幸い ルカによる福音書6章20-26節 2016年10月30日 礼拝説教

今日の箇所から6章の末尾まで、イエスの教えが続きます。いわゆる「平野の説教」と呼ばれる箇所です。マタイ福音書では丸々三章分もある5-7章の長大な「山上の説教」があります。ルカ版では場所が平野であり(17節)、マタイ版よりも分量が相当少ないものです(6章20-49節)。

新共同訳聖書の小見出しの下にある丸括弧囲みの「並行箇所」を見ると、この部分にはマタイだけが記されています。最古の福音書マルコがありません。マルコにはないマタイ・ルカ共通部分があるということです。福音書記者ルカの作業机の上には、三つの素材がありました。一つはマルコ福音書、二つ目にルカだけが持っている伝承(1-2章におけるバプテスマのヨハネの伝承等)、最後の三つ目にマタイと共有している伝承です(バプテスマのヨハネの説教、荒野の誘惑等)。これらを継ぎ接ぎしながらルカは自分の福音書を編纂していきます。

今までわたしたちはマルコ福音書との比較の中で、ルカ福音書の特徴をあぶりだしていきました。しかし、平野の説教においては、それが不可能です。マルコ福音書に並行箇所が無いからです。むしろマタイ福音書との比較の中で、ルカ独自の色合いがはっきりとしていきます。

マタイは十二弟子を選ぶ前に山上の説教を置きましたが、ルカは十二弟子を選んだ後に(12-16節)平野の説教を置きました。それによって、十二弟子も「大勢の弟子」(17節)も、イエスから直接見つめられ、語りかけられる「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」とされます。「平野の説教」の分量の短さは、ルカが教えよりも物語の流れを重んじていることによるのでしょう。マタイは物語の流れを止めてでも、長い「山上の説教」をイエスに語らせています。

さらに内容に立ち入ってみましょう。マタイ5章3・4・6・11-12節(6ページ)が、ルカ6章20-23節と共通しています。そしてルカ6章24-26節の「災い」の列挙はマタイにありません。幸福と不幸を一対にしているのがルカの特徴です。ルカが貧富の問題を好むということから推測すると、この部分はルカの付け加えかもしれません。学説の多くは、「元来は幸不幸が一対であったのをマタイが災いの列挙を削った」としますが、ルカが不幸の列挙を付け加えたという方がありえそうです。

わたしたちはルカ福音書を毎週読んでいるのでルカの立場を尊重すべきです。一対の幸福と不幸について、平野の説教の冒頭でイエスが聴衆に教えを述べていると考えるのが、ルカの立場を尊重するということになります。それはルカに福音書を書かせたルカの教会の信仰を尊重することでもあります。聖書各巻には読者がいます。ただの読者ではありません。出来上がった作品を礼拝で積極的に用いようとする信者としての読者です。その人々がルカに福音書を書かせているのです。ルカは、その人々を思い浮かべて、イエスに福音を十全に語らせます。イエスに「あなたたちは幸い」と言われたら、自分の隣人であるあの人は喜ぶだろうと思いを寄せて、さまざまな伝承を継ぎ接ぎしたり、自分の意見を加えたりするのです。つまり、ここで「あなたたち」と呼ばれている大勢の弟子とは、ルカの教会の会衆でもあります。

ルカ版のイエスの言葉は、現代の日本に住むわたしたちにも直接に語りかける神の言葉です。わたしたちがルカの教会と同じ信仰を共有しているからです。また、わたしたちが大勢の弟子たちと同じ境遇に立っているからです。また、イエス・キリストが、時空を超えて人間にとっての幸せとは何か、不幸とは何かを教えているからです。

貧しい人・飢えている人・泣いている人・キリスト信仰によって迫害されている人、これらの人々は幸いであり、富んでいる人・満腹している人・笑っている人・すべての人に褒められている人は不幸であると、イエスは語ります。この言葉は逆説に満ちています。逆説とは、一見するとあべこべのこと・矛盾に満ちたことを言っているように聞こえるけれども、よくよく考えてみるとその通りかもしれないと思えるような真理です。

一般的に貧乏は不幸です。少しでも経済的に不自由を感じた人は分かります。お金がないことは健康で文化的な生活をじゃまします。特にここで用いられているギリシャ語プトーコスという貧しさは、物乞いをするほどの赤貧のことです(20節)。だから、貧しいということは飢えに直結します(21節前半)。パンを買う金がないから飢えるのです。貧困と飢餓は感情と生命を奪います。

さらにイエスの弟子たちには固有の悩みがあります。自分たちの思想信条のために人々に憎まれ、ヘイトスピーチを受け、市民社会から追い出されることがあるからです(22節)。少しでも心の自由が縛られた人は分かります。したくないことを強制されることは不幸です。それだから、自分の内心・思想・信仰を理由にして迫害されることは、泣くことに直結します(21節後半)。人の心を捻じ曲げることは、仮に生命がかろうじて守られていても、魂を殺すことです。その時人には悲嘆に暮れて泣く以外の感情が奪われます。

貧しいこと・飢えること・泣くこと・思想弾圧を受けることは、明白に不幸です。一体どのような意味でこれが幸せと言えるのでしょうか。逆説の真理を知るためには、災い/不幸の列挙を見なくてはいけません。そして、鍵語である「今」という単語をヒントに読み解く必要があります(21・25節で合計4回)。「今」は、マタイには無く、ルカにだけある言葉だからです。

