ムナのたとえ ルカによる福音書19章11-27節 2018年4月22日礼拝説教

わたしたちは今どこに住んでいるのか。どのような世界に生きているのか。本日の聖書の箇所は、そのことをある種の嘆きをもって語っています。時代の苦悩、つまりカネ中心の世界についての嘆きです。世界のただ中にありながら、そこから救われるということはどういうことなのでしょうか。

本日の箇所はマタイ福音書251430節にも別の版で伝えられています。有名な「タラントンのたとえ」です(英語talentの語源)。後半はほぼ一致しますが、細かく比べると相当異なります。貨幣の種類が異なります。大雑把に1タラントンは6000万円ぐらい、1ムナは100万円ぐらいと考えられます。マタイ版は国家規模の金額を取り扱う割に結論が小さい。逆にルカ版は商売を取り扱っている割に結論が大きいという不自然さがあります。「十の町(デカポリス)の支配権」(17節)・処刑(27節)は、国家レベルの話題です。二つのたとえ話をまとめて考えます。なぜなら国家の話題と大きな商売の話題は、どちらも関係しているからです。主権国家と資本主義が問われています。

「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12節)。「しかし、国民(市民)は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると・・・」(1415節)。ルカ版の設定は奇妙に見えます。王が王位に就くためになぜ遠い国に行かなくてはいけないのでしょうか。実はこの設定には歴史上のモデルがあります。

クリスマス物語で有名なヘロデ大王(マタイ21節)が死んだ後のことです。彼の息子アルケラオ(マタイ222節)は、ローマ帝国の首都ローマへと旅立ちます。ユダヤ王国はローマ帝国の植民地だったので、王位に就くためにローマ皇帝の許可が必要だったからです。アルケラオがローマへと出立した直後に、彼と王位を争っていた兄弟ヘロデ・アンティパス(マルコ614節)も同じ目的でローマに行きます。さらに、反ヘロデ王家のユダヤ人たちが50人の使節団を編成してローマに行きます。使節団はローマ皇帝に、ヘロデ王家による支配ではなくユダヤ人の自治を要求したのです。その自治要求運動にローマ市在住の8000人のユダヤ人(ローマ市民もいた)が呼応しました。

ローマ皇帝の前で三者は論戦を戦わせます。その結果、アルケラオは一応「王」として認可されます。しかし、領土はヘロデ大王の全領土の二分の一(税収600タラントン)しか与えられません。ユダヤ地方・サマリア地方です。王位を争ったアンティパスにガリラヤ地方・ペレア地方(税収200タラントン)、別の兄弟フィリポ(マルコ617節)にトラコン地方(税収100タラントン)が分けて与えられることになりました。

「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」(27節)。ローマ皇帝から王になることを認められたアルケラオが、使節団を送った人々に行った仕返しがそのモデルです。彼はすぐさま自治要求運動の長である大祭司を罷免させたのでした。

ここには主権が認められていない国家の悲哀があります。日本を含め世界には十全なかたちでの自治が認められていない国があります。アメリカという国は現代のローマ帝国です。意にそまない指導者を立てている国に向かって武力攻撃で体制を変えさせることを何回もしています。その結果、アメリカの意向を忖度しなくてはいけなくなります。アメリカの意向があれば、政敵を徹底的に攻撃もできます。政治的右左に関係なく、わたしたちは自主自立・対等外交をめざすことを共通の課題としなくてはいけないでしょう。沖縄の基地の課題は、対米従属の課題です。

さてこの国家主権/主権国家という話題に、商売で大儲けするという話題が混ざり込みます。「そこで彼は、十人の僕(奴隷)を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」(13節)。王位を受けることと、別の話です。マタイ版では留守番に対して何も命じられませんが、ルカ版でははっきりと金儲けが命じられます。

トランプ大統領のことを思い起こします。ニューヨークのホテルを再建したり、自分の名前の高層ビルを建てたりした商売人です。メディアへの露出が多い建築業界のビジネスマンがアメリカの大統領に任じられたことは、金儲けが上手だった奴隷が十の町の支配権を得たことと似ています。金儲けと政治的支配は関係があります。厳密にはアメリカの意向は、国際的な大金持ちの意向を忖度するかたちでつくられます。原発も武器も国際的な金儲けの手段です。

王に立候補している貴族は、合計十ムナ(1000万円)を十人の奴隷に預けます。この場合の奴隷は政治家の秘書のような存在です。ローマ帝国においては、皇帝や大貴族の奴隷は、最も信頼する側近であり、支配の仕事を代行する者だからです。だからこそ町の支配者(市長)に任命されうるのです。マタイ版では三人の奴隷に5タラントン(3億円)・2タラントン(1.2億円)・1タラントン(6000万円)と渡されます。ルカ版はおそらく十人に1ムナ(100万円)ずつですが、三人だけが紹介され七人については無頓着です。結論は共通していて、1タラントン/1ムナを運用せずに保管した人が叱られるというものです。

ルカ版のこのような態度は、人間よりも金に重心を置いています。マタイ版のように多くの能力(talent)を持つ人間に、その人間をよく知る主人がそれに応じて5タラント・2タラントと個性を見極めて預け、何をしても自由とする物語は、人間に重心があります。各個人の個性や、各個人の自由を、人間味のある主人(=神)が尊重しているからです。

