ユダヤ人の王 マタイによる福音書2章1-12節 2014年12月21日礼拝説教

クリスマスページェント(聖誕劇)でお馴染みの場面、博士たちが東方から来て、三種類の贈り物をイエスに献げるという物語です。聖誕劇の素材は、後からできた二つの福音書、マタイとルカにしかありません(紀元後80-90年代の著作)。マタイ版クリスマス物語には、ローマ皇帝・マリアへのお告げや、宿屋・馬小屋・飼葉桶もなく、羊飼い・天使たちの賛美もありません。代わりに、ヨセフへの夢によるお告げ・ヘロデ王・博士たちがあります。二つの福音書を混ぜるとよく知られている筋立ての聖誕劇ができるということです。

最初に福音書を書いたマルコもヨハネもイエスの誕生には興味がありませんでした(後60-70年代)。ついでに言えば新約聖書の最古の文書群を書いたパウロという人も、イエスの誕生については一切言及していません(後40-50年代)。それはできたばかりの教会にとってさして重要ではなかったからです。むしろ最初期の信徒たちにとって重要なのは、イエスの隣人愛に徹した生き方と、その帰結としての死、十字架の虐殺がただ一度全世界分の死を代わりに死んだという教え。そしてそのイエスが神によってよみがえらされ、霊となって今も生きている救い主・神の子であるという教えでした。貧しいガリラヤの民衆と共に歩み、その結果エルサレムの権力者によって処刑されたけれども、三日目に神によってよみがえらされ、ふたたびガリラヤで弟子たちと出会うイエス・キリスト。この方が目に見えず・耳で聞こえず・手で触れないけれども、弟子たちが共に礼拝をするときに必ずおられるという信仰です。霊として居るイエスを吸い込むこと、肚に宿すことができると信じるわけです。信者は共にイエスが居るということで生きる力を与えられ救われます。

今日は、十字架と復活と聖霊という視点から博士の物語を読み解いていきます。それが聖書の編纂の歴史にもキリスト教の歴史にも沿った素直な読み方だからです。イースター・ペンテコステ・クリスマスという順番で、キリスト教の祝祭日は確定していきました。言い換えればマタイ(教会)は、十字架・復活・聖霊への信仰を前提にして、クリスマス物語を付け加えたのです。クリスマス物語は十字架・復活・聖霊信仰を基に読み解くとわかり易いはずです。

「ユダヤ人の王として生まれた人はどこにいるのか」(2節)という質問は、イエスの罪状書きに対応しています。十字架刑の際、イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」(27:37)と書かれていました。もちろん罪状書きですから、もともとは「イエスという人物はユダヤ人の王と詐称した罪で公開処刑されているのですよ」という意味です。マタイはそれを逆手にとって、「イエスは生まれた時からユダヤ人の王だった」と主張したいのです。キリスト教信仰はこの種の逆転に満ちています。

現役のユダヤ人の王であるヘロデは、博士たちの質問にうろたえ、恐怖を覚えます。自分の権力を奪われると思ったからでしょう。ここまでは自然です。しかしなぜエルサレムの人々まで不安を抱く必要があるのでしょうか。ここも十字架から読み解くべきです。「民の祭司長たちや律法学者たち」(4節)とエルサレムの住民たちは、イエスに対する死刑判決を出させたユダヤ自治政府の最高権力者たちです。実際に死刑判決を出したローマ総督ピラトと、ここで殺人未遂を犯したヘロデ王の役回りが重なります。両者共に祭司長たちや律法学者たちの言葉に影響されてイエスを殺す側に回ったからです(5-6節)。

さらに、この時点で若手の祭司・律法学者が30数年後の十字架の時点でも生きていた可能性があります。たとえばアンナスのような人物です。その人たちは確信犯的にずっとイエスを殺そうとしていたことになります。クリスマス物語には人間の悪辣さを掘り下げる効果があります。そして著者マタイは、「本当のユダヤ人の王はヘロデのような詐欺(7-8節)を犯さないのだ」という確信をも持っています。自分にとっての邪魔者を冤罪をかぶせてでも、嘘をついてでも殺すという権力者の性質をマタイは暴いています。

博士たちはベツレヘムという地名と夜空の星を頼りに再び旅に出ます。このことは十字架刑の時に辺りが真っ暗になったという不思議な出来事と重なります。星に導かれるためには真っ暗な夜に移動しなくてはいけません。それは大変不規則な毎日なのですから体力的には厳しい旅です。そして闇の夜空を睨み続ける旅は精神的にもきついものです。しかしそうでなくては見つからない事柄があるものです。ここにも逆転の発想があります。

真っ暗闇の中、十字架でまさに殺されたばかりの死刑囚を見て、「本当にこの人は神の子だった」と言いぬくことができたのは、マタイ福音書によればただ一人でした。それはユダヤ人から見れば外国人であるローマ兵でした。ちょうど東方の博士が非ユダヤ人であったということとも重なります。ローマ兵は悲劇の極致・真っ暗闇・絶望に包まれる中でこそ、植民地の死刑囚の生き方と死に方に一筋の希望の光を見たのです。それは夜空を長時間睨み続けてやっと見えてくる小さな星のような希望の光です。

