偽証しない生き方 出エジプト記20章16節 2016年1月10日礼拝説教

あなたは、あなたの隣人に対して欺瞞の証言で応えないだろう。(直訳風私訳)

今日は第九戒です。十戒の中で「あなたの隣人」という言葉は第九戒と第十戒にしか用いられません。第六・七・八戒にはなかった場面設定です。偽証すべきでない相手が誰なのかということを、ここで考えなくてはいけません。

出エジプト記の中に、同じ表現がすでに出ています。2章13節に「自分の仲間」と新共同訳聖書が訳している言葉は、第九戒の「あなたの隣人」とまったく同じです。この場面を振り返ってみましょう(2章11節以下)。

エジプトの王子として育てられたモーセは、自分が三歳ぐらいまで育てられたヘブライ人の環境を忘れていません。モーセは自分をヘブライ人だと思っています。そのモーセが、ある時、エジプト人がヘブライ人奴隷を打っているのを見ます。モーセは同胞意識からエジプト人を密かに殺します(同11-12節)。

その翌日、今度はヘブライ人同士がけんかをしているのを見て、モーセは同胞意識から、二人を諭します。「なぜあなたの隣人を打つのか」。すると反論されます。「誰がお前をわれわれの監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」。この事件はモーセの亡命の直接の理由となりました(13-15節)。

モーセは自分自身ヘブライ人であり、ヘブライ人すべての隣人であると思い込んでいました。それが「あなたの隣人を打ってはいけない」という言葉に表れています。ところが、ヘブライ人の目には、モーセはエジプト人を殺したエジプト人にしか見えていません。「あなたは何者か、あなたはわたしの隣人ではない」と拒否されたのです。〔この事件以降、「自分が何者であるのか」はモーセにとって常にのどに刺さる棘のような問いとなりました(2章22節、3章11節参照)。〕

ともかく、モーセの殺人事件から示される、「隣人とは誰か」という問いに対する消極的な答えは、「あなたの隣人はあなたの親類縁者とは限らない」ということです。また、「上下関係は隣人になりにくくさせる要素である」ということです。

「隣人とは誰か」という問いに対して、イエス・キリストならばどのように答えるでしょうか。ルカによる福音書10章25-37節に積極的な答えがあります。有名なサマリア人のたとえは、「誰が隣人か」(ルカ10章29節)という問いへの答えです。半殺しにされ倒れているユダヤ人に親切をしたサマリア人が隣人となったというのがイエスの答えです(同37節)。同胞であり、宗教的権威であったレビ人も祭司も、倒れているユダヤ人の隣人となれませんでした。民族が異なり、信仰が異なり、そのためにユダヤ人から差別されていたサマリア人が隣人となった。誰が否定しようとも、少なくとも助けられたユダヤ人男性にとって、サマリア人こそ隣人です。サマリア人は反射的に、ユダヤ人の隣人となったのです。

ここでイエスも、隣人となることは血縁関係によらないと語っています。また、差別されていたサマリア人が、差別していたユダヤ人を助けるという場面設定で、この世の上下関係を逆転させる愛というものがあると説きます。だから、「あなたの隣人」の範囲を定めることは意味がありません。モーセのように「自分はあなたの仲間・隣人です」と思い込んでいても、当の相手から「あなたは仲間・隣人ではない」と言われることもありうるのです。だから「隣人である」という範囲を定めて、その隣人に対してだけ親切をするのではなく、範囲を考えずに自分が他人の隣人となれば良いのです。特に困っている人の「隣人となる」ことが大切です。

第九戒の「あなたの隣人」は、どんな人をも意味しますし、特に困っている人を指すと言って良いでしょう。社会の中でさまざまな意味で弱い立場に置かれている人に敵対するような仕方で、欺瞞に満ちた証言をしてはいけません。新共同訳は「隣人に関して」と訳しますが、ここは「あなたの隣人に対して」の方が良いと思います。動詞「アーナー(応える)」+前置詞「ベ(in)」+人で、不利益を被らせるという慣用表現があるからです(ルツ記1章20節)。

こういうわけで「隣人に関して偽証してはならない」を、わたしは、「あなたは、あなたの隣人に対して欺瞞の証言で応えないだろう」と訳します。「応える」という言葉が用いられています。ヘブライ語アーナーは日本語「こたえる」がぴったりきます。answer(答える)とrespond(応える)の意味が含まれているからです。人間は応答的存在です。「応答responseする力abilityが責任responsibilityである」とは、よく言われるところです。「神と隣人に何をもって応答するか」。人生の責任が第九戒の射程です。

わたしの伯母は(牧師の娘でしたが)、わたしたち甥や姪が子どものときに軽口やいたずらで嘘をついた時に、「嘘は罪ですよ」と怖い口調で脅していました。おそらく彼女は十戒の第九戒を「嘘の禁止」と理解していたのでしょう。しかし、第九戒の語る「欺瞞の証言」はもっと重い意味です。契約違反のような悪事、隣人を窮地に陥れるためになされる裏切りの言葉です。たとえば、イエスの一番弟子のペトロが、十字架前夜、「わたしはイエスを知らない。イエスの弟子ではない」と三度否定します。嘘で言うならば、この類のかなり重大な嘘が欺瞞の証言です。逆に、認知症の人を傷つけないために、あえて嘘の相槌を打つことは、「きれいな嘘」として認容されるべきでしょう。

