人々の満腹 ヨハネによる福音書6章1-15節 2013年8月25日礼拝説教

八月の最後の日曜日、改めて平和について考えたいと思います。平和とは何か。それはすべての人が平等に満腹している状態です。漢字においても、ノギヘンは穀物を意味すると聞きます。ノギヘンに「口」と書く「和」という字は穀物を口にしている姿のように想像します。人々が口にする食べ物が平等に配られている姿に平和の実現を見ます。それは、今日の聖句に描かれている場面そのものです。だから永遠のいのちを生きることの具体例が、今日もまた一つ勧められています。それはパンを欲しいだけ分け与えるという生き方です。

さて、ヨハネ福音書の著者はマルコ福音書を読みながら、この場面を自分なりに描いています。細かな用語にわたって一致するので、著者がマルコを知っていたことは確実です。わたしたちはヨハネ福音書を少しずつ読んでいるのですから、著者ヨハネの言いたいことを汲み取らなくてはいけません。この場合、マルコと比べることが有益です。マルコになくてヨハネにのみある内容は、著者ヨハネが特別に言いたいことと推測できるからです。

一つの大きな特徴は、フィリポとアンデレの登場です。マルコには登場しない二人が名前を挙げられ、それぞれ発言しています(7・9節)。フィリポとアンデレが重要な弟子に格上げされていることは、ヨハネ福音書の特徴です。たとえば他の福音書では、最初の弟子たちは①ペトロ②アンデレ、③ヤコブ、④ヨハネの四人です。しかしヨハネ福音書だけは、①アンデレ、②匿名の一人、③ペトロ④フィリポ、⑤ナタナエルの五人なのです(1章)。

著者の意図はペトロの格下げにあります。ヨハネ福音書はペトロがあまり登場しない福音書でもあります。代わりに今日の二人や、またマグダラのマリヤに代表される女性の弟子たちが活躍します。このような仕方でペトロの権威を薄めているのです。

ヨハネが福音書を書いた当時、ペトロはすでに殉教していました。殺されたペトロへの畏敬の念は初代教会全体にあったことと思います。死者崇拝の一種です。カトリック教会が主張する「初代教皇がペトロだ」という教えの源はこのような一番弟子ペトロの神格化・権威化にあります。著者ヨハネはその権威主義に抗議をし、批判をしていると読みます。

著者ヨハネの時代、主の晩餐はかなり儀式として固定化されていたと推測されます。それは主の晩餐の執行者の問題となります。ありがたい儀式にはありがたみのある宗教者しか携われないという考え方です。つまり当時の普通の信徒にとって、5千人のパンを分ける奇跡において主人公となりうる弟子はペトロなのであって、決してフィリポやアンデレではないはずなのです。著者は、ここであえてフィリポやアンデレを登場させています。それによって晩餐の執行をする者は教皇や「お偉い方々」に限らないと主張しているのです。パンを分ける人はイエスだけです(11節)。弟子たちすら分ける側にいないのですから、弟子たち同士の上下差も、弟子と群衆(2節)との上下差もここでは無くなっています。ペトロだけでなく、すべての直弟子も格下げされています。

以前にもこの著者がバプテスマのヨハネを、「メシアでもなくエリヤでもなくあの預言者でもないただの人」に格下げしていることを申し上げました(1章)。同じ意図がここにも透けて見えます。神ないしは神の子イエス・キリスト以外の者たちは、すべて平等であるという考えが現れているからです。

今までのところをまとめると、平等ということが重要だと分かります。イエスの周りに座るときに真の平等がかたちづくられ、弟子も群衆も同じ高さで漏れなく全員満腹できるのです。このことはわたしたちに晩餐のあり方について教えています。霊としておられ目に見えない復活のイエスが唯一パンを分ける方であり(神の独り子)、弟子(牧師も含む教会員)と群衆(そこに集まって座っている人々の全体)は等しくいただく人(神の子ら)であるということをどのように表現したらよいのでしょうか。100%の正解は無いとしても、地上で信仰生活を送る上で、わたしたちは常にその時の最善の方法を模索しなくてはいけないでしょう。主の晩餐は平等の食卓を表現するものだからです。

第二のヨハネ福音書の特徴は奇跡(「しるし」)に対する批判的な態度です。もう少し丁寧に言い直すと、イエスの行う奇跡を見てイエスを信用するような態度への批判です(2:23-24、20:29参照)。しるしを見てから信じるような態度は、イエスへの全人格的な信頼とは言えないからです。

2節には大勢の群衆がイエスを追いかけた理由が、「病人たちにしたしるしを見たから」と言われています。また、14節には「人々がイエスのしたしるしを見て、この人こそ預言者だと言った」とあります。これらの群衆のあり方は否定的に言われています。15節にイエスがこのような人々を信用しないで交わりを避けている様子が書かれているからです。

イエスが大勢の人々に食べ物を奇跡的に与えたのは、自分の人気取りのためではありませんでした。自分がメシアとしてかつがれることも目的ではありませんでした。15節の「王」は世の終わりに登場する救い主メシアという意味です。イエスはここで王とされることを拒否しています。同じような意味合いでモーセの再来である「あの預言者」であること(1:21、申18:15参照)を証明するために「しるし」を行っているのでもありませんでした。ここでの群衆は、王と預言者を同じものとみなしています。いずれにしろメシアに対する熱狂的な待望をイエスは嫌います。言い換えれば、ヨハネ福音書は熱狂的な終末待望を突き放して批判します。たとえば「空中浮遊ができる教祖」を終末時のメシアとして熱狂的に迎え入れるような群集心理を批判しています。