博士たちが献じた品物はどれも高価なものでした(11節)。その中でも「没薬」は死者の葬りのための香料です。明白に十字架刑の後の埋葬場面を想起させます。ヨハネ福音書によれば、ニコデモという弟子が持ってきた没薬を亜麻布と一緒にイエスの遺体に巻いていったのでした。十字架の時も博士訪問の時も母親マリアはイエスのもとに居ました。父ヨセフと墓を提供したアリマタヤのヨセフは同じ名前です。埋葬時の6人の弟子たちとここに集まる5人(以上)の人たちとは重なることが多いのです。

博士たちは夢のお告げで「ヘロデのところ(エルサレム)に帰るな」と命じられます(12節)。エルサレムを避けるという点で復活の記事と重なります。復活したイエスは、弟子たちと会うために先にガリラヤへ行かれているからです。そしてガリラヤとは、多くの弟子たちにとって「自分たちの国」なのです。マタイではほんの少しの言及ですが、ヨハネ福音書はガリラヤでの教会形成まで記述しています。中央エルサレムという権力の中枢から離れること、自分の場所で復活のイエスを礼拝する共同体をつくることが求められています。

以上述べてきたように、博士来訪の物語の下敷きはイエスの十字架と復活物語にあります。十字架と復活のイエスを救い主と信じている者が読む時に、「既視感」が生まれるようにできています。それが著作編集の意図です。悪辣な権力者たちによってイエスは殺されたけれども、敬虔な弟子たちの間でイエスはよみがえり、今も礼拝の対象となっているという信仰生活を確かなものとするためです。

このように考えれば、非ユダヤ人の博士が最初のキリスト礼拝(クリスマスという意味)を行ったという、不可解なそもそもの場面設定も分かりやすくなります。イエスの復活の後、神の霊・イエスの霊・聖霊を吸い込んだ者たちが教会をつくります。その時不思議な現象が起こったとされます。さまざまな言語を弟子たちが同時に使い始めたというのです。そして様々な地域から集まっていた人々が、その日のうちに教会設立に関わったというのです(使徒2章)。ちなみに12月2日に幼稚園父母の会から贈呈されたステンドグラスの主題となっているのは、教会設立・ペンテコステの事件です。

マタイは教会というものはさまざまな言語の人、文化の人、地域の人に開かれているものでなくてはいけないと主張しています。少なくともクリスマス物語の中に限れば、マタイは国際派です。マタイとその教会の者たちがこの福音書を書いた頃には、すでにキリスト教はインドの近くから(東端)スペインまで(西端)伝播していました。つまり博士たちの旅路は、決して日常とかけ離れた物語ではなく、自分たちに起こりうる身近な物語なのです。古代の人の脚力を侮ってはいけません。おそらく普通に教会生活を過ごしていれば、旅人であるどこかの地域の教会の者が当たり前のように時々来て、日曜日の夜となれば一緒に礼拝をし献金をしていたのでしょう。

言葉は通じないかもしれません。外観も異なるかもしれません。しかし霊というべきか魂というべきか精神性というべきか、「肚」とでも言うべきものが共通しているのです。「同じ自由な雰囲気を持っている」という姿勢が、キリスト信者にある・礼拝者にあるのです。さまざまな在り方・生き方に寛容である姿勢がイエスをキリストと信じている人々に共通しているものです。冷静に考えてメソポタミア地方に住む博士たちは、ローマ帝国の属国ユダヤの王が生まれたことを喜ぶ必要はあまりない人たちです。しかしそれを「面白い」と思える人たちだったのです。自由です。マリアとヨセフは、知らない「ガイジン」から分けのわからない言葉で語りかけられて、贈り物をもらって、住居不法侵入で訴えても良いのでしょうけれども、楽しんで受け入れています。自由です。多様性を楽しむ寛容な人々がここに居ます。しかもその中で最も小さい人物がこの交わりの中心であるのです。それは教会の原風景でありかつ理想像を映し出しているのです。聖霊信仰によって教会に集まっている人たちは、自分たちの教会と重ね合わせてこの記事を読むわけです。

だからこそ、マリアは聖霊によってみごもらなくてはいけないのです。「処女」降誕よりも「聖霊」降誕に深い意義があります。イエスが自由で多様性を楽しむ寛容な人だったからです。聖霊が内側(肚)に満ちている人はそのような生き方をします。そのイエスの霊を吸い込み肚に宿す者たちは、イエスに倣って自由な者となるのです。

今日の小さな生き方の提案は、自由な肚を持つということです。霊的な腹式呼吸の勧めです。大量の息を吐くことができる人は、同量の息を吸うことができる人です。さまざまな考えを肚に容れうる人は、さまざまな考えの人を繋ぎうる人です。小さな事柄にも喜べるし、大きな衝撃にも耐えられます。世の中は新鮮な驚きに満ちていますし、世の中は捨てたものでもないのです。

最近、ヘイトスピーチに関して良い判決が出ました。民族差別を公言することは人権侵害・名誉毀損と認定されたのです。排他的・非寛容な空気がつくられつつある闇の中で希望の星が与えられたと感謝しています。裁判所だけではなく教会も包含的・寛容な空気をかたちづくり、外へと吹き出していく使命を持っています。世界で小さくされている人が大切にされるなら、それによって教会は博士たち・マリア・ヨセフに倣う雰囲気をつくることでしょう。

教会に来ると心が軽くなったり肝が座ったりするなら、その教会はイエスの霊が宿っている教会です。すべての人は毎週の礼拝に招かれています。