十字架の赦し ルカによる福音書23章32-38節 2018年11月25日礼拝説教

 あらゆる宗教に共通することは、自分の存在を根本的に支えられるという経験です。どんなに嫌なことがあっても、自分の存在は決して否定されていないという感覚を与えられることです。キリスト教の場合、それはイエス・キリストの十字架によって成し遂げられます。「アッバ、彼ら/彼女たちを赦してください。というのも、自分たちが何をしているかを、彼ら/彼女たちは知らなかったのですから」(34節私訳)。この言葉は、キリスト教教理の中心です。
 ところがこの言葉には課題があります。新共同訳聖書は亀甲括弧〔 〕で、この言葉を括っています。底本となっている写本には存在しない言葉だからです(後4世紀)。後の時代(後5世紀以降)の写本家たちが付け加えた部分であることは、学問的には明らかです。その意味では、23章17節と同じく巻末に掲載するべき部分です。おそらく使徒言行録7章60節のステファノという教会指導者の発言(「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」)と呼応させるために、写本家たちが付け加えたのでしょう。
 史実のイエスの発言ではないから価値が低くなるのでしょうか。それは単純すぎます。聖書信仰とは歴史文書を再構成することではありません。今を生きるための真実を聖書から見出し、聖書によって導かれることです。34節の言葉があってもなくても、十字架がすべての人の罪を赦し、存在の根拠を与える出来事であるという信仰は、初代教会から切れ目なく今に至るまで続いています。そこに真実があるからです。
 ステファノも十字架の無条件の赦しを信じていた信徒でした。彼はギリシャ語を使うユダヤ人の指導者でした。ギリシャ語が第一言語である者をもイエスは存在を全肯定していると信じて、キリスト者となったのです。この赦しを身に受けていたので、殺される時にも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と殺す者たちを執り成す祈りを祈ることができたのでしょう。
 先に使徒言行録を編纂し、その後ルカ福音書を編纂したルカ教会にとって、十字架の赦しという救いは自明の前提です。殺されゆくステファノにこう言わせたキリスト信仰を、みなが共有しています。信徒たちは「敵を愛する」という行為の頂点を十字架に見ています。十字架という出来事を、「自分の命を奪う者たちに、自分の命を配る行いだ」と信じているからです。自分に親切をしてくれた人のために死ぬ人は、いるかもしれません。個人的恩義があるからです。社会正義を訴える人のために死ぬ人はいません。公の義は自分と関係ないように思えるからです。だから自分の敵・社会のはみ出し者のために死ぬ人は皆無です。いや、十字架のイエスただひとりです。
そこで、十字架のイエスの赦しに基づいて、十字架のイエスの名言が、聖書を編み出す教会から生まれます。「アッバ、彼ら/彼女たちを赦してください。というのも、自分たちが何をしているかを、彼ら/彼女たちは知らなかったのですから」(34節私訳)。
 この信仰をわたしたちも共有し、代々継承しています。こういうわけで、「元来のルカ福音書に無い言葉であるから、価値が低い」ということはありません。本文が増えていった過程に、教会の伝統の定着や発展をみとめるからです。34節のイエスの言葉に、敵を愛するという行いが何であるか、十字架に現された神の救いとは何であるかが、長時間熟成されて結晶化されているのです。それは現代のわたしたちをも生かす真実です。その人が駄目になるのではないかと思わせる程の愛情が、逆にその人を生かすという真実です。
「情けは人のためならず」という格言があります。「厳しく言った方がその人のためになる」という解釈と、「人のためではなく自分のためになるから情けをかけよ」という趣旨の二つの解釈があるそうです。十字架の「情け」は、どちらの解釈であれ、「人のためならず」という内容ではありません。全く「人のため」の赦しが、被害者から一方的に加害者たちに向けられているからです。そして、その言葉は、相手の悔い改めを条件としていません。議員たちや、エルサレムの住民たちや、ローマ兵たちが悔い改めたから、イエスは赦したのでしょうか。そうではありません。誰ひとりとして謝罪をしていない時点で、イエスが一方的に赦しています。神の愛という抽象的な概念が、実際に地上に現れる時に、十字架のイエスの具体的振る舞いになります。
 わたしたちは、この真実(十字架の赦し・無条件の全肯定)を、いわゆる放蕩息子の譬え話で、すでに読んで知っていました(15章11-32節)。ルカ福音書にしか掲載されていない、非常に有名な譬え話です。無責任で自分に迷惑しかかけない息子を、父親は愚かにも受け入れ、その息子の存在を無条件に祝福するというお話です。父親の奇妙な行動の理由は、息子が何をしたかではなく、息子の存在そのものが喜ばしいということにあります。実際の躾におきかえれば父親は駄目な親です。しかし、この譬え話は十字架の赦しを正しく言い当てています。教会では集う人々に向かって、「その人が駄目になるのではないかと思われるほどの無条件の肯定」を語ることが必要です。それが集う人の魂をよみがえらせ、人を立ち上がらせ・立ち直らせるからです。
 放蕩息子を立ち上がらせ・立ち直らせた赦しの力が、バラバにも(18節)、バラバの仲間である十字架にかけられた二人の死刑囚にも(32節、39節以下参照)、苛立つエルサレム住民にも(35節)、議員たちにも(35節)、ローマ兵にも(36-37節)及んでいきます。
