小さい者 マタイによる福音書2章4-6節 2020年12月20日礼拝説教

【マタイによる福音書246節のギリシャ語本文からの私訳】

4 そして全ての民の祭司長たちや律法学者たちが集まったので、彼は彼らに「どこにキリストは生まれたのか」と尋ねた。 5 さて彼らは彼に言った。「ユダのベツレヘムにおいて。というのも、そのように預言者を通して書かれたからだ。6 『そしてあなた、ベツレヘムよ、ユダの地よ、あなたはユダの統治者たちの中で最も小さくはない。というのもあなたから統治する者が出て来るからだ。その者は私の民イスラエルを牧するだろう』」。

【ミカ書51節のヘブライ語本文からの私訳】

1 そしてあなた、ベツレヘムよ、エフラタよ、ユダの幾千人の中で小さい者になるために、あなたから私のために、イスラエルを統治する者になるために彼が出て来る

死海写本の一部(4QXIIf)は「彼が出て来ない」とする。

七十人訳聖書(ギリシャ語訳)は、ほぼヘブライ語本文の直訳でマタイ福音書のミカ書引用とかなり異なる。

 

 クリスマスおめでとうございます。コロナ危機と呼ばれる事態にあって、クリスマスを祝うことの意味を聖書に尋ねたいと思います。イエス・キリストが生まれたということは、なぜめでたいのでしょうか。

「聖書に尋ねる」とは言え、説教原稿に記した通り、一体どの聖書を採るべきかが問題になります。選ぶ聖書によって「聖書からの答え」が大きく変わってしまわないかと案じます。マタイ福音書に引用されているミカ書5章1節と、旧約聖書に収められているミカ書5章1節が随分異なるからです。両者は部分的に反対の内容を記しています。キリストは「小さくない者」なのか、それとも「小さい者」なのかで意見が割れています。ヘロデに呼ばれた長老たち・律法学者たちや、マタイ福音書を編纂した人々は、どのような旧約聖書を持っていたのでしょうか。それはヘブライ語で書かれたものなのでしょうか。それともギリシャ語に翻訳されたものなのでしょうか。

実は以前から私はこの問題に気づきながらも、「いつか調べよう」と思って毎年放置していました。今年ようやく長年の宿題を果たすことができました。調べてみますと「死海写本」(紀元前2世紀から紀元後2世紀までに年代づけられる、旧約聖書等の写本群の総称。多くは断片。1948年より発掘開始)の一部に「彼が出て来ない」と否定詞(ロー)を使ったヘブライ語写本がありました。さらに、七十人訳聖書とは別系統のギリシャ語訳写本に(ルキアノス改訂)、「小さくない」と否定詞(メー)が使われているものもありました。そして「ユダの統治者たち」(マタイ)と「ユダの幾千人」は、ヘブライ語においてはほとんど同じ綴りになりうるものです。「幾千人」というヘブライ語を「統治者たち」とギリシャ語に翻訳することは可能です。

ここから出て来る推定は、マタイ福音書を編纂した人々は、現在の旧約聖書のヘブライ語本文ではなく、今や現存していない別系統のヘブライ語本文を持っていたということです。別系統への枝分かれは七十人訳聖書成立の後である紀元前3世紀以降です。枝分かれ本文はヘブライ語で「~ない」という単語を含んでいました。その否定の意味は当初「出て来ない」と動詞にかけられていましたが(紀元前2世紀)、マタイ教会が福音書を編纂した時点では(紀元後1世紀)、「小さくない」と形容詞にかけられるようになったのでしょう。

預言者ミカが救い主を希望した時代は戦争の時代でした。弱小国南ユダ王国が世界帝国であるアッシリア帝国に蹂躙された時のことです(紀元前701年)。ミカはエルサレムを包囲するアッシリア軍を見ながら、その光景を裏返した希望を語ります。ミカ書4-6章を要約すると次のような内容です。

「もうしばらくすれば国々は、戦争ではなく平和を学ぶためにエルサレムに集まる。全ての民に思想信条の自由が与えられる。そのような世界では小さい者こそが統治者にふさわしい。七・八人の牧者たちに権力は散らされてアッシリア帝国でさえも養われる。モーセとアロンとミリアムのような集団指導体制。これが理想だ。ベツレヘム出身のダビデは大きくなる道を選んで間違えた。もう一度歴史をやり直そう」。ミカはダビデ王朝が大きくなろうとしたことを反省して、小さい者になる複数の羊飼いたちを、救い主として待望します。

その後のユダヤ人たちの歴史は悲惨です。紀元前6世紀に完全に国は滅亡します。何度かダビデの子孫による独立を試みますが全て大帝国の力によって失敗します。紀元前2世紀にハスモン王朝が独立を果たしますが(紀元前167年から独立戦争開始)、王家はベツレヘム出身のダビデの子孫ではありませんでした。しかし独立できたのだから評価もできます。この複雑な評価を受け止めた人々が、状況に適合するようにミカ書の本文を変えたのでしょう。死海写本はその証拠です。「ベツレヘムから救い主は出て来ない」。イスラエルを救う、ユダヤ人の王はベツレヘム出身でなくてもよい、ハスモン王朝で構わないという妥協がここにあります。

