何回も 創世記35章9-15節 2019年9月22日 礼拝説教

 本日の箇所には今までの物語で起こったことの繰り返しが多くあります。たとえば、ヤコブの名前がイスラエルと変えられることは(10節)、32章29節ですでに神から告げられています。また、ヤコブがルズという土地の名前をベテルという名前に変えたことは(15節)、28章19節にも記されています。28章18節は、ヤコブが記念碑を立てその上に油を注ぐということまで書かれていて、そっくりです(14節)。このような現象を学者たちは「重複」と呼びます。そして同じ出来事について重複して記載するという現象を、創世記から申命記までがいくつもの「資料」のツギハギであることの根拠としてきました。

 仮に聖書がかたちづくられる過程としてはそうであるとしても、そのような学説を知らない読者は「何回も同じことが繰り返されている」ということとしてしか理解できません。くどい叙述だというわけです。わたしたちは、このくどさにもメッセージを汲み取るべきでしょう。というのも、聖書研究の第一のコツは繰り返されている言葉が鍵語であるということにあるからです。実際、先ほど挙げた人や土地の命名以外にも、本日の箇所の中にも繰り返しがあります(「神は彼のために言った」という表現や、「神がヤコブと語った場所」という表現)。また、ヤコブ物語を超えて、もっと大きなメッセージとしての繰り返しもあります(「あなたは産め、あなたは増えよ」という表現や、「エル・シャダイ」という表現)。

 つまり、それほどにイスラエルやベテルという名前は重要であるということです。どのような意味で重要なのかを考えましょう。その際に、さきほど紹介した、さまざまな繰り返しが示唆を与えます。大まかな結論を言えば、イスラエル(神はたたかう)という名前の民は、ベテル(神の家)を名実ともにかたちづくることに取り組み続けなくてはいけないという教えが、ここには込められています。教会は「新しいイスラエル」です。だから、教会は神の家になるようにと勧められています。

「そして神は、彼がパダン・アラムから来た時に、再びヤコブに見られ、彼は彼を祝福した。そして彼のために神は言った。『あなたの名はヤコブ。あなたの名は再びヤコブと呼ばれない。そうではなくイスラエルがあなたの名と成る』。そして彼は彼の名をイスラエルと呼んだ(9-10節)」。

 イスラエルと教会において神は見られます。旧約聖書も新約聖書も、「神が現れる」という出来事を「神は見られる」と表現します。復活の主イエスも、弟子たちに見られたのです。たとえば、こどもさんびか16番のように、パンとぶどう酒を分け合うときに、わたしたちは復活の主イエスを共に見ています。神が見られる礼拝をかたちづくり続けなくてはいけません。

 「彼(イスラエル)のために神は言った」という言葉が繰り返されています(10・11節冒頭)。神が見られる礼拝は、神が会衆のために語りかける礼拝です。福音を聞く礼拝です。言い換えれば、神の祝福(9節)が必ず語りかけられる礼拝。ここで祝福は、わたしたちの名前が変えられることであると言われています。わたしたちの功績によらず、ただ恵みによってわたしたちは「神の民イスラエル」にさせてもらいます。何度も繰り返されなければ忘れます。「あなたの存在がすばらしい」、「あなたも神の似姿・あなたたちも神の民」という語りかけ、この祝福・福音がわたしたちを活かすのです。裏側から言えば、説教者は会衆のためにならない発言(人権侵害・個人攻撃)を厳に戒めるべきです。神が見られ、神が祝福を語る場が、神の家としての教会です。

 「そして彼のために神は言った。『私はエル・シャダイ。あなたは産め、あなたは増えよ。国と国々の会衆があなたから成る。また王たちがあなたの腰から出る。そして、私がアブラハムのために、またイサクのために与えた地を、あなたのために私は与える。そしてあなたの後のあなたの子孫のために、その地を私は与える』」(11-12節)。

 11-12節の神の言葉は、ヤコブ物語(25-36章)を超えた大きな物語を含んでいます。それは天地創造物語・ノアの洪水物語・アブラハムとサラの物語・ダビデ王と子孫たちの物語、そして教会の物語です。「産めよ・増えよ」は、全聖書を通じて神から人への最初の命令です(1章28節)。それだからユダヤ教の伝統では最初の律法と数えられます。創世記から申命記まで合計613ある命令の第一番目です。アブラハムにも紹介された「エル・シャダイ(伝統的に「全能の神」と訳される)」という神の名前も、ここでは「乳房の神」という意味かも知れません(17章1節)。出産や乳母デボラと主題で一貫します。

この命令は、性差別の観点からは批判されるべきです。女性は「産む機械」ではないからです。また「生産性がない」ということが同性愛者に対する攻撃として用いられているからです。しかしこの命令には、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)をくぐり抜けて新たな意義が見出されています。自らの人生に意味があるのかを深く問い直したユダヤ人たちは、意味もなく殺される被害のただ中で「614番目の律法」を生み出しました。それは「生きよ」という命令です。理由は分からないけれども生きること・生存しつづけることを、「産めよ・増えよ」の拡大解釈として生み出したのです。この解釈は同じ命令が、洪水という破局を生き延びたノアの家族にも向けられていることからも、説得力を持っています(9章7節)。

 毎年二学期の始めには大勢の若者たちの自死が問題になります。こんな異常な国は日本だけです。神の家(ベテル)である教会は、とにかく「生きよ」と宣べ伝え、「神が共にあなたの人生と葛藤し続ける(イスラエル)のだから生き延びよ」と語り続けなくてはいけません。人権侵害を被っているすべての人々にも同じです。加害者に対する裁きと同時に、被害者に対する「生きよ」が語られなくてはならないのです。