 圧倒的な赦しの前に、人は二分化されます。その赦しを拒否するか、それともその赦しを受け入れるかです。拒否する者たちの理由はわかりやすい。死刑囚には説得力がないというものです。「赦しなるものが、人生に行き詰まっている人を救うというご説はごもっともだ。そうおっしゃるあなたの人生が行き詰まっていたら、どうなのか。まるで説得力がなくなるのではないか」。
 ユダヤ人であり聖書の神を信じている議員たちは嘲笑います。「彼は他の人たちを救った。彼に彼を救わせよ。もしもこの男が神のキリスト・選ばれた者であるならば」(35節私訳)。議員たちは、イエスが何人かの人々を救ったことを認めています。しかし、その救いが自分自身に及ぶことを拒否しています。
 議員たちの口ぶりは、イエスに直接語りかけているものではありません。三人称でイエスを指差しているからです。むしろ、立って見ているエルサレム住民たちを説得しようとして、お互いに言い合っているのでしょう。
ローマ人であり聖書の神を信じていない兵士たちも嘲ります。彼らは処刑の執行人ですからイエスの最も近くにいます。そこで二人称で侮辱をするのです。「もしもお前なんぞがユダヤ人の王であるのならば、お前は自分自身を救え」(37節私訳)。兵士たちは、イエスの捨て札(罪状書き)を見ていたので、「ユダヤ人の王」という言葉をあえて用いて侮辱しています。
ローマ皇帝は、「神の子」とも「救い主」とも呼ばれていました。ローマ帝国の常識では、軍事的な支配を通して経済的にも民を豊かにして、衣食住を保障すること・人生を全うさせることが「救い」です。その前提には、皇帝自身が不自由なく食べ、人生を全うしていることがあります。兵士たちによって衣服を奪われる死刑囚は、まったく救い主に見えません。ちなみに死刑囚の衣服をくじ引きで分け合うのはローマの習慣と言われます(34節)。
エルサレムの住民たちは三本の十字架を立って見つめています(35節)。バラバもいたかもしれません。自分のための捨て札が、ナザレのイエスの頭上にあります。右と左には自分の仲間が殺されつつあります。バラバは、仲間たちの条件交渉の末に、命拾いしました。その代わりに殺されたのがナザレのイエスです。しかし二人の仲間はその条件交渉から漏れました。住民はバラバと共に、三本の十字架を見上げて立ち尽くし熟考します。自分たちが救った人、自分たちが救うことを諦めた人、自分自身を救わない人を見ながら、選びや救い、優先される人、逆にしわ寄せを受ける人、ユダヤ人の王とは誰かなどについて、立ち尽くし熟考します。
判断が迫られます。イエスの赦しを受け入れて、敵味方を丸ごと赦す神の愛のもと存在の基盤を得るか。その上で正義を求め、愛を行うのか。これが一つの道です。それとも、イエスの赦しを拒否して、自分の存在を不安定なものにさせ、義に飢え渇き、常に誰かとの比較の中で条件闘争を続けるかです。これがもう一つの道となります。多くの議員たち・ローマ兵たちは、こちらの道を選びました。
本日わたしたちは、エルサレム住民に自分の姿を重ね合わせて、赦しを受け取るかどうかを熟考してみましょう。
「アッバ、彼ら/彼女たちを赦してください。というのも、自分たちが何をしているかを、彼ら/彼女たちは知らなかったのですから」。住民たちは、イエスの率直だけれどもきれいな言葉と、議員や兵士らの皮肉に満ちた汚い言葉を比較しています。イエスの言葉は住民たちに恥を感じさせ、住民たちの罪を自覚させるものでした。というのも、彼らは自分たちのしている悪をよく知っているからです。三人の仲間のうち一人だけを救ったこと、そのために無実のイエスを十字架につけたこと。すべて自覚的にしています。にもかかわらず、「知らなかったから赦してほしい」と祈られてしまったという気まずさ。相手の高潔さ・品位を保つ態度が、自分の罪を暴くのです。
ルカ福音書は群衆の侮辱を強く描きません。むしろエルサレム住民は立ち尽くし考え込む人々として描かれています。「自分はどこに立つべきか」、岐路に立って人生の針路を迷い二分化していく人々です。多くの者は議員たち・ローマ兵たちと同意見を採り、十字架の赦しを拒否します。しかしそれとは反対の人たちもいました。十字架刑に立ち会った住民の一部は、聖霊によって十字架の赦しを受け入れ、復活のキリストを信じるキリスト教会を創設していきます。使徒言行録に記されている通りです。
この意味で、イエスの祈りの言葉は正しいものです。住民たちは自分たちのしている悪を知っていると思っていました。しかし、彼らは知らなかった。自分たちの悪が、全世界を救う行為の手助けになっていることを知らなかったのです。ちなみにこの「知らなかった」はギリシャ語の現在完了形動詞です。過去の出来事の効果が、現在にまで及ぶという時制です。現代のわたしたちも、神の救いの計画については知らないままです。最低の悪からも、最高の善を生み出す方は、そのことを知らないわたしたちをも丸ごと肯定する救い主です。
今日の小さな生き方の提案は、分かれ道に立ってよく見て、熟考することです。十字架の赦しが自分に及んでいるということ。その愛・無条件の全肯定を受け入れるかどうかを、じっくりと考えることです。わたしたちが悔い改める前から赦しているイエスを、自分の救い主と受け入れる時に、わたしたちは素直に悔い改めることができます。罪赦された罪人になることができます。この救いは、人生の荒波に耐える力を与えます。自分の弱さや悪さを覚える時、壁が立ちはだかる時にも、揺るぎない肯定を地盤にいただいているからです。