それに比べてルカ版は一律で1ムナずつ。没個性です。さらに、「金儲けせよ」という命令付きですので、商売以外にお金を用いる自由がありません。さらに七割の人は無視され、どうでも良い人間として扱われています。特に注目すべきは、16節・18節です。「御主人、あなたのムナが10ムナ/5ムナを稼ぎました」(直訳)。カネがカネを稼ぐということは資本主義の本質的な要素です。

2000年前の昔に既に銀行があり、「古代資本主義」の仕組みは機能していました。1ムナを布にくるんで保管していただけの奴隷に対して王となった人物は言います。「ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに」(23節)。この発言は、「何もしないならカネ自身に稼がせれば良いではないか」ということです。カネがカネを稼ぐという思想は一貫しています。利息もその代表例です。

その他にもカネがカネを稼ぐ例はあります。両替というのは貨幣と貨幣を変えることです。ここに手数料というものを取れば、カネの移動だけでカネが生まれます。徴税人(527節)や、神殿の両替商(マルコ1115節)のしていたことです。エルサレムでイエスは両替という商売に猛反発をしました。

さらに現代においては変動相場を利用して、1ドル100円のときに100万円を1万ドルに両替し(ドルというカネを買い)、1ドル110円のときに110万円に両替すれば(ドルというカネを売れば)、カネを移動しただけで10万円を生み出します。いみじくもカネを商品としてみなす「ドルの売り買い」と表現します。商品としてのカネがカネを稼ぐ例です。

この資本主義のレールに乗りきれない人は持っているものすら取り上げられてしまいます(24節)。「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(26節)。カネを稼ぐことが苦手な人は、「貧しいのはあなたの責任でしょ」という理屈のもと、さらに貧しくなっていくのです。

「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方」(21節)である「立派な家柄の人」(12節)。王の位を受けて帰って来た人とは誰のたとえなのでしょうか。わたしたちはすぐに聖書のたとえ話となると、主人公を神やイエスと考えたり、舞台を神の国と考えたりしがちです。マタイ版ならばその通りです(マタイ2514節)。しかし冒頭の11節に注意してください。ザアカイの家の会話を聞いていた敵対者たちに向けて、このたとえ話は語られています。ザアカイは富んでいる人でした。その富の半分を貧しい人に施そうとしていました。カネから自由である人に対して反発していた人々。そして、その人たちは「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」のです。

ユダヤ人を武装蜂起させ、武力革命によってローマ帝国の支配から、ユダヤ人の支配へと体制を変えるメシアがすぐにも来ると、彼らは思っていました。「そのためには資金力が必要。金持ちこそ真っ先に神の国に入る(救われる)はず」(1826節)。こういった普通の人々の常識的な待望に対して、イエスは冷水をかけています。自分の王を選べない植民地の悲惨な現実と、カネがカネを稼ぐというルールの人間社会、カネが支配するこの世の厳しい現実を語ります。ローマ帝国と同じ仕方ではローマ帝国を乗り超えることはできません。

この王位を受けた人物というのは、「富(マモン)」という名の怪物です。マモンは昔から今に至るまで人間社会に君臨しています。そしてカネを効率よく多く稼ぐ人に価値があるという神話をふきこみます。「よくやった。忠実な奴隷だ。より多く稼いだから、より多く政治支配させよう」。マモン自身は手とり足とりカネ稼ぎの方法を教えません。あたかも自分自身の意思であるかのように、わたしたちは一所懸命にカネを稼ぎ、主人にアピールをします。そして稼げなかった一割の隣人が叱責されるのをびくびくしながら見ます。そうしているうちに七割の隣人を失います。隣人への関心はなくなり、恐ろしい主人に気に入られることだけを考えるようになります。豊かな者がますます豊かににあり、貧しい者が持っているものまでも奪い取られるというルールに則りレールに乗っかっていくしかない。拝金主義です。神の位置に富が座っています。そして社会的地位の高さが金儲けのうまさによって並べられています。

今もマモンは王位についています。聖書は、この現実からだれも逃げられないということを嘆きながら語っています。救いはどこにあるのでしょうか。救いは十字架にあります。それは「レールからおりる生き方」です。

ザアカイは財産の半分を貧しい人に寄付する意思と、公正に仕事をする意思を示しました(8節)。それに応えてイエスは、「今日救いが生じた」と言います。ザアカイは仕事を辞めません。全財産を寄付もしません。ただカネのためにカネを稼ぐことを止めたのです。これが資金力によって政治的権力をふるうことの反対の生き方です。なるほどわたしたちは生活のため家族のためにカネを真面目に稼ぎます。カネは大事。しかしそこで勘違いをしてはいけない。カネに支配されてはいけない。全世界を得ても自分の命を損なってはいけません。

今日の小さな生き方の提案は、資本社会の中にありながら、「少しだけおりて生きる」ことです。わたしたちは自分の時間の使い方を吟味しましょう。カネのためにどこまで時間を使うべきか。また稼いだカネを使う時間も吟味しましょう。政治・芸術・宗教・隣人のために時間・カネを使うならば、わたしたちはこの世界の只中にあって、この世界から救われます。