主に背く 民数記14章36-45節 2023年12月31日礼拝説教

 前回までの話を振り返りましょう。カナンの地を前にして、モーセはヨシュアやカレブら12名の偵察をカナンの地に送ります。当初12名は全員主戦派だったと思います。40日の間探った結果、報告総会が開かれます。意外なことに偵察12名のうちヨシュアとカレブ以外の10名が「カナンの地に入るべきではない」ということを主張します。説得された会衆はその通り決議しました。その時ヤハウェの神が介入します。モーセの子孫だけを残して全員殺すというのです。モーセは神を宥め、妥協の結果として神は、「イスラエルは40年の間荒野を放浪せよ。その期間に自然死をとげる人々はカナンに入ることができない。荒野へ行け」という裁決をしました。

36 そしてモーセがその地を探求するために遣わした男性たちは…。そして彼らは戻った。そして彼らはその全会衆をその地についての報告を出させるために彼に接して泊まらせた。 37 そしてその地の報告を出させている男性たちは死んだ――悪〔女性名詞〕――、ヤハウェの面前にその疫病で。 38 そして、あの地を探求するために行ったこれらの男性たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは生きた。 39 そしてモーセはこれらの出来事/言葉をイスラエルの息子たち全てに向かって語った。そしてその民は(相互に)とても嘆いた。

 36節の「男性たち」は10名の意見が変わった人々です。この男性たちは報告総会での主張(13章32-33節)を、さらに「全会衆」(誇張あり)にも言わせるように仕向けたというのです。それは夜通しのことです。「泊まらせた」とあるからです。私訳のように訳すと、この男性たちの行為はヤハウェの裁決の後になされているとも読めます。彼らはヤハウェの裁決に大いに不満だったので、自分の天幕に戻って、エフライム部族・ユダ部族以外の大勢の人を動員して、夜通し抗議行動を取ったのかもしれません。夜の出来事であったということが、40節の「その翌朝」に呼応しています。

 恐ろしいことに、この10名の男性たちは「ヤハウェの面前にその疫病で」「死んだ」というのです(37節)。表現の自由や、集会の自由を脅かす出来事です。神の裁決に反対する意見は封殺されてしかるべきなのでしょうか。では誰が神の言葉を司り、代弁できるのでしょうか。また病気が神の裁きの結果で起こるかのようにも見えます。古代の本である聖書、特に旧約聖書には民主主義や人権思想は未発達です。せいぜいこの10名が批判されるべきは、夜通しの抗議行動はやりすぎであるという類の程度問題でしょう。モーセにも眠る権利はあるでしょうから。そして、この10名を神が疫病で殺したと明記していないことにも注意が必要です。13章12節のヤハウェ神の発言中の「疫病」と37節の「疫病」とは単語が異なります。病死も自然死の中に含めるのならば、この10名も荒野の40年間で死ぬべき人々の一部・先駆とだけとらえることもできます(29節)。すべての人は神の面前で死ぬのですから。

 37節「」という単語は浮いています。この意味は「良くないこと/災い全般」です。神は誰の死をも喜んでいないということか、あるいは著者が10名の死を悼んでいるのか、13章から14章までの経緯そのものがよろしくないということなのか、読者が考えて選ぶべきです。そしてこの女性名詞「」は直後の物語の伏線ともなっています(後述)。

 さてエフライム部族の「ヨシュア」と、ユダ部族の「カレブ」が「生きた」ということは(38節)、後の南北両王朝時代にエフライム部族が北イスラエル王国の中心となり、ユダ部族が南ユダ王国の中心となったことを予め伝えています。このような記事を原因譚と言います。「なぜあの二つの部族が中心なのか」という問いへの答えとなる物語です。以前に取り上げたヤコブの家族の物語も(特にヨセフとユダ)原因譚の一つです。重ね合わせて読むことです。

 モーセは10名に煽られなかった二部族を含め、「これらの出来事/言葉をイスラエルの息子たち全てに向かって語った。そしてその民は(相互に)とても嘆いた」(39節)。「嘆いた」は珍しい談話態で書かれています。相互/受身行為を示します。エフライムもユダも、相互に「災いだ」と言って、相手の嘆きを聞く受け手となって相互に嘆いたというのです。麗しい光景です。しかし、この麗しい悔い改めの只中で、大いなる勘違いが生まれます。取り戻せないことを取り戻そうとする努力です。時すでに遅しということがあります。

40 そして彼らはその翌朝起床した。そしてその山の頂に向かって登った。曰く「見よ私たち。そして私たちはヤハウェが言った場所に向かって登るのだ。なぜなら私たちが罪を犯したからだ。」 41 そしてモーセは言った。「なぜこれが〔指示代名詞男性単数〕。貴男らはヤハウェの口を渡過している。そして、そのこと/彼女は栄えない。 42 貴男らは登るな。なぜならヤハウェは貴男らの真ん中にいないからだ。そして貴男らは貴男らの敵の面前で撃たれてはならない。 43 なぜならそのアマレク人とそのカナン人とは貴男らの面前に、そこに(いるからだ)。そして貴男らはその剣によって落ちるのだ。なぜなら、それゆえに、貴男らがヤハウェの後ろから戻ったのだ。そしてヤハウェは貴男らと共に居ない。」 

 40節「ヤハウェが言った場所」とは、広い意味ではカナンの地全体のことを指すと思われます。狭い意味では「ネゲブ地方にある山」(13章17・22節)のことでしょう。カレブも「私たちは絶対に登ろう」(同30節)言っています。悔い改めた民の一部は、「あの山に登ることを止めた決議が無効になったのならば、今登れば罪を償うことになる」と考えたのです。

