命を救うこと ルカによる福音書6章6-11節 2016年10月9日礼拝説教

十戒の第四戒に「安息日を覚えること/守ること」が定められています。一週間に一度休むこと・神を礼拝することが法律に規定されているのです。ところで、十戒には二つの版があります。出エジプト記20章と申命記5章、二つの箇所にほぼ同じ法文が載っておりますが、いくつか重要な違いがあります。その最大の違いは安息日規定の理由付けです。なぜ安息日を守るべきなのかの理由を記すところで、二つの版は全然違うのです。

出エジプト記20章11節(旧約126ページ)は、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とします。天地創造が理由です。それに対して申命記5章15節(旧約289ページ)は、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」とします。出エジプトの奴隷解放が理由です。

先週イエスは、天地創造で七日目に神が休んだことを理由に、「安息日は人のためにある」ということを言い、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことをかばいました。それに引き続いて今週イエスは、神が奴隷の命を救ったことを理由に、「安息日に命を救うことは良いことである」と言っています(ルカ6章9節)。

新共同訳聖書は原文に無い「律法で」を付け加えています。その気持ちも分かります。イエスの言葉と行動は、律法または旧約聖書に書いてあることを意識したものだからです。聖書に何が書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか、自分の解釈を生き方にして実現しているか(ルカ10章25-37節)。法治国家に生きるということはそういうことなのです。

わたしたちも法治国家に生きています。その建前は、すべての人はすべての法律を知っているという前提です。もちろん法律家でもすべての法律を覚えている人はいません。しかし、例えば道路交通法違反で取り締まられた時に「わたしはその法律を知らなかった」という言い訳が通らないために、建前としてすべての人はすべての法律を知っていると前提するのです。法律に何が書いてあるかを知っていることは、法治国家に生きる時にとても重要です。

余談ですが、わたしの郷里には立川基地がかつてありました。わたしが生まれる頃に父は米軍人のための牧師として立川基地のすぐ近くに中神伝道所というところで礼拝を始め、それが現在の昭島めぐみ教会になったからです。砂川闘争によって農民たちが米軍を追い出したことは、教会員であった米兵の引き上げを引き起こしました。その米兵たちが南部バプテスト連盟の会員だったので、法人格を持つ日本バプテスト連盟に現在会堂が建っている土地が寄贈され、その時から父は数奇なお導きでバプテストとなりました。郷里の英雄である砂川闘争の闘士の一人が六法全書をぼろぼろになるまで読み込んでいたことを、何かのドキュメンタリー番組で観ました。法律を知らないことは自分たちに不利益になることを実感していたからでしょう。

法律に何が書いてあるか。イエスはそこからさらに突っ込んで、法律の解釈の仕方を教えています。「法律ができた元々の理由や根拠にまで遡って考えなさい」という仕方です。信仰共同体であるユダヤ教徒やキリスト教徒の法律は聖書です。いづみ幼稚園でも月の暗唱聖句を設定しています。説明がなくても単純に聖書の言葉を覚えることが重要だからです。バプテストも含めプロテスタントは「聖書主義(聖書のみ)」を掲げています。諸伝統よりも聖書そのものが重要です。

もちろん、聖書を全部覚えて全部知らなくてはキリスト教徒になれないということを言いたいのではありません。どんな人も知識の量にかかわらず、ただ聖霊の導きによって「イエスは救い主である」と告白できます。しかし聖書を知らないと、思わぬところで足をすくわれることがあります。

律法学者と呼ばれる「専門家」が新たに法律を付け加えながら、「安息日についてはこのように解釈すべきなのに、あなたたちはおかしい」と難癖をつけることがあるのです(7節)。彼らは難癖をつけるために礼拝に出席しているようです。これでは神を礼拝することにもなりません。自分が休んでいないからです。イエス(会衆の一人)を死刑にするために会堂に集っているからです。そして、手が麻痺して動かない人(会衆の一人)の生活を保障するでもなく、その人をただイエス処刑の口実づくりのために悪用しているからです。これでは共に集まっても礼拝をしているということにはならないのです(Ⅰコリント11章17-22節)。

この種の意地悪を打ち破るためには、相当の労力が必要です。聖書に何が書いてあるのかを知っているという知識、それをそもそもの理由にまで遡って読み解く知恵、さらにその解釈を公に人の前で明らかにし論争する勇気です。自分の意見を明らかにする勇気は、結局誰と共に生きるかの決断です。イエスが知識・知恵・勇気を振り絞った理由は、礼拝共同体は手の不自由な人と共に生きるべきなのだという決断(価値判断)が先にあるからです。隣人愛とも基本的人権の尊重とも言うことができます。これが意地悪という価値判断とぶつかり合っています。

律法学者たちは、邪魔者であるイエスを礼拝共同体の中から断ち切ることを願っていました。彼らは自分たちが支配する社会を望んでいたからです。ここに彼らの価値判断があります。隣人愛や個人の人権と正反対の考えです。イエスを殺す道具としてしか手の不自由な人を見ていませんし、その他の会衆の生活のことも眼中にありません。「支配されるべき人一般」でしかありません。律法学者たちの意地悪の根源には支配欲という罪があります。平等に、尊重し合って、共に生きることと鋭く対立している罪・根源的な倒錯です。

