モーセの苦しみ 民数記11章1-15節 2023年6月4日礼拝説教

1 そしてその民が不平を言い合い続けている時にヤハウェの耳の中に悪が生じた。そしてヤハウェは聞いた。そして彼の鼻が熱した。そして彼らの中でヤハウェの火が燃えた〔ティブアル〕。そしてそれ〔火〕はその宿営の端を食べた。 2 そしてその民はモーセに向かって叫んだ。そしてモーセはヤハウェに向かって祈った。そしてその火は鎮まった。 3 そして彼はその場所の名前(を)タブエラと呼んだ。なぜなら彼らの中でヤハウェの火が燃えたからである。 

荒野の旅は過酷なものです。苦しい時に人は愚痴を言い合うものです。愚痴を言える仲間がいるということはある意味で良いことです。しかし聖書の神はそのような否定的な言葉の応酬に嫌悪を覚えます。愚痴り合いを聞くことそのものが「(ラア)」(1節)であるというのです。ラアは、「災い」「不幸」「不快」などおよそ否定的な事象すべてを言い表す言葉です。物語は「悪」という単語を縦糸にして進んでいきます。1-3節は、愚痴るイスラエルの民に対するヤハウェの裁きがモーセの祈りによって緩和されたと語ります。これが第一回戦です。

4 彼の真ん中にいる(わらわらと)集まっている衆は渇望を渇望した〔タアワ〕。そして彼らは戻った。そしてイスラエルの子らも泣いた。そして彼らは言った。「誰がわたしたちに肉を食べさせるか。 5 わたしたちは、わたしたちがエジプトでただで食べた魚を、思い出した。きゅうりを、またメロンを、またねぎを、また玉ねぎを、またにんにくを(思い出した)。 6 そして今やわたしたちの全存在は干上がる。そのマーン以外にはわたしたちの目の中に何も無い。」 

 第二回戦の主役は、「(わらわらと)集まっている衆」(4節)です。ミディアン人を含むでしょう(10章29節)。「〔民〕の真ん中にいる」という表現は、ミディアン人が大切に扱われていることを示唆しています。さらに広く考えると、出エジプトを共に果たした「非イスラエル人」すべてが任意参加で「集まっている衆」でしょう(出12章38節)。この人々の中にはエジプトの奴隷であってもある程度優遇されていた層もいたことと思います。エジプトの巨大建築物にファラオをほめたたえる落書きもあるそうです。重労働は雇用を生み出す公共事業だったという面もあるのでしょう。その人々には食べ物は無料で支給されていたのかもしれません。

 民の真ん中からエジプトに「戻る」(4節)機運が起こります。「イスラエルの子らも泣いた」とあります。「」とあるのでイスラエルの民は従属的な位置、非主体的な態度をとったことは明らかです。「泣く」という行動は10節と繋がっています。民はモーセに向かって泣いたのではなく、それぞれの天幕で5-6節の言葉を言いながら泣き続けます。

 泣くという行為は、嘆きを伴う礼拝だったと推測する学者もいます。そうかもしれません。10章35-36節で賛美歌を教えてくれたミディアン人とは異なる「嘆きの歌」中心の礼拝、エジプトの豊穣を主題にした礼拝を伝統にする民もいたのかもしれません。レビ記10章には「異なる火」を用いた礼拝者たちの処罰も書かれてあります。礼拝共同体であるイスラエルの中には、さまざまな礼拝実践がせめぎ合って共存していたようです。それだからこそ礼拝の対象であるヤハウェは10節以降で激しく怒ったのではないでしょうか。

7 そしてそのマーンはコエンドロの種のようだった。そしてその色は琥珀の色のよう(だった)。 8 その民はうろうろと歩いた。そして彼らは集めた。そして彼らは石臼で挽いた。あるいは彼らは鉢の中で打った。そして彼らは鍋で調理した。そして彼らはそれを菓子(に)した。そしてその味は油の(乗った)クリームに属する味のようだった。 9 そして夜その宿営の上にその露が降る時に、そのマーンは彼の上に降った。

 一般に「マナ」という呼び名で定着していますが原音としては「マーン」です。ギリシャ語訳が「マンナ」とした影響が今も続いています。7-9節のマーンについては深掘りしません。奇跡的に神が民を荒野で養ったということだけをおさえておくだけで十分です(出16章)。わたしたちは不思議な養い・支えを覚えるたびに「何か、これは」と問うて、常に神に感謝をささげなくてはなりません。マーン(何?)という名前が教えるところです。

10 そしてモーセは、その氏族ごとに、各人が彼の天幕の入り口ごとに泣き続けている民を聞いた。そしてヤハウェの鼻は甚だしく熱した。そしてモーセの目の中に悪(が生じた)。 11 そしてモーセはヤハウェに向かって言った。「なぜ貴男は貴男の僕に悪をもたらしたのか。そしてなぜ私は貴男の目の中に恵みを絞り出さなかったのか。私の上にあるこの民全ての重荷を置くことで。 12 私、私こそがこの民全てを妊娠したのか。もしも私だとしても彼〔ヤハウェ〕が彼〔民〕を生むだろう。なぜならば、貴男は私に向かって言ったからだ。『貴男は彼を貴男の胸の中で担え。養育者が乳児を担うのと同様に。貴男が彼の父祖たちに誓った土地の上で』。 13 わたしにとってこの民全てに肉(を)与えるべき(ところ)はどこか。なぜなら私に接して彼らは泣き続けているからだ。曰く『わたしたちのために肉(を)貴男は与えよ。そしてわたしたちは食べたい。』 14 私、私には単独でこの民全てを担うことはできない。なぜなら私よりも重いからだ。 15 そしてもし貴女がそのように私になし続けたいならば、ぜひ貴男が私を確実に虐殺せよ。もし私が貴男の目の中に恵みを見出したのならば。そして私は私の悪を見たくない。」