 モーセは反論します。なぜこの行為をするのか、時すでに遅しである、と。「貴男らはヤハウェの口を渡過している」(41節)。言葉は発した瞬間にしか有効ではないのです。民は神の言葉を無視して、通り過ぎています。一度通り過ぎた神の言葉に従おうとしても不可能だということです。神の言葉は生ものです。「そのこと/彼女は栄えない」は示唆に富みます。「そのこと/彼女は」、直前の「これが」と同じではありません。男性代名詞と女性代名詞の違いがあるからです。ふわっと全体のことを指すのか(そのこと)、以前に登場した女性名詞を指すのか(彼女)、どちらもありえます。曲芸的な解釈ですが、37節の「〔女性名詞〕」も不可能ではありません。悪は栄えないというメッセージもここには隠されています。過去を取り繕おうとすること、一所懸命に言い訳を探すことは悪/災いであり、良い悔い改めとは言えません。過去は取り戻せないものです。あの時うまく行ったであろうことは、この時には通用しないので新たな道を行くしかないのです。神は既に25節の時点で「明日貴男らは向きを変えよ…その荒野(へ)、葦の海の道(で)」と、新しい歩みを示していました。一回目の「山へ」も、二回目の「荒野へ」も、通り過ぎて無視するのは良くないのです。

 インマヌエルの信仰をクリスマスで養った私たちには衝撃的ですが、神は私たちの「真ん中にいない」ことや、「共に居ない」ことがあると、本日の聖句は言い抜いています(42・43節)。神が共に居ないから悪を行うのか、それとも悪を行った結果として神が共にいなくなるのか、モーセの言葉は二つともに含んでいます。「なぜなら、それゆえに」と相反する言葉が連続しているからです(43節)。つまり神は「おかわり」があると期待する民と、最初から最後まで共におられないのです。この類の悪は栄えてはいけません。神が侮られるお方ではないからです。

 モーセは単純に神のすぐ後ろを歩くようにと勧めています。信従です。そこから離れていくことは、悔い改め(「戻る」43節)と称しても、良くないことなのです。アマレク人・カナン人を、ただ単に「」(42節)とみなして、剣をもって向き合うことは、「剣によって落ちる」(43節)だけのことです。剣を取る者は剣によって滅ぼされるからです。「登るな」「撃たれてはならない」とモーセは強く命じています(42節)。しかし民はその言葉を無視します。モーセは制止しないで自由に任せます。40節ですでに民の一部は登って行ったように読めます。早朝モーセは速足で目の前を過ぎ去る男性たちに向かって声をかけているという状況なのでしょう。

44 そして彼らはその山の頂に向かって構わず登ることをした。そしてヤハウェの契約の箱とモーセは、その陣営の真ん中から動かなかった。 45 そしてその山の中に住んでいるアマレク人とカナン人とは降った。そして彼らは彼らを打った。そして彼らは彼らを砕いた、その絶滅/ホルマまで。

 ヤハウェの契約の箱」(44節)は神の臨在を象徴しています。神は共に居ないということをモーセは言いたいので、箱の帯同を許さなかったのです。もちろん箱と関係なしに神はどこにでも居ることができます。箱があっても敗戦することもありますから、箱と勝敗は関係ありません。

 結果はモーセの予告・警告どおりとなりました。「その山の中に住んでいるアマレク人とカナン人」は、イスラエルの民を剣で滅ぼしました。「ホルマ」を新共同訳(ギリシャ語訳も)のように地名とも考えられますが、ここは冠詞が付いているので、「その絶滅」と考えることもできます。アマレク人とカナン人は、明後日の方向に悔い改めた民を、徹底的に滅ぼし尽くしました。

 13章から14章は何とも釈然としない物語です。神はなぜ偵察を命じ、偵察結果の異論を封じ、異論のゆえに懲罰として荒野の回り道を命じるのでしょうか。ならば偵察などせずにさっさと侵略すれば良かったのではないでしょうか。ヨシュア記のイスラエルによる軍事占領の成功物語を読むとそのような方向に行きそうです。しかし軍拡路線の結果バビロン捕囚へと突き進む南北両王朝の歴史からは手放しで軍事占領が勧められてもいません。また1948年以来続くイスラエル軍の不当な軍事占領を見る時に、侵略肯定の解釈は慎むべきでしょう。むしろこの物語で「良くないこと」とされている事柄を見抜いて、現代に生きる神の警告を聞きたいと思います。

 良くないことの一つは生命を軽んじることです。神はどのような死も、ましてや殺されることを悲しみます。あらゆる生命の創造主だからです。荒野へ行き、アマレク人・カナン人との接触を避けることが、より多くの生命の保存になるのならばそれは良いことです。

良くないことの二つ目は「ヤハウェの口」を軽んずることです。「おかわり」を期待することや、言い訳・開き直りに気をつけたいものです。その時々に批判された事柄は、その時々に率直に悔い改めれば良いのです。

 今日の小さな生き方の提案は、より多くの生命を守ることを行動の基準にするということです。それは自分の生命も、隣人の生命も、「敵」の生命も含まれます。そのために人生を回り道することがあっても決して悪くありません。そしてその時々の福音(裁きを潜り抜けた赦し)のすぐ後ろを歩く癖をつけたいと思います。キリストの福音は必ず裁きを含む赦しです。義を伴う愛です。わたしたちの言い訳や開き直りを厳しく指摘しながら、そのあなたをも愛するという愛です。全ての生命を活かす言葉に従ってまいりましょう。