人の子の前に立つ ルカによる福音書21章29-38節 2018年8月12日礼拝説教

ルカ福音書のイエスは、エルサレムに滞在した一週間を野宿で過ごしています。「日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」(37節)とある通りです。マルコ福音書のイエスが、ベタニア村とエルサレムを往復しているのとは対照的です。史実はマルコの伝えるところにあると思います。マルタ・マリア・ラザロ/ハンセン病患者シモンの家が定宿となっていたのでしょう(マルコ11章1・11・12・15・19・20・27節、同14章3節)。ルカはあえてそれを変えます。それによって、読者に物語の一貫した筋を印象づけています。それは野宿の旅です。

イエスの両親は一般の宿に泊まれず、馬小屋に「野宿」し、赤ん坊のイエスを飼い葉桶に寝かせます。それに対応して、野宿をしながら羊の番をしている羊飼いに、天使はメシアの誕生を告げます。12歳の少年イエスは両親を離れエルサレム神殿に野宿をし、聖書を解き明かししています(2章)。成人したイエスは故郷ナザレを追い出され野宿の旅が始まります(4章)。特にガリラヤを出てからエルサレムに到着するまで、長大な野宿の旅を続けます(9章51節-19章27節)。やっと入ったエルサレムでも、イエス一行は野宿をしていたのだとルカは語ります。そして民衆は野宿者イエスを朝早くから神殿を占領して待ち構えて、聖書の解き明かしを喜んで聞いていたのだというのです(38節)。

旅空を歩む救い主。野宿者イエスの姿は、徹夜をして祈るイエスの姿と重なります(6章12-16節、22章39-46節)。旅はいろいろな意味で人を覚醒させます。枕をするところが無い時に、人は目を覚まして神に祈るものです。ルカ福音書はわたしたちの人生という旅について示唆をしています。

先週までの話でも、ルカは世界の終わりという話をしているようでいて、実は日常生活についての話をしていると申し上げました。終末に来るであろうイエスの話をしているようでいて、すでにここまで来ているイエスの話をしているのです。このような考え方を「現在終末論」と神学者は呼んでいます。本日の箇所も、その考え方に則って読み解きます。

最近『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)という哲学書を読みました。「新しい実在論」の提唱者です。体系だった世界などというものは存在しない、むしろ「意味の場」だけが存在するというのです。言わんとするところは、33節に通じます。「天と地は過ぎ去るだろう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らない。」(私訳)

世界が何でできているかを説明しきれても(たとえば素粒子から成る物質の集合体でしかない等)、もしも自分の人生について説明できないならば、科学は謙虚にならなくてはいけません。もし天地創造や歴史の終わりについて説明できても、自分の今日を生きる意味について説明できないならば、神学もまた謙虚にならなくてはいけません。体系だった「世界=天地」などは存在しない。過ぎ去るべきものです。むしろ、人を生かす言葉、人生を生き生きとさせる出来事こそ、決して過ぎ去らないで実在するものです。少なくともその人にとって意味があって忘れられない言葉や出来事こそ、厳として「永遠に」存在するものです。このような無数の「意味の場」こそが実在します。

たとえば世界の終わりについて納得できる答えを考えついたとしても、もしたった今自分の命の終わりが来たら何になるのでしょうか。その人にとってそれは、ある意味の世界の終わりです。その人のいない世界が残っても、自分の命を失ったその人にとってその世界とは何の意義があるのでしょうか。

ルカ教会が直面していたのは、今のような事態です。イエスの昇天後40年以上が過ぎています。世の終わりにもう一度来るイエスを熱狂的に待っている間に、多くのキリスト者が亡くなりました。パウロもその一人です。教会は、葬儀をあげながら人生の旅を終える教友を、次々に見送っているのです。葬儀説教や毎主日の説教で指導者(ルカ他)は何を語るのでしょうか。「もうすぐ世界の終わりが来る。日常を忘れて、放浪の旅に出よ」と語るとは思えません。

むしろ、34-36節のように諭すものです。34-38節はルカ福音書にしかないことにも改めて注意が必要です。ここはルカ教会の信徒たちだけが共有している部分です。概略次のような趣旨です。

「いつ来るか分からない『その日』に備えて、日常生活を整えなさい。二日酔いや深酒をしないように。そうでないと不意打ちのように『その日』が来てしまう。いつも目を覚まして祈りなさい。そうすれば人の子の前に立つことができる。そうすれば『その日』がいつ来ても、不意打ちにはならない。人生の旅を、品位を保って過ごしなさい。」

ここで「その日」というのは、世界の終わりの日という意味と、人生の終わりの日という意味を込めているように思えます。「さもないと罠のように、その日は地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」(35節)という言葉は、個人の死についても当てはまります。細かい話ですが、「罠のように」は34節ではなく、35節の単語です。地球上のすべての人は死ぬし、死についての備えがないならば、死はどんな人に対しても罠のように襲いかかるものだからです(イザヤ書24章17節も参照)。

そしてルカ福音書は、「世界の終わりはすぐには来ない」(9節)という主張を、29-33節の段落でも繰り返しています。マルコ版イエスが「いちじくの木」のみについて語るのに対して、ルカ版のイエスは「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」(29節)と言うからです。いちじくは選民イスラエルのたとえとして用いられることがあります(ホセア9章10節)。

