報復の連鎖 創世記34章18-31節 2019年9月1日礼拝説教

「そして彼らの言葉はハモルの目に、またハモルの息子シケムの目に良かった。そしてその若者はその言葉を実行することに遅れなかった。なぜなら彼はヤコブの娘を欲していたからだ。そして彼こそが彼の父の家の全てより重んじられていた。そしてハモルと彼の息子シケムは彼らの町の門に向かって来て、彼らの町の男性たちに向かって語った。曰く」(18-20節)。

ヤコブ一族の風習である割礼を条件に、シケムという町の町長ハモル一族とヤコブ一族が縁組をするという言葉は、ハモルと息子シケムを喜ばせました。この条件で、息子シケムが仕出かした不祥事(強姦)がもみ消されるのならば、悪くないと思ったからです。シケムは自分の支配欲と所有欲によってディナと結婚したいだけなのですが、父ハモルは一族間の縁組を増やすという策をもって解決しようとします。だから、一族を説得しなければなりません。それは簡単です。なぜならシケムに逆らえる人が一族にいなかったからです。それほどに町長ハモルはシケムという息子だけを偏愛していたのです。シケムという町は、「彼らの町」、父子が私物化した町であると本文は繰り返し記します。

父子は、城外のヤコブ家を後にして、夕方シケムの町の城門のところに立ちます。畑仕事をし終えて家に帰ってくる親族を待ち受けるのです。当時の西アジアでは城門の周辺が公共の場所でした。裁判所であり議会です。また城門を出入りする人は大人の男性が中心です。この男性たちは、戦争となれば鋤を剣に・鎌を槍に打ち直して兵士となる農民です。二人は一族の成人男性に語りかけます。ここも男性たちのみの意思決定です。

「これらの男性たちは平和。彼らは私たちと共に(いられる)。だから彼らをこの地に住まわせ、ここで商売をさせよう。またこの地は、見よ、十分に広く彼らの面前に(ある)。彼らの娘たちを私たちのために妻に取ろう。そして私たちの娘たちを彼らのために与えよう。ただ次のことによって、その男性たちは私たちと共に住むこと・一つの民となることを、私たちに同意する。私たちに属する全ての男性が、彼らが割礼を受けているのと同様に、割礼を受けることによって。彼らの家畜と彼らの財産と彼らのすべての動物、それらは私たちのものではないか。ただ彼らに同意しよう。そうすれば彼らは私たちと共に住む」(21-23節)。

ハモルとシケムは、ディナに対する性暴力について一族に一切語りません。そして代表者同士の交渉にありがちなことですが、自分の仲間たちに向かっては仲間たちに利益があることを約束します。ヤコブ一家の家畜・財産・動物がハモル一族所属のものになるのだから、割礼を受けようと言うのです。一族の中にはシケムの不祥事を知っている者もいたでしょう。割礼を受けたくない人もいたでしょう。一つの民となることに賛成でも、「ヤコブたちがヒビ人のようになるべき」という意見もありえます。

「そして彼の町の門を出る男性たちは、ハモルに、また彼の息子シケムに聞き従い、すべての男性、すべて彼の町の門を出る男性たちは割礼を受けた」(24節)。町の権力者ハモルと、その後継者シケムに逆らうことはできません。受け入れたのではなく、渋々と聞き従ったというのが真相です。ハモル・シケム父子と共に、一族の成人男性はその場で割礼を受けました。町中の男性が割礼を受けたのではなく、ハモル一族の現役世代の男性たちが割礼を受けたのだと思います。だからヤコブの息子たちはハモル一族のみを殺したと推測します。

「そして第三の日となった。彼らが痛んでいる時にヤコブの二人の息子シメオンとレビというディナの兄が、おのおのその剣を取り、その町に静かに来て、すべての男性を虐殺した。ハモルを、また彼の息子シケムを彼らは剣の刃で虐殺し、ディナをシケムの家から取り、出た」(25-26節)。