富んでいる人はなぜ不幸なのでしょうか。イエスによれば、すでに慰めを受けているからです(24節)。今までに自分の富を自分のためにさんざん使っているので、もう十分というわけです。つまり未来に向けては何の希望もないということです。丈夫な人には医者は要りません(5章31節)。イエスによる慰めが不要なので不幸であるということでしょう。自分も金持ちだった医者のルカが、富んでいる人は災いであると考えていることに説得力があります。富んでいる人の問題性は、「金だけ」「自分だけ」の生き方にあります。

金を持っていることは満腹することに直結します(6章25節)。しかし人生は流転の旅です。明日には物乞いに落ちぶれるかもしれません。社会保障等の社会全体の安全網が充実していない古代社会においては、一つの病気や後遺症があっという間に没落を招きます。突然飢えることもありえます。あるいは、明日には突然命が取り上げられるかもしれません(12章13-21節)。今満腹している人の問題性は、「今だけ」の生き方にあります。

すべての人にほめられることに何の問題があるのでしょうか(26節)。どんな人も褒められたいものですし、賞賛され名誉を得ることは悪くなさそうです。「全会一致の決議は眉唾物」と言われます。人間には多様な意見があります。事柄によってはどうしても賛成できないという少数意見もありえます。特に「これが真理だ」という主観的な話題について、思想の自由があるのです。あえて言えば、誰からも歓迎される意見は真理の名に値しないのかもしれません。すべての人に褒められたい人の問題性は、「軽さ」にあります。

この軽さは、今を消費する笑いに直結します(25節後半)。最近のバラエティー番組の多さにちょっと嫌気が指しています。そこで提供されている笑いは軽妙であり、テンポがよく、悪く言えば軽薄です。番組数としてあまりにも多すぎないかと思います。わたしが望んでいるのは、全国局で国会だけに特化した番組(すべての委員会を中継し、その日の委員会審議を要約し、分析する)、地方局で地方議会だけに特化した番組が、黄金時間帯に放映されることです。小池百合子さんの動向だけが都議会ではないはずです。

大手報道はスポンサーである広告大企業の意向にしたがって政府を批判する報道を控え、軽薄な番組を多用しています。ここにも「お金だけ」の問題が見え隠れします。ニュースでさえ選んでいます。それによって劇場ばかりを笑って喜ぶわたしたちの心はすでに操作されています。この現象の行き着くところは大本営発表の再来でしょう。その時、今だけを消費して笑っている人も、思想の自由を奪われ泣くこととなるのです。

今だけ・金だけ・自分だけ、この軽さに未来が無いし、希望がありません。だから災い/不幸なのです。富んでいる人を不幸と言う一方で、イエスは富んでいる人にとっての幸いな生き方も別の箇所で示しています。持っている物を売り払い、貧しい人に分けることです(18章22-25節)。富んでいる人が今だけ・金だけ・自分だけを克服するならば、幸福な生き方もできるでしょう。

今日の箇所の前半20-23節においても幸福/幸せというものは、今だけ・金だけ・自分だけという軽さに対抗するかたちで語られています。金だけではない、神の国がある、つまり仲間がいるということです(20節)。「神の国は見える形で来るのではなく、見えない形、つまり信頼できる仲間同士の関係という形で、あなたがたの間にある」とイエスは語っています(17章20-21節)。仮に少数者になって、憎まれて悪口を言われても、仲間や先輩がいるのだから乗り越えられます(22節)。自分だけではないからです。

「満たされる」「笑うようになる」(21節)は共に未来形で書かれています。今がどん底である人にとっては、必ずV字回復が起こるのです。経済的に没落させられ感情も奪われている人、魂までも殺されて涙を流す人にとって、「今」という時は最低最悪の時です。「今だけ良ければそれで良い」という軽さを持ちようがありません。今が悪いからです。しかし、正にそれゆえにこそ、倫理的な高みと思想的な深みを得ることができます。「今だけ良ければそれで良い」という考えを予め捨てることができるからです。

問題はこの最悪の貧困による飢餓・弾圧による悲嘆が、いつまで続くのかという問いです。イエスは「明日あなたは満たされ笑うだろう」などと期日を定めて語りません。近視眼的な期待は、それが外れた時に大きな反動としての絶望をもたらすからです。ナチスの強制収容所において、「明日解放される」というデマがユダヤ人の間で起こり、その期待が外れた後に死者が急増したと言われます。わたしたちに必要なことは、期待ではなく希望です。

いつ達成されるか分からない未来に希望を持つことが、使い捨て時代の軽さを打ち破る力となります。理想を高く掲げ続けると言っても良いでしょう。すべての人が貧困状態から脱し、世界中の全員が満腹し、どんな人もどんな理由によっても差別されず、不条理な涙が拭い去られるという理想の社会を希望し続けることです。この理念なしに、「必要なパンを毎日ください」という祈り、幸福を追求する行為はありません(11章3節)。幸いな生き方とは、分かち合う仲間と共に、希望を持って生きるということにあります。教会の営みです。

今日の小さな生き方の提案は、イエスの語る意味で幸せになるということです。今だけ・金だけ・自分だけという軽さを乗り越え、永遠に続く重みを受け継ぎましょう。希望と未来です。これらによって自分の満腹は得られなくても、わたしたち全体の満腹への祈りと行動が生まれます。希望が人を生かす力です。