後70年に集結したユダヤ戦争によって、ローマ帝国軍がエルサレム神殿を徹底的に破壊し、イスラエル国家を滅亡させたことは世界の終わりの前兆なのかどうかは、当時のキリスト教会にとって大問題でした。この出来事を、いちじく(=選民イスラエル)に葉が出始めたと考えるのかどうかです(30節)。

それに対してルカ版イエスは、「ほかのすべての木も見なさい」と言います。「異邦人(非選民)の時代」がユダヤ戦争によって開始されています(24節)。そして「この時代/種族(ゲネア)は決して過ぎ去らない」(32節)のです。いちじくだけを見ないで、今まで選ばれていなかったすべての木(民/種族)に、すでに葉が出始めていることに気づく必要があります。ルカ自身もギリシャ人です。ルカの教会にも非ユダヤ人は多かったと思います。その人々が使徒言行録を著作編纂し、マルコ福音書を大幅に改訂したのです。

多言語のユダヤ人を始め(使徒言行録2章)、ギリシャ語を話すユダヤ人(6章)、サマリア人(同8章)、エチオピア人(同8章)、ローマ人(同10章)、キレネ人(同13章)、ギリシャ人(同14章)等、非ユダヤ人たちがキリスト者になっているという出来事から、すでに夏が近づいたことがおのずと分かります。使徒言行録を読んで、これらのことが起こるのを見たのだから、神の国はすべての民に近づいていると悟るべきです(31節)。キリストの福音の言葉がすべての民の只中で語られているからです。神の国は、わたしたちの只中にあるのです。

 もちろん、「すべてのことが起こるまでは」(32節)とか、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて」(36節)とかの言葉には、将来起こる終末の苦難への備えや、人の子イエスが将来来つつあるという期待が示唆されてもいます。現在終末論に対して、神学者は「将来終末論」と呼びます。ここで申し上げたいことは、これらの「世の終わりについての教えが聖書の中にはない」とか、「将来終末論を軽視すべき」とかということではありません。

 将来終末論にも大きな長所があります。特に苦しみの中にある人々、人権が奪われている人々、今も戦争・紛争・暴力によって命を脅かされている人びとにとって、世界の終わりこそが希望である場合が多いからです。世の終わりについての教えは、絶望する民にとっての希望の神学です。世界の平和ということを考えるときに、これを過小評価してはいけません。

過小評価ということではなく、単純な指摘をしたいのです。「ルカ福音書のこの文脈の中では、将来の終末や、熱狂的な終末待望、世界の終わりの前の苦難等が、後ろに遠退けられている」という端的な指摘です。

それによって、ルカ教会が今を生きる力を得ようとしているということが重要です。「いつか来るメシアへの信仰」というだけではなく、それ以上に「今ここにおられるメシアへの信仰」を前に出しているということです。その姿勢が、わたしたちにとって有益です。

一回だけの人生という旅を、わたしたちは有意義に過ごしたいと考えています。だからキリスト信仰に興味を持ち、キリストの霊に捕まりました。だから、日曜日の朝早くに起きて、わざわざ教会の礼拝に集っています。それは、今・ここで・共にキリストの近さを感じるためです。そして、キリストの前に立ち、福音を聞くためです。いつか・どこかで・不特定多数の世界中の人とではなく、今・ここで・共に、神の国がここにあると信じて行うために、わたしたちは礼拝をしています。

わたしたちは平日、自分の小ささばかりを思い知らされます。大いなるものとの「隔たり」を感じます。世の中は自分の意思が通らないことばかりです。自然、国家、地域、会社、学校、家庭、思い通りになりません。居場所についての葛藤が、「果たして小さな自分に生きている意味があるのか」という問いを生みます。この問いは誠実で鋭敏なものです。傲慢な人・心が鈍い人はこういうことは問いません。しかし正にそれだからこそ、戻ってくる場所がない時に(回答が常に「否」である場合に)個人の生命を損なう致命的な問いとなりえます。隔たり・距離・遠さだけでは、人は生きない。人を生かすのは大いなるものである神との近さでもあります。または、遠近を感じる循環です。

罪人であることを常に知る謙虚な祈りから、神の言葉を聞き分けて「あなたは良い」という福音を受け取り、神を賛美する。しかしまた日常の出来事で落ち込み、小ささを思い知らされ神に祈る。週日と主日の繰り返し循環が、わたしたちを生かします。ある日突然天に召されても良いように、毎日・毎週、目を覚まして祈り・聖書を読み聞き・すぐ近くにいるイエスの前に立つ。これを続ければ、わたしたちは人生という旅を、たとえ野宿を続けるような辛さを感じても、終わりまで歩き続けることができます。

今日の小さな生き方の提案は、一日一日、一瞬一瞬を誠実に生きるということです。人の子イエスの前に立ち、救い主と共に旅をする人生・日常生活というものは、そのような注意深い野宿なのです。

日常生活は良くも悪くも荒野にたとえられます。わたしたちはそこで自分の小ささを学びます。謙虚さを学ぶだけでは身がもちません。学びと称するハラスメントもあるかもしれないからです。「あなたは大きな羊だ。美しい。良い」と常に言ってくれる羊飼いが荒野の旅に必要です。こういう言葉はいつまでも過ぎ去ることはありません。福音を受け入れましょう。主は近い。そうすれば日常を諦めないで生きることができます。