 第三回戦はもっぱら部族・「氏族ごと」・天幕ごと(家族ごと)に構成されているイスラエル内部の葛藤です。非イスラエル人の一部に影響された者たちが「泣き続けてい」ます(10・13節)。10節のモーセの中に生じた「悪」は何に対する嫌悪なのでしょうか。新共同訳が「主が激しく憤られたので」としているようにこの嫌悪はヤハウェ神に向けられています。ヤハウェの民に対する怒り、鼻を真っ赤にするほどの憤怒が、モーセは嫌でたまらないのです。なぜならヤハウェが感情任せに怒り、怒鳴り、火を送り、民を脅し上げる度に、モーセが板挟みになるからです。モーセが味わう災い/悪は、ヤハウェがもたらしたものです。「なぜ貴男は貴男の僕に悪をもたらしたのか」(11節)。

 イスラエルという民を生んだのは誰なのでしょうか。「私が妊娠したのか」という反語表現は、ヤハウェである神が妊娠したという主張です。この点で神は「母なる神」です。「もしも私だとしても彼〔ヤハウェ〕が彼〔民〕を生むだろう」(12節)は、文法的に壊れています。「」という主語が「彼が彼を生む」という動詞の主語と合致していないからです。私訳は一試みです。もしもモーセが妊娠したとしてもヤハウェがイスラエルを生んだという趣旨にし反語表現ととっていません。ここにも「母なる神」があります。その一方で「養育者」は男性名詞です。新共同訳「乳母」は適切ではありません。「女らしい」仕事を母なる神ヤハウェはモーセという男性に負わせています。

 聖書は、わたしたちに後天的に植え付けられた「男らしさ」「女らしさ」(ジェンダー)を揺さぶっています。「父なる神」は母親のような方でもあり、モーセという男性指導者に「女らしい」役割を分担させる、自由な神です。神と対面して対話をするモーセは、神の性別不詳/曖昧なところ、境界線を自由に行き来するところに影響されています。15節「貴女」と男性名詞ヤハウェに呼びかけている文法間違えは、ジェンダーレスな神に影響された結果と言えます。

 モーセは嫌悪しているヤハウェ神に率直に思っているところをぶつけます。「民全て」が頻出しています(11・12・13・14節)。鍵語です。民全ての体重を合算すると当然にモーセ一人「よりも重い」、物理的に重いものです。それだけではありません。「重い」(カベド)は重んじる・尊重するという意味にもなります。十戒の第五戒「あなたの父と母を重んぜよ」と同じ動詞です。確かにモーセは各人を尊重しなければなりません。存在そのものに聞き入らなくてはならないでしょう(10節)。しかし全員の要望に一人が100%応えることはできません。イスラエルは12部族の連合体であり、さまざまな衆も集まっている群れだから、余計にそうです。これは「重荷」です(11節)。単独で担いきれない負担です(14節)。

 民の各人は直接モーセに向かって泣いていません(10節)。しかしモーセはそれを直接自分に向けられた涙であると解釈しています(13節)。感受性が強く各人に丁寧に接しようとするモーセ。モーセとは対照的に自分の怒りを好き勝手にぶちまけるヤハウェ。ヤハウェの怒りが民の涙となり、モーセは板挟みとなります。そもそもモーセは口が重い、寡黙な人です。柔和で腰を屈めて黙々と職務を担う人です。ヤハウェの暴力的な言動に嫌悪感を持っている可能性はあります。訥々とモーセはヤハウェを説得していき、最後に啖呵を切ります。「殺してほしい。これ以上自分自身の悪を見るのならば。」

 モーセは民への嫌悪も持っています。神が民の不平を嫌うことを知っているからです。ただでもらった食べ物にさえも不平を言うことは品位の無い行動です。「マーン・フー」(これは何だ!)。モーセは神への嫌悪も持っています。神が民に対する怒りの出し方を間違えていると思うからです。この二つの嫌悪を持つ自分自身、この両者の板挟みを強いられている自分自身の位置に対しても嫌悪を持っています。「私は私の悪を見たくない」(15節)は、モーセの本音でしょう。「見る」は「認める/認識する」という意味をも持ちます。悪に取り囲まれている自分を見るのも、悪が流れ込んでくる自分を認めるのも嫌なのです。ならばこの人生を棄てた方がまし、責任はヤハウェが取ってくれと、モーセは神に祈ります。少しヨブに似ています。

 今日の小さな生き方の提案はモーセに倣うことです。ヤハウェの神よりも成熟した態度を取りながら、しかし最終的にはすべてを神に放り投げ返すこの思い切った姿勢に倣うことです。それこそ真に誠実な祈りなのではないでしょうか。わたしたちの日常生活にも板挟みがたくさんあります。複数の板挟みが複合的に絡み合っている場合もあります。大小さまざまな「悪」「災い」「不幸」「不快」があり、抱え込むと負担となります。誠実であろうとすればするほど損をすることがありえます。共感してのめりこむと、他人の悪感情が流れ込んで心身ともに辛くなります。

 そのような時には本当の責任者に向かってすべてを放り投げ返した方が良いでしょう。それは神です。神がわたしを取り巻く状況を作出し、神がわたしを創り生み出しました。だからすべてを担い運ぶ責任をもつのは神だけです。神のせいで苦しむ面すらあるのですから、つまりイエスに倣う時に世間と対立する場合もあるのですから、わたしたちは遠慮なくすべての責任を放り投げることができます。「自分には担えません」と祈りのうちに宣言して、公言もして、一つずつ仕事を減らし、人間関係を整理することです。無責任でしょうか。命を損なうよりは良いと思います。