主を試みてはいけない ルカによる福音書4章9-13節 2016年7月17日 礼拝説教

30年ほど前に『最後の誘惑』という映画がありました。イエスの生涯を描いた映画で、保守的なキリスト教徒から上映中止運動が巻き起こったことで記憶に残っています。この映画の中で、真理を衝いていると思う場面があります。それは、神の子イエスにとっての最後・最大の誘惑は、十字架から降りることだったということです。映画の題名にもなっていますから、おそらく映画製作者たちの主張は、そこにあります。そしてその考え方は、福音書記者たちにも通じるものです。

十字架に架けられたイエスに向かって、人々は「お前が神の子なら十字架から降りて、自分を救ってみろ」「今すぐ十字架から降りよ。そうすれば信じてやる」などと、叫びました。イエスの受けた最後の誘惑は、「自分を救う」という試みです。

今日の箇所、三つ目の悪魔からの誘惑は、十字架上での最後の誘惑と関わっているように思えます。どちらもエルサレムという場所での出来事であるし、どちらも高いところから降りる行為だからです。そしてイエスはどちらの場面でも降りることをしませんでした。神によって救われることや、自分自身を救うことを選びませんでした。福音書に記されているイエスは、悪魔のささやきに打ち勝っています。

キリスト信仰は生活に役立ちます。さまざまな誘惑が飛び交い、わたしたちを飲み込みそうになりますが、わたしたちはキリストの背中に従うだけで、誘惑に打ち勝つことができるからです。所有欲や支配欲。自力で悪魔のささやきに勝つことはできないでしょう。しかし、活動の最初から最後まで誘惑に勝った方の背中に隠れるかたちならば、わたしたちは前に進むことができます。アメリカンフットボールで、ボールを持つ選手が、リードブロッカーの背中に付いて前に進むようなものです。

さて、今週の箇所は三つ目の誘惑です。神を試みるという誘惑です。神に試験を課して、及第点を取ることができるならば、神として認めるという態度です。「神の子なら神殿のてっぺんから飛び降りても大丈夫だろう。飛び降りて無傷ならば神の子として認めてやる」というわけです。この誘惑もイスカリオテのユダという人物を通して、読み解きたいと思います。

ユダはなぜイエスを権力者たちの手に引き渡したのでしょうか。所有欲や支配欲のためであったと先週まで申し上げました。それはその通りです。ただ、もう少し信仰に引きつけて、ユダの心のうちを推測してみても良いでしょう。ユダヤ人権力者に、自分の師匠であるイエスを売り渡す動機は、どこにあるのでしょうか。熱心なユダヤ教徒であるユダにとって、イエスがメシア・神の子なのかどうかが最後まで重要な問いであったと思います。今日の箇所で悪魔が聖書をもってイエスに問答を仕掛けていることは、三つ目の誘惑が「信仰とは何か」を正面から取り上げていることを証しています。

つまり、ユダの裏切りは、ユダによるイエスに対する試験です。絶体絶命の状況を作り出し、そこから見事に脱出できれば神の子・メシアとして信じるけれども、そうでなければ神の子でもメシアでもないと考えたかったのではないでしょうか。そのような信仰で良いのかという問いが重要です。

ユダは親しい友人同士が交わす接吻によって、権力者たちにイエスを特定させ、イエスを引き渡します(22章47節)。接吻による引渡しにユダの二面性が現れています。イエスが試験に受かって自分の友であり続けて欲しいという気持ちと、試験に落ちるぐらいのイエスならば殺されても構わないという気持ちです。神の子なら天使たちの軍団が来て、ユダヤの官憲もローマ兵も蹴散らすはず(マタイ26章53節参照)、そうでなければ逮捕されてしまえ・処刑されてしまえという考えをユダは持っていたことでしょう。ユダは主イエスを試したのです。ここには意地悪をもとにした「やれるものならやってごらん」という態度があります。

だから、ルカ福音書のユダは、決して後悔をしません。マタイ福音書のユダはイエスを引き渡した行為を悔いて、売り渡しの代金である銀貨30枚を神殿に投げ捨て、首を吊って死にます(マタイ27章3-10節)。殊勝です。実に深刻な罪の自覚がマタイ版のユダにはあります。

それに対してルカの描くユダは、のうのうと売り渡した代金を使って首都エルサレムの庭付き一戸建て住宅を購入します。彼の死は、後悔の果ての自死ではなく、事故死や他殺のように読めます(使徒言行録1章18節)。ユダからすれば、イエスが試験に合格しなかった末に十字架で殺されたのだから、ユダには後悔する理由がありません。十字架という高いところから降りたら信じてやると思っていたユダが、高いところから転落して死ぬことは、著者ルカによる強烈な皮肉です。神を試すような生き方は結局破滅を呼び込むだけだと言いたいのでしょう。

著者ルカによれば、ユダの死によって「十二弟子」に欠員ができたとされ、くじ引きによって補欠選が行われます。ヨセフとマタティアというこの場面にだけ登場する弟子によるくじ引きです。結果、マタティアが十二弟子に繰り上げられます。この記述は、ユダが十二弟子であったことそのものを否定しようとするものです(同26節)。この部分については、わたしはルカの創作だと思います。候補者のヨセフとマタティアの名前が、イエスの系図に何度も出てくることからも(ルカが好んで用いる名前)、創作の可能性は強いでしょう(ルカ3章24・25・30節。なお同系列のマタト、マタタという名前も多用)。