イエスが手の不自由な人を会衆の真ん中に立たせたことは、大変示唆深い行いです(8節)。このことは、その人が会衆の周辺に居たことを示してもいます。大体会衆が礼拝で座る場所というものは毎週似たようなものです。彼は目立たない場所にある意味で押しやられていたわけです。社会の縮図が礼拝共同体にも持ち込まれていたのでしょう。能力主義の支配する世間で片隅に置かれていた人が、礼拝共同体の中で初めて真ん中に立つということが起こります。

それに反して聖書の解釈を牛耳っていた律法学者は、常に会堂の真ん中にいたのではないでしょうか。彼らは会堂の真ん中で、イエスが手の不自由な人に治療行為をするかどうかを見張りつつ議論していたのでしょう。「考え」(8節)の直訳は議論です。わざとイエスの行動を誘うような聖句について議論を真ん中で仕掛けたのではないでしょうか。

イエスは「中央」にふんぞり返る律法学者たちを押しのける形で、「周辺」に押しやられている手が麻痺している男性を、真ん中に立たせました。こうして支配と被支配の関係が流動化します。出エジプトでなされた神の力強い御腕による奴隷の解放・小さくされた人々の命を救うことが、安息日の礼拝で起こります。そもそも安息日は、出エジプトの記念のために設けられ、安息日の礼拝は出エジプトの神を賛美するためのものだからです(出エジプト記15章20-21節)。

障害者の人権保障という考えが全くなかった古代ユダヤ社会で、この人を社会の真ん中に立たせたイエスの行為は奇跡を起こしたのです。第一の奇跡です。この奇跡に引き続いて、麻痺していた手が伸びるという、第二の奇跡が起こります。「元どおりになった」(10節)という記述を文字通り取れば、彼の障害は病気の後遺症であったのかもしれません。順序が大切です。治った健常者が真ん中に立つのではなく、治る前の人こそが大切に真ん中で尊重されなくてはいけません。

イエスは決して瀕死の人の命を緊急救命したわけではありません。また、律法学者も手が麻痺した人を滅ぼそうとしたわけでもありません。それでも、「命を救うことか。滅ぼすことか」(9節)と大きい構えで問うている理由は何でしょうか。「どんな人でも周辺に追いやられてはいけない」という教えが、そこにあります。誰かを周辺に追いやる行為は、その人を肉体的にも精神的にも滅ぼす行為なのです。差別は魂の殺人と言われるゆえんです。支配欲や意地悪に基づく行為は「悪を行うこと」です。

もう少し突っ込んで考えると、この条件の人ならば周辺に追いやって良いという考えが、人間の社会を滅ぼしていきます。高齢化もそこに含まれますが、すべての人は後天的に病気や障害を負う可能性を持っています。だから、無条件にどんな人も尊重されるべきという構えを持つ社会が、社会的強者にとっても住みやすい社会となります。基本的人権の尊重は「善を行うこと」です。ナチスのホロコーストが障害者虐殺から始まったことも歴史の教訓です。

ルカ版のイエスは怒りません(マルコ3章5節参照)。実に冷静に主張をし、治療をします。逆に律法学者が「怒り狂って」います(11節)。直訳は「反理性に満たされて」です。ルカは、理性的な態度を模範に描き、理性的ではない態度を反面教師として描いています。このことも非常に示唆に富みます。

日本社会は不機嫌社会、または高ストレス社会とも言われます。長時間労働や長時間学習を大人から子どもまで強いられているので、街のあちらこちらで不機嫌な人・意地悪な人を見かけます。鉄道職員を罵倒したり、感情に任せて威張ったり、不平不満をまき散らしたり、ヘイトスピーチを行ったり、反理性的な行為で感情のバランスを取っているのでしょうか。電通社員の自死が労災認定を受けたというニュースも記憶に新しいところです。「幸せ指数」の低い国にわたしたちは住んでいます。

ここが踏ん張りどころです。理性や品位というものを、大切な倫理として高く掲げないといけない時代です。敗戦後も置き去りにされていた課題が、高度経済成長も終え、バブル崩壊・リーマンショックを経て、政治も経済も1990年代からどんどん悪化した中で、不機嫌・意地悪という形で噴出しています。打算と取引、支配と被支配、勝ち組と負け組がむき出しになる社会は、誰かを周辺に追いやっても、自ら何も痛みに感じない反理性的な社会です。意地悪をして他人を追いやる行為で不機嫌を宥める社会は、いつか破裂します。

ローマの信徒への手紙12章1-2節を読みます(新約291ページ)。「なすべき礼拝」を口語訳は「なすべき霊的な礼拝」としていました。「なすべき理性的礼拝」とも訳しえます。それがこの世の価値観に倣わない礼拝です。何が善いことかをわきまえている礼拝です。イエスがあの安息日に実践した理性的に法律について論争し、品位を保って小さくされている人を真ん中に立たせる礼拝です。この世の価値観の奴隷になっている人を解放する礼拝です。

今日の小さな生き方の提案は、理性と品位を保って礼拝を守るということです。どんなに社会で辛い思いをしても理性的な礼拝ではすべての人が真ん中に立たされます。救いが起こる礼拝を捧げ、共に福音に与りましょう。