では何がこの奇跡的な給食で言いたいことなのでしょうか。それは人々の満腹こそ救いなのだという単純な事実です。飢えている人々に「欲しいだけ分け与える」(11節)ことがイエスにとって重要です。

人々が集まった動機は不純です。しるしを見たから追っかけ行為をしたということでしょう。そして群衆は自己都合で飢えたのですから、「自己責任」と突き放すこともできるでしょう。しかし、イエスにとって空腹な人々がいるという現実が重要です。この人たちを現実に救わなくてはいけないという思いに駆られていくのです。永遠のいのちを生きる人は、困っている人を捨て置いて道の向こう側を通ってはいけないのです。

そしてイエスは少ないパンを分けるという方法で人々を満腹させました。満腹させる行為そのものが重要だった、だからこそその後の群衆の行動については批判的です。また、満腹させる行為が重要だった、だからこそ「少しも無駄にならないように、残ったパンを集めなさい」と弟子たちに命じたのです(12節)。また飢えた人が登場した時に、必ずこのパンが用いられるからです。それは自分たちかもしれないし他の誰かかもしれません。

伝統的にはこの残ったパンは、「パンの屑」(13節)と翻訳されてきました。しかし、直訳は「パンの一片」です(田川訳)。固いパンを割った時の細かい屑ではなく、割られた一片のパンのことを指す言葉です。よく考えてみればその通りでしょう。草むらの上に飛び散ったパン屑を集めることはほとんど不可能だからです。ということは、おかわりに当たるパン片が常に人々の手にあったということです。言い換えればそれは捨てるべき残飯ではなく、普通の食事だった、それを弟子たちは最後に集めたのです。

ここにはマナの奇跡以上のことが描かれています。あの時は各自が自分の分しか与えられなかったのです。自分のために取っておくと腐ったのです(出16章)。不当に取りすぎるな、同じ量だけ食べよということです。このような食べ物の配給は消極的な平等を実現させます。人々を信用していないからです。食べ物を蓄える人々は決して他人には配らない、自分のために食べてしまうという考えが大前提にあるからです。

それに対してこの場面でイエスは人々を満腹させ、残ったパン片を弟子たちに集めさせました。これは飢えている人に分け与えるための非常食です。つまり、「ただで与えられ、今自分の手の中にある食事を次の飢えている人のために差し出しなさい」と、人々に命じたのです。また、弟子たちに「集めた非常食をこの町に提供しなさい」と、命じたのです。ここには積極的な配給の仕方を見ます。人々の善意に期待し、人々を信頼しているからです。恵みとしてただで与えられた食べ物を、人々は大切に扱い、飢えて困っている人にただで欲しいだけ分け与えるはずだという、イエスの信頼があるのです。

欲しいだけ取っていいよと言われて三人分のパンを取った人が何をするのか、それはその人に任せられています。他の二人に分けることが期待されていても、なお本人がどうするか自由です。このような自由な良心に期待するのがイエス流です。そして教会がならうべき平和の作り方です。

世界中には全員が毎日満腹出来るだけの食べ物があります。しかし分配の仕方が偏っています。2割の富んでいる人が8割の食べ物を得、食べきれないものを毎日捨てています。さらに富んでいる国の内部でも飢えている人はたくさんいます。配り方が不平等です。だから平和が無い状態と言えます。

主の晩餐で残ったパン片は象徴的にこの世界のあり方を批判しています。この少しばかりの食べ物で飢えをしのげる人々と、教会は共に生きようとしているのかを問うています。わたしたちの自由な良心を揺さぶっています。「世界規模で考え実践は足元から」です。身近な人の飢えに自発的に少しでもお手伝いできればと思います。それが晩餐に与るものの責任でしょう。

1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災の時に、教会の体制が揺さぶられました。多くの被災者がキリスト教会など宗教施設を避難所として頼って来てくれたのにもかかわらず、その受け入れにおいて決して十分ではなかったという反省が、いくつかの教会から寄せられたからです。もちろん公共施設に対してより強い反省があったのですが、地域の人々にとって教会は準公共施設的な扱いであったということです。わたしたちは十二の籠いっぱいのパンを持っているのか否か、またどのように用いているのかが問われています。

災害時の宿泊場所・トイレ・食料・水・薬などの供給、奉仕をする人々の供給、公共施設を補う役割が教会に期待されています。また、公共施設ではできない隙間のサービスも期待されています。たとえば震災後、神戸地域ではホームレス支援活動が始まりました。被災者との出会いから、今まで気づかなかったけれども町にはホームレスの人々が多く居たということを教えられたからなのだそうです。家の無い苦しみを共に苦しんだ体験も後押ししたと聞きます。

いづみ幼稚園で災害に備えて常に新しい食べ物や水を備蓄していることはとても良いことです。幼稚園には公共性がありますから最低限度の備えをする必要があります。その上で、恐らく本当の災害時には、多くの見ず知らずの人も泉教会・いづみ幼稚園を頼って来ることも予想されます。教会ならば困っている人を救ってくれるだろうと、正しくも人々は期待しているのです。そういった場面でできる限り受け入れたいし、またそういった場面で、いづみ幼稚園でカレー作りを習った子どもたちが飢えている人たちの炊き出しをしている姿を夢見ます。平和をつくる人をつくりたいと願います。