ルカは、ユダに関する記述を通して、神を試す行為が重大な罪であるということを言いたいのです。キリスト信仰は、神を試すという発想や生き方と正反対にあるからです。

神を試すこととは、自分にとって都合の良いことをしてくれる神だけを信じるという姿勢です。たとえば、さまざまな宗教や信仰が、わたしたちの前に並んでいるとします。スーパーマーケットに陳列されている食品のように、わたしたちが試食をすることができるとします。つまみ食いのように少量の味見をして、自分の舌に馴染んだものを、自分の神として信じることができるでしょうか。それは神ではなく、自分の好みに過ぎません。もし神であるならば、わたしの味に合ってみろ、わたしの味を言い当ててみろという態度が問題です。

子どもはしばしば周りの大人を試します。自分にとって都合が良い大人であるか、それともそうでないかを知りたいからです。そこで選ばれた大人は、その子どもに尊敬されているのでしょうか。そうではありません。侮ることができ、従わせることができる奴隷として、指名されているに過ぎません。

子どもは自分の親がしばしば自分にとって都合が良い大人ではないことを知っています。親は子どもに社会性や生活力、体力を身に付けさせるために、さまざまなことを要求したり、禁じたりします。親は口うるさい存在です。言うことを利かすことは難しく、むしろ子どもの方が服従しがちな関係にあります。不都合な存在です。

しかしだからと言って、子どもは自分の親を信頼することをやめません。虐待などの深刻な事例にあっても、子どもが親を信頼する場合には痛ましいほどです。卵が欲しいと言っているのにサソリを与えるような意地悪を親は決してしないと、子どもは信じているからです。

良きにつけ悪しきにつけ、子どもの親に対する信頼は、聖書の信仰の典型例です。イエス自身が、神を「アッバ(お父ちゃん)」と呼んでいるからです。イエスの親である神は、イエスにとって都合の良い大人ではありませんでした。「困っている人の隣人となるという、きついけれどもやりがいのある活動をせよ」と使命を与える親でした。隣人愛の教えと実践です。力を濫用して隣人を貶める者への批判です。十字架という不利益にまで至る道を、アッバはイエスに要求しました。

イエスは、神を試すことはしませんでした。都合の良い求めを受け入れてくれる神を神として認めて「信じてあげる」という態度ではなく、神から苦い盃をもらっても「何ごとか良い出来事が起こると信頼して」あえて飲むという道を選びました。ここに神を試さない生き方の模範例があります。

わたしたちは宗教を選ぶときに、いくつかを試して自分に合ったものを選ぶのでしょうか。宗教を選ぶとき、あるいは、宗教団体を選ぶとき、そういう態度や実践もありえることでしょう。しかし、そのことは真に神である方を選ぶことにはならないと思います。神を試してはいけないし、実際、わたしたちに神を試すことはできないからです。人間に試験を課されるような神は、神ではありえません。それはただ自分の願望の投影に過ぎないものです。

そうではなく、聖書の証言する神はわたしたちを選ぶ方です。いくつかの試食によって選ばれる方ではなく、わたしたちの人生に介入して、わたしたちを選び導く方です。多くの信徒は、いくつもの宗教や、いくつものキリスト教内教派をつまみ食いして、神々を並べて選んでいません。「たまたま」近くにあった/知り合いが行っていた/興味を持った/幼稚園があった/紹介されたなどの理由で、教会を訪れるのです。この「たまたま」という偶然性に、神の導きの手を見るべきです。

神はわたしたちの祈りを喜ばれます。子どものように素直な願いを口にして祈ることが大切です。逆に、都合の良い大人を選定するかのような祈りはだめです。「この願いを聞き入れてくれるならば、神として信用する」という祈りは、神を試みる行為です。間違えてはいけません。神はわたしたちに侮られる方ではないのです。

わたしたちが虚心坦懐・素直に祈り続けても、神は願いを聞き入れない自由を持っています。神が神であるから、わたしたちは神を支配できません。そのような神をなお信じ続ける得はあるのでしょうか。

得はあります。一つは、意地悪な「やれるものならやってみろ」という考え方から解放されることです。神に対しても人に対してもこの類の意地悪を持つべきではありません。

もう一つは、比喩的に言えば、「食わず嫌い」からの解放です。試食の発想は、好きなものしか食べないこと、新しいことへの挑戦をあきらめることへと人生を導きます。自分の願いとは違う新しい挑戦は神からも人からも起こりえます。その未来の可能性に、常に開く生き方がキリスト信仰によって、養われます。祈り願ったことと別の出来事が起こり、違うかたちの満足が与えられることも信者にはしばしば起こります。その偶然性を喜ぶときに人生は豊かになります。

今日の小さな生き方の提案は、「とりあえずやってみよう」という行動です。聖書が語るので、キリストが命じるので、聖霊が促すので、神に試されながら新しい挑戦にとりくんでみようと考えることです。