「欺瞞の証言(エド・シェケル)」は申命記19章18節に登場します(新共同訳「偽証」)。やはり、欺瞞の証言の場面設定は裁判であり、法定での証言です。同じ文脈における「欺瞞」の言い換えは「不法」(同16節)です。「不法」は「暴力」と訳しても良い言葉です。

社会的に弱い立場に置かれている人に敵対して、わざわざ裁判の場面でその人をさらに困らせるような証言を、しかも事実をねじまげて言うようなことは暴力です(出エジプト記23章6-9節)。たとえば狭山事件が思い出されます。被差別部落出身の石川一雄さんに誘拐殺人の罪を被せた冤罪事件です。被差別部落出身者への差別を利用して、欺瞞に満ちた証言がなされ、自白が強要されたのでした。合法的な仕方でも「不法」ないしは「暴力」というものは行われえます。第九戒が問題にしているのは、社会的・組織的・合法的な暴力です。

わたしたちは、このような仕方で冤罪をかぶせられて暴力的に殺された人を知っています。イエス・キリストです。モーセの殺人を告発した証言は事実に基づいていました。しかし、イエスの裁判における証言はでっち上げや極度の曲解でした。第九戒が問題にしている事柄は、イエスを殺した人々すべてに向けられています。さきほど申し上げたとおり裏切った弟子たちも、欺瞞の証言をした人たちの一部です。

弟子たちよりももっと直接的にイエス殺害に関わったのは、ユダヤ人権力者層であるファリサイ派・サドカイ派・ヘロデ党およびそれぞれの律法学者たち、またローマ総督府の人々・ローマ兵たちです。この人々は、ガリラヤ地方出身者を差別していました(マルコ14章70節)。また、イエスの父親が分からないことも差別していました(同6章3節)。彼らから見てイエスは小さくされたままで生きるべきです。ところがそのイエスが社会の片隅に小さくされている人々の隣人となり、徴税人・娼婦・子ども・しょうがい者・外国人、つまり権力者たちがおよそ「罪人」とレッテル貼りをしている人たちと共に食事をし、彼ら彼女たちを弁護します。無性に腹立たしいことです。

イエスは自分たちこそが神の国の住民であると思い込んでいる特権階級の人々に向かって、「あなたたちは先の者ではなく後の者だ。神の国の第一の住民は、空の鳥や野の花であり、子どもたちであり、徴税人・娼婦だ」と語りました。そして、神を「アッバ(お父ちゃん)」と親しく呼び、自分を「人の子」と呼びました。ナザレのイエスにおいて「小さくされた者たちの友」という神が現実に現れました。旧新約聖書を貫く愛の神のすがたです。

イエスへの憎しみを抑えきれない者たち・神と富に兼ね仕えている者たち・宗教的不倫を犯している者たちは、イエスを逮捕しその行動の自由を奪い、イエスを殺すための欺瞞に満ちた秘密裁判を執り行います。そもそもがでっち上げなので、さまざまな偽証は食い違いました。しかし結論が先にあるので、イエスは神冒涜の罪・ユダヤ人の王と詐称した罪で、合法的・暴力的に処刑されました(マルコ14-15章)。この非道な行いが罪です。

キリスト者はイエスの殺害を、キリストによる贖いと信じます。わたしがイエスを殺したと観念し(弟子たちや権力者たちと同じ問題性を持つ存在)、神によってよみがえらされたキリストが、その罪を赦したと信じます。よみがえらされたイエスは、弟子たちに恨み言一つ言わずに、聖霊という永遠のいのちを吹きかけます。この行為は、罪の赦しと新生の象徴です(ヨハネ20章19-23節)。「罪を憎んで人を憎まず」と似ていますが、「欺瞞性を抱え持つあなたの隣人となり、あなたの全存在を肯定している。だから、欺瞞の証言をしない生き方に悔い改めなさい」というイエスの語りかけが、福音なのです。

第九戒もまた、「偽証するな」という禁止命令ではなく、「神から赦され解放されたあなたが、まさか偽証するはずがないだろう」という期待に読み替えたいと思います。では、欺瞞の証言をしない生き方の具体は何でしょうか。

欺瞞に満ちた裁判におけるイエスの振る舞いが、欺瞞の証言をしない生き方の模範です。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2章13節)。下線部はギリシャ語名詞ピスティス(信/信仰/誠実/信実)の派生語が用いられています。ピスティスは重要な神学用語です。信頼に値する誠実さを示す「信実」が訳語になります。つまり、欺瞞の証言をしない生き方は、信頼に値する誠実な一言ひとことを語り続け、それを着実に生きることにあります。

あの裁判の場面で、イエスは「わたしは真理を証言するためにこの世に来た」とローマ総督ピラトに答えています。周りは欺瞞に満ちた証言をぶつけている最中、イエスだけは常日頃のように真理を淡々と語ります。「真理とは何か」(ヨハネ18章38節)。イエスによれば「神の国の王は食卓の給仕役である」(ルカ22章24-30節)ということがらが真理です。この信頼に値する真理をイエスは誠実に語り、その言葉を誠実に生き(罪人たちとの食卓)、その頂点として十字架で殺され、復活させられた後にも誠実に行いました(ヨハネ21章)。教会はイエスの食卓運動の後継者です(使徒言行録2章43-47節)。

今日の小さな生き方の提案は信実な生き方です。唯一信実なキリストによって不実であるにもかかわらず存在が肯定されているわたしたちは、「自ら隣人となり・食卓の給仕役になる交わりに幸せがある」という真理を誠実に証言し、その通り生きるように、神に期待されています。