シメオンとレビはレアの二男と三男です。最も気性が荒かったと推測されます。剣を常備する「雷の子ら」です(49章5節以下)。後のヨセフ物語でシメオンがヨセフに名指しされ人質になる理由は、シメオンが異母弟ヨセフに対して最も辛くあたっていたからだと思います。おそらく彼がヨセフに対する殺人未遂の首謀者です。ヨセフはシメオンに復讐し、シメオンをエジプトに拘束します(37章18節、42章24節)。ハラグという強い意味の動詞が使われているので「虐殺した」としました。ただの殺害ではなく、ハモル家にいる男性たちと、ハモル、シケムを剣で執拗に斬ったのでしょう。復讐の凄惨な場面です。血塗られた剣を持ちながら、二人は妹ディナを連れて町を出ます。

「(ほかの)ヤコブの息子たちは戦死者たちの上に来て、彼らの妹を汚した町(シケム)を略奪し、町の中や野にある彼らの羊と彼らの牛と彼らのロバたちとを彼らは取り、力ある者すべてと力無い者すべてと彼らの妻たちとを捕虜にし、その家(単数)の中にあるすべてを略奪した」(27-29節)。

27節のヤコブの息子たちを誰と考えるか異論が多くありますが、本日は残りのレアの息子たち、ルベン、ユダ、ゼブルン、イサカルの4人と考えます。シケムが妹ディナにした強姦に対し、6人は策略を練って復讐の軍事行動に出ました。まずハモル家を騙して割礼を受けさせ現役男性が力を発揮できないようにする。その上で激しい気性のシメオンとレビが第一陣として奇襲をかけ怪我の治療中の男性たちを殺し、ディナを連れ出す。そして第二陣の4人がハモル家の家畜を略奪し、ハモル家の人を捕虜にするというのです。「その家(単数)の中」とあるので略奪の対象はハモルの家のみです。虐殺・略奪は、報復というものが増幅しながら連鎖することを教えています。罪は連鎖・増幅します。

「ヤコブはシメオンとレビに言った。『お前たちは、この地の住民の中で・カナン人とペリジ人の中で私に悪臭を出させることで、私を困惑させた。私は少数。そして彼らは私の前に集まり、私を撃つだろう。そして私は根絶される。私と私の家は』。そして彼らは言った。『は私たちの妹を娼婦のように利用すべきですか』」(30-31節)。

父ヤコブは、自分が息子たちに騙されたことを知ります。内緒で陰謀が行われたのです。ヤコブは首謀者のシメオンとレビを説教するつもりだったのでしょうけれども、結果みっともない発言をします。ヤコブが自分の身を守るために、娘ディナが強姦されたことに抗議しなかったこと、そしてシケムという町の中で権力者に守られながら定住しようとしていたことが明らかとなります。ヤコブは「私」を連発しています。最後に思い出したように「私の家」がくっついています。彼は自己保身という人間の罪をさらしています。

シメオンとレビの言葉は、性産業労働者に対する侮蔑を含んでいます。イエスが徴税人・娼婦と仲間であったことからその点は批判されるべきです。しかし、二人の言葉は現代にも通用する鋭さを持っています。わたしたちに岐阜県黒川村を思い起こさせるからです。NHKでも放映された実話です。旧満州に移住した黒川開拓団は敗戦後引き揚げ途中、ソ連軍に守られる代わりに村民のうち若い女性12-15名を、ソ連軍将校に「性接待」として差し出したというのです。他の開拓団の多くはソ連兵による強姦・略奪をさけ集団自決を選ぶ中です。彼女たちのおかげで黒川開拓団は驚異的な生存率で帰国しますが、しかし、村の中で彼女たちは感謝もされず貶められます。「娼婦だ」「汚らわしい」と。同じ構図は日本軍と被占領地の村においてもありました。

「お父さん、あなたは娘ディナを犠牲にして自分を守り、一家を守ろうとしています。しかしそれは不正ではないですか。それなら復讐したほうがましだ。さらに復讐されて一家滅亡でも結構。どうせ私たちはシケムの町の法・裁判に守られていないのだから」。シメオンとレビの本音です。「」(31節)はシケムだけではなく、ヤコブをも意味しえるのです。

二人の父ヤコブに対する批判には一理あります。しかし、そうだとしても暴力による復讐、虐待に対する虐殺・略奪は解決策ではありません。イエス・キリストが右の頬を打たれたら左の頬を差し出せと教えているからです。また、パウロも報復をする権利を、神に返すようにと勧めています。むしろ対話努力によって、虐げられている人が救われる道(正義の回復)を探るべきです。

創世記34章とヨハネによる福音書4章はつながっています。ヨハネ4章に、先祖ヤコブが掘った井戸でイエスがサマリア人の女性と対話をする物語が記されています。その井戸は、ヤコブがシケムの城外に住んでいた時に掘ったものだと言われていました。シケムはサマリア人の聖地です。紀元前127年ユダヤ人たちはシケムを徹底的に破壊しサマリア人を虐殺しました。この事件はシメオンとレビの虐殺を思い起こさせます。その後、近くに建てられた町がシカルです。イエスの時代(紀元後30年ごろ)、150年前の事件をユダヤ人が正式に謝罪していないことから、両者は深刻な対立をしていました。友人になることを妨げていたのはユダヤ人の持つ差別意識です。ユダヤ人はサマリア人から助けられることさえ恥と感じていました(ルカ福音書10章)。

ヤコブの井戸に通っていたサマリア人女性は、ディナと重なります。「彼女は多くの夫と結婚した、まるで娼婦だ」と悪口を言われていました。シカルの城内は彼女にとって安全な場所ではありません。先祖ヤコブがかつて住み、掘り当てた、城外の井戸に行くことは彼女にとって喜びです。ディナも目の悪い母レアを手伝って喜んで井戸の水汲みをしていたことでしょう。

ユダヤ人男性イエスは彼女に自分から声をかけ、膝を屈めてお願いをします。「水をください」。ここから始まる対話の過程で、彼女が本当に求めていた救いが与えられます。自分の人生の苦労を理解してもらえるということ、個人として尊重されるということ、公正な裁きによって「あなたは悪くない」と言われること、対話的礼拝をして永遠の命の水を飲むこと、これが救いです。

ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イサカルは何をすべきだったのでしょうか。まずディナの話しを聞くべきでした。被害者が何を求めているのか。正義の回復の第一歩です。そしてシケム・ハモル父子にディナの意思を反映した意見をきちんと述べるべきでした。女性たちも同席させるべきでした。

「シケムさん、あなたは妹のディナに悪を行った。私たち家族は憤っている。私たちは公正な裁き(ディン)を求めたい。しかし外国人である私たちには町の裁判を受ける権利がない。しかも町の裁判は妹の名誉を汚す判決しか出さないだろう。お父さんが町長だからだ。ハモルさん、どうか息子さんの身柄をこちらに引渡し、私たちの慣習法によって裁かせてほしい。私たちは息子さんを私刑によって虐殺しない。復讐はしない。私たちの信じる神に復讐は委ねる。裁判と刑罰の後には、妹が怖がっているので自分たちはシケムの町を離れる。息子さんたちから買った土地はお返しする。井戸もご自由に」。

今日の小さな生き方の提案は、報復の連鎖を自分のところで止めることです。朝鮮半島に対する所有欲を日清・日露戦争に遡って反省していないことが根っこにあります。反省したくない理由は朝鮮半島に対する差別意識です。相手をヤコブの息子たちにさせてはいけません。みずからはシケムの罪を悔い改めるべきです。私たちの模範はキリストとサマリア人女性です。心を開いた対話によって永遠の命の水を共に飲みましょう。1923年9月1日関東大震災の後に起こった朝鮮人大虐殺を覚えて。