 ヘブライ語の詩は同じような意味の繰り返しを重んじます。それによって類義語が分かるという利点があります。この箇所では、「国と国々の会衆」が、「王たち」と同じ意味の言葉です。「国」はダビデ王によって建てられるイスラエル王国のことです。だからイスラエルという名前をヤコブが持つことは重要です。神がアブラハム・イサクに与えると約束した地に、ダビデはイスラエル王国を建てました。ダビデの王国創立をヤコブへの神の約束の実現とみるのです。イスラエルという名付けは手付/預言の一種です。創世記から列王記までの「九書」(ルツ記を除く)はひと繋がりの物語です。

「国々の会衆」は、イスラエルという国が滅亡した後の「ユダヤ人信仰共同体」を指します。イスラエル王国滅亡後に、約束の土地をイスラエルは失いました(紀元前587年)。バビロン捕囚です。しかしイスラエルが散らされることによって、かえってどんな国の人もユダヤ人になること、会衆の一員になることができるようになりました。ユダヤ人共同体は地中海周辺一帯に広がります。それらの礼拝共同体がキリスト教会の苗床となったのです。パウロたち初代教会は、散らされたイスラエル(シナゴーグを中心にしたユダヤ人共同体)を拠点にしながら、ユダヤ人以外の人々をも巻き込む教会(新しいイスラエル)を作っていきました。泉バプテスト教会も「国々の会衆」の一つです。

 「国々の会衆」が「王たち」と同じであるということは、わたしたち一人ひとりがダビデ王と同じだということです。古代の王は国の主権者です。現代のわたしたちも国の主権者です。教会の中でも大切な主権者です。神の家である教会は、その人が主権をもって自由になる場所・自由になる権利を持つ交わりです。教会は世界中どこでもたてられます。そして教会には世界中の誰でも加われます。そのような自由が、そもそも「最初のイスラエル」に与えられていることを本日の聖句は教えています。繰り返される「子孫に土地を与える」という約束は、滅び行く一アラム人に生きる権利があるということの宣言です。

 「そして神は彼の上から上った。彼が彼と共に語ったその場所で。そしてヤコブは記念碑を立てた。彼が彼と共に語ったその場所で、石の記念碑(を)。そして彼はその上に灌祭を注ぎ、その上に油を注いだ。そしてヤコブはその場所の名をベテルと呼んだ――そこで神は彼と共に語ったのだが」(13-15節)。

 前にも申し上げましたが、石の柱を記念碑として立てることはあまり褒められたことではありません。石の柱・木の柱・鋳像も、偶像崇拝の対象となりえるので、後の時代には建造が禁止されます。ヤコブの勇み足であるように思います。むしろ聖書が強調していることは、ベテルで神とヤコブが語り合ったということです。短い中に三回も繰り返されています。ラテン語訳聖書は、あまりにもくどいと思ったのか一回省いているほどです。

 神の家は、神とイスラエルが語り合う場所です。さきほどは「教会は神から人への言葉を聞く場所である」と申し上げました。それは祝福という全肯定であったり、生きよという励ましであったり、生きる場所を与えるという約束であったりします。そのことと矛盾しない形で、教会は人から神への言葉を発する場所でなくてはなりません。なぜなら、神とイスラエルは、ベテルで共に語り合っているからです。神との語り合いは教会で礼拝において実現します。

礼拝の中で「神から人への語りかけ」は説教や、招きの聖句・祝福の聖句においてなされます。礼拝の中で「人から神への語りかけ」は賛美や祈りでなされます。賛美は人から神へのほめたたえです。ちなみに「彼は彼を祝福した」(9節)は、「ヤコブが神を賛美した」とも訳しえます。そして、祈りは人から神への願い求めです。聖書がわたしたちに新しい生き方を求めることに対応して、わたしたちも神への求めを口にして良いのです。神の家は祈りの家です。

神から人へ・人から神へ。上からと下から。この二つが合わさって、神と人との語り合いが成立します。基本的に、人と人との言葉の交わし合いは含まれていません。それが礼拝の基本です。そして正にその語り合いの場所から神ご自身がいなくなるのです。

復活のイエスが弟子たちに聖書を解き明かし、弟子たちと食事を取り、パンを割いた正にその時に見えなくなるのと同じです。見られた方は見えなくなり、語られた方の言葉は聞こえなくなります。礼拝でわたしたちは共におられる神を感じます。その礼拝が終わった瞬間に、神なしの世界へとわたしたちは放り出されることになります。わたしたちの前に神が現れたり、神がいなくなったりすることは、わたしたちが神なしの世界に神と共に生きることの象徴です。礼拝は、日常と非日常の結び目なのです。

今日の小さな生き方の提案は、礼拝を、実に礼拝のみを大切にしようという勧めです。教会という団体の最低限なすべきことは、毎週の礼拝です。この礼拝に参加することは、最大限なしうる奉仕です。さまざまな活動をすると「教会らしく」なるかもしれません。ただそれらの活動でなされる「人から人へ」の言葉の行き交いによって、「神と人との語り合い」が阻害されるなら本末転倒です。「神から人へ・人から神へ」の言葉が行き交う交わりを、礼拝で形作りましょう。爽やかな一時間が、月曜日からの日常生活を軽くします。