ハスモン王朝が滅んだ後に、ローマ共和国/帝国に取り入ってユダヤの王にしてもらったのがヘロデ大王です(紀元前37年)。イドマヤ人のルーツを持つヘロデもダビデの子孫ではありません。ヘロデ大王のお抱えの律法学者たちが持っていた聖書のミカ書5章1節は、「ベツレヘムは小さくないのだから救い主は出て来る」と書いてありました。ヘロデの統治下で再びダビデの子孫の大きい者、ローマ帝国すら覆す、ユダヤ民族の救い主を待望する機運が高まっていたのでしょう。その時代の雰囲気が、あるいは律法学者たちの反ヘロデ王家の主張が、本文を修正させています。否定詞の位置を一行上に動かして「出て来ない」から「小さくない」に変えたのはヘロデ時代の写字生です。

今年のクリスマスに私たちは以上の三つのミカ書5章1節から、どれを選び、どの聖書に尋ねるべきなのでしょうか。私は今述べた本文の変遷の歴史を踏まえた上で、現在の旧約聖書に記載されているミカ書5章1節こそがふさわしいと考えます。つまり、小さい者になることこそが統治することなのだという教えです。これは強烈な逆説です。

ハスモン王朝の独立も結局は鋤を剣に打ち直してなされた武力による平和です。独立する程度まで大きくなるための軍事力を肯定しています。ヘロデ王家もローマ帝国の大きな軍事力を背景に統治を許されたに過ぎません。マタイ福音書は元来のミカ書5章1節と一見正反対の言葉を残しながらも、大きくなろうとするローマ帝国や、そのローマの傘の下である程度大きくなろうとするヘロデ大王を批判しています。ベツレヘムが小さな村ではない、将来のユダヤ人の王がそこから生まれるということが、現在のユダヤ人の王ヘロデを脅かします。大きくなろうとする者は常に、自分より大きな者の登場を恐れています。

キリストの誕生は私たちが一般的に考える「統治」というもののあり方を揺さぶる出来事です。大きな権力を持つ者だけが統治することができると、私たちは思い込んでいます。確かに、人々を服従させたり人々の世話をしたりしながら、それによって得た利益を人々に分配するという「統治」の場合、大きな権力を持つ者が統治者です。この仕組みは民主政治体制であっても変わりません。ただなるべく権力を分散させるという点が異なるだけです。大きな権力を用いるという統治と、聖書の語る「神の支配」は根本的に異なります。

「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカによる福音書22章25-26節)。自分は小さい者になり相手を大きい者とすること、自分が上に立つのではなく相手の下に立つこと(understand)、相手を尊重すること。仕えるということが支配です。だから神の支配とは、「下に上る」という逆説です。

キリストの誕生は、この逆説を徹底的に突き進んでいきます。とうとう仕えるという行為すらもしない、世話をされるという形で統治するからです。人間の赤ん坊は何もできません。脳が大きいために、人間の赤ん坊はすべての動物の中で最も「早産」です。他の動物たちは生まれてすぐに立ち上がりますが、人間だけは一年ほど立つことすらできません。身体能力が著しく低いままでこの世界に出て来るのが人間です。生まれたばかりの統治者・救い主イエスは、ただ両親によって世話をされるだけの存在でした。時の権力者ユダヤ人の王ヘロデを脅かすことも、ローマ皇帝アウグストゥスを脅かすこともできません。赤ん坊のイエスはただ世話をされ、黄金と乳香と没薬というプレゼントを受け取るだけの小さい者になった神です。

これこそ預言者ミカが待ち望んでいた救い主の姿です。この統治者は命令をして人々を動かしません。せいぜい小さな泣き声を上げて、「おむつの世話をせよ」「お腹がすいた」というだけです。それを見て周りが、何をすべきかを自分で考えてこの統治者に仕えるのです。世話されるという形の統治は、統治される者が自分の頭で考える生き方を促します。それが救いです。博士たちもヨセフ・マリア夫妻も、赤ん坊のイエスに仕えることによってヘロデ大王に生命を脅かされますが、しかしヘロデを恐れてはいません。

わたしたちがイエスを救い主と礼拝する時に、十字架と復活の主と崇めるのが常です。この場合、イエスは十字架と復活という行為によってわたしたちを救い出したと信じられています。何かをしてくれる神なのです。わたしたちの人生の苦難に伴ったり肩代わりしたり(十字架)、苦難から解放したり(復活)する救い主です。そのような「大いなる方」としてイエスは主です。ところがクリスマスは、この常の状態に不協和音をもたらします。クリスマスのイエス、赤ん坊のイエスは、何もしてくれない神の子です。「小さくなった方」だからです。イエスがこれから大きくなるから目出度いのでしょうか。そうではありません。何もできない小ささに意義があります。その方を礼拝するということは見返りを求めないということなのです。それはキリスト教信仰の重要な一側面です。信仰によって損をするかもしれない決断を自分の頭で考えて行う、それによって誰からも支配されない生き方を全うすることができるからです。

今日の小さな生き方の提案は、赤ん坊のイエス・キリストを礼拝し、この「小さくなった神」に仕えるということです。わたしたちは今までの経験が通用しない状況に放り込まれています。確かな救いを誰が予測して言えるでしょうか。いつかパンデミックは収まるということは確実ですが、いつどのようにして収まるかは誰も分かりません。それまでの間、また、その後どのように生きるべきでしょうか。安易な復活・復興が語れない状況です。この時にクリスマスの礼拝が与えられていることに感謝をしたいと思います。クリスマスの主は「わたしは何もできない赤ん坊となったので、自分で考えなさい」と言います。そこに逆説的な深い救いがあります。自分で決めた生き方なら、何も恐れないでそのように生きるだけで済むからです。