィポラの恩や彼女の父親の厚意を忘れるな」という𠮟責です。ミリアムは赤ん坊のモーセの命の恩人です(出エジプト記2章1-10節)。姉ミリアムにしか言えない、面と向かった渾身のモーセ批判、ツィポラ弁護と解します。ミリアムは、殺人者であり亡命者であるモーセがツィポラの父親によって匿われ助けられたことや、ツィポラもまたモーセの命を救ったことがあることを知っています。「恩知らずの行動は人間として恥ずかしい」と姉は弟を諭します。

ヤハウェの神は、ミリアムの言葉を聞いていました(2節)。モーセを依怙贔屓する神は慌てて「突然」介入します(3節)。ある種の勘違いを含むヤハウェのそそっかしい行動によって、興味深い出来事が次々と引き起こされていくことになります。アロンの立ち居振る舞いも戯画的です。

今日の小さな生き方の提案は、自分のために渇望し続け、何でも自分のモノにしようとする貪欲な生き方を棄てることです。「隣人の家をほしがるな」〔アワー〕という申命記版第十戒は、「隣人の妻を貪るな」〔ハマド〕に引き続いています。二つの話題の根は一つです。自分のために美しいクシュ人女性を妻としたモーセは、キブロト・ハタアワで罪を葬り去ることができなかった一人なのです。わたしたちもまた、隣人を自分のための存在と勘違いして貶めず、地上の誰をも尊重していく努力が必要です。

ミリアムのように、義妹である隣人ツィポラのために、ツィポラを貶める弟モーセの生き方を批判することが求められています。その場で誰が最も小さい人とされているか、このことに敏感でありたいと思います。貶められている場面で弁護者がいることが、貶められている人